番外編2章20話/花見盛恭三郎君の憂鬱(花見盛) - 2
『どこかへ旅行に行きたい』と、サトーは唐突に言い出した。最初は冗談かと思った。そう思うに決まっていた。ラデンプール戦の後処理はまだ終わっていなかったのである。例えば捕らえた蛮族をどう遇するか。占拠した奴らの居住地をどのように活用するか。ラデンプール周辺の地形を地図化するための冒険も立案して実施せねばならない。否、このようなことならまだ見栄えがしてやり応えがあるからいい。シンドいのは散文的な作業だ。
例えば、今回、俺たちは戦費を後払いにしていた。急な出征で先払いが難しかったからだ。それはいい。已むを得ないことだ。
戦費の決済方法は簡単だ。支払い相手には先に手形を渡してある。奴らはそのまま俺たちのところに手形を持ち込むか、さては、各地の商会に記載額の何割かで買い取って貰う。商会はその手形を根拠に俺達や俺達と取引のある業者から取り立てを行う。為替方式である。サトーの現れる以前からブラスペ界に普及していた方式だ。
『簡単で、しかもこれまでも使われきた方式なら、そう面倒はないんじゃないか?』――残念ながら。
為替が成立した背景にはレイダーの台頭がある。この時期、ブラスペ内の通貨は純粋な鋳造貨幣、金とか銀とか銅とかを原料とするそれだった。貨幣それそのものが価値を持つとされていたのである。各都市は主に印刷技術が足枷となって兌換制度を完成させていなかった。(ああ、ちなみに、ブラスペ世界における貨幣の成り立ちと役割は完全に商品貨幣論のそれであることを断っておく。更に補足しておくと、鋳造貨幣もまた印刷技術と同じように不完全だったので、貨幣によってその価値にかなりの差があった。極端な話、AのコインとBのコインではその実質価値にニ倍の差があることもザラで、いわゆる“悪貨は良貨を駆逐する”状態が起きつつあったが、ソレはまた別の話になる。その話の主人公は俺でもサトーでもないしな)
で、そうだな、ダババネルがウェジャイアから大量の鉄鉱石を購入したとする。このとき、ウェジャイアからやってきたキャラバンに、じゃあコレがお代ねと貨幣(正貨)を渡したとしよう。キャラバンは無事にウェジャイアまで帰り着けるか。着けるはずがない。レイダーに狙われてしまう。
無論、キャラバンとて元から護衛を雇ってはいるけれど、荷が荷だ。レイダーも頭数を揃えてくるだろう。その頭数に対抗するための頭数を揃えると利益が出なくなってしまう。或いは、車列が長くなり過ぎて、まともに納期を守れなくなってしまう。為替はこれらの問題を解決するために発明された。
……とはいえ、取引は三都市という狭い枠組みの中で行われていたから、発行高はそう多くはなかった。また、都市が形成されるようになって初めて必要とされたシステムでもあるので運用実績が浅かった。偽造対策を中心にアチコチに改善の余地があったのである。
そんな状態下においてサトーは手形を乱発した。自前で用意し切れない馬車をレンタルした某商会に、食料を購入した村々に、その食料を所定の位置に搬入させたある業者に、――枚挙に暇がない。ラデンプール戦だけで、コレまでの一年半に発行された手形、実にその三割に相当する量がばら撒かれた。
資金的には問題がない。レイダーから得た戦利品はようやくのことで捌け始めていた。三都市同盟金庫を頼ることも可能だ。焦点は窓口対応に当てられていた。
物凄く正直な言い方をするならば、殺到する業者に対して、窓口がパンクしつつあったのだ。無理もない。各業者はただでさえレイダー戦でラザッペが潰れて――取引相手が減ったことで――それなりの損失を受けている。目先の金には飛びつく。俺達の方も件の難民問題だなんだでまだまだ人手不足だったしな。
しかし、サトーのばら撒きには、破綻寸前の業者を救済してやることで恩を売るという側面もあったから、対応が後手後手になるのは喜ばしくない。ならばとりあえず商会に買い取って貰えと斡旋しようとしても、各商会、手形が万が一にも不良債権化することを考慮して及び腰になっていた。これも無理はない。前例のない発行高にビビっているというのもあったが、一部の手形に記載されている額面、それが余りに大き過ぎるので不安になっているのだった。
手軽に使えるATMどころか銀行すらまともに機能していないのがブラスペ世界である。地元の商会が買い渋るので、仕方なく、遥々とリッテルトからダババネルに来ましたなんて業者も現れた。奴らに『今日は払えません。順番です。列に並んで五〇〇〇年ぐらい待ってチョ』とか言った日には大変なことになるだろう。
差し当たり、先手を打って、窓口が崩壊する寸前のところで、
『オタクはこの日に払うから。支払い方法はこれこれで。君のところはこうね。お前はこうです。もし何か手違いがあるときはウチではなくて地元の行政部に持ち込んで下さい。それでも埒が明かないときは次のメールアドレスまでよろしく。あ、SNSアカウントもありますんで……』
ダババネルの方から各業者に連絡することで危うきを免れた。電話の便利さを噛み締めたよ。俺たちは。マジで。今は西暦何年の何月何日だ?
『サトーも言っていたが、本格的で抜本的な、そうだな、組織刷新が必要だな。もっと頑丈な行政組織が必要だ。でなければ戦いの前後でこんな風に苦労することになる。戦いに勝てたところで意味が無くなる』
加藤先輩などはそのように語っていた。彼はサトーから信用されていたので、手形騒動、その舵取りを概ね任されていた。言わずもがなの激務で目の下にはクマがクッキリ、ただでさえ薄い肉付きがミリ単位にまで薄くなり、頬はコケて、弁護士風の出で立ちは骸骨のようになったけれど、不思議と活き活きしていた。『面白いな』と零したことすらある。『面白いな。ブラスペがこんな風に変わるとはな。これまでは興味のなかった分野に関心を持つようになったよ。この分野を突き詰めると何か出来そうだな』
『何か出来るようになる前に死にますよ、先輩』
『なあに。死なないさ。もう高木が死んだから。それに俺は死ななきゃならないような悪さはしてない』
こんな砌だぜ。旅行に行きたいは流石に無茶だ。無茶のはずだった。サトーは、結局、我を押し通してしまった。