2章9話/世を埋め尽くすのは天国と地獄に最も近い人々
「左京君」
己が何枚かの書類を蹴散らしたときだった。応接セットに凄まじい量の食品を広げた達人が控え目に言った。トマトに魚肉ソーセージにビスケットに牛乳にコンビーフに――。「素晴らしい食生活だな」
達人は苦笑した。「左京君は何を食べてるの。近頃」
「それは」己はギクリとした。「うまいこと発明したんだ。フランスパンにメンチカツを挟んで食べてる」
半分は嘘である。たまに、己が家に服などを取りに帰ると連絡すると、畜生、自分も忙しいだろうに妹は弁当だの軽食だのを用意している。達人はわざとらしく頷き、古い新聞を襟元に押し込んだ。ナプキン代わりらしい。
もうすぐ六月だよ。達人はトマトを齧りながら言った。「お婆さんの命日は来週だね」
「己は行かないぞ」
「わかってるよ」
「なら言うな」我知らず己は剣呑な声を出した。
「で、でも右京ちゃんは行くんだろう」
「行きたいやつには行かせるさ」
「かもしれないけどさ」
「そもそも己が休みを取れると思うのか」
「半日なら取れなくもありません」
古はたった一月で使い込まれた手帳を手に言った。己は舌打ちした。謝る。だが行きたく無いものに行かされてたまるか。人の家庭事情に割って入るな。
――ならばなして、己は花屋の軒先で見知らぬ爺様に泣き付かれているのか。理解が不能である。全て妹が悪い。今朝の時点で、己、墓詣りに行くつもりなど毛頭なかったのだ。だがどうしても、あの、いまにもバタンキューしそうな妹を見捨てて自分だけ寝ていることが出来なかった。
この爺様は何か。わからない。こちらの言うあらゆることを無視して駅まで連れて行けと強請っている。ボケているらしかった。周囲からの目線が痛い。駅前だから人通りが多い。
暑かった。息絶えた五月に代わり、自己紹介もなくやってきた六月は熱血漢に過ぎた。五月は五月で陰気な野郎だったけれども、暦め、この中間ぐらいのメンバーはいないのか。なんなんだ。六月は七月にコンプレックスでも感じているのか。だとすれば六月も大変だな。ええい、よくわからんが泣きそうだ。
「どうかしたのか」
往生していた己に二人目の闖入者が話しかけてきた。まるで歩く前時代だ。ポンパドールにリーゼントの彼は己の覚束ない説明を聴いて「わかった」と頷いた。「とりあえず俺が警察へ連れて行く。それで?」
しくはない。リーゼントは爺様の手を掴んだ。周囲から向けられる目線の色が――『なにあれ虐待?』――変わった。慣れているのだろう、気にする素振りもなくリーゼントが歩きだしたところで妹が出てきた。
やにわ、妹を認めた青年が足を止めた。爺さんの手を掴んだまま頭を下げた。俺はその唐突なのにビックリした。妹もだ。彼は「応援してます。失礼します」と言い残して去った。周囲からの疑いと好奇心はいや増した。彼らの中にはリーゼントの後ろ姿を撮影している者までいる。
お前はアイツと知り合いなのか。己は妹に尋ねた。妹は菊を胸に抱きながら頬を掻いた。「私は彼を知っています。でも、彼の方で私を知っているとは」
なんだそれは。疑問ではあるが追求するのも手間だった。己たちは先を急いだ。
集合墓地への道すがら、大層、狼狽している御婦人を見つけた。彼女は『ウチのお父さんがいなくなったんですよ!』と大騒ぎしていた。気になって、もしや、こういう人ではありませんかと話しかけてみた。すると御婦人は『なんでココまで連れてきてくれなかったんです!』と己たちをキツく詰った。
腹はそれほど立たなかった(あくまでも『それほど』であり、立たなかったわけではない)。
彼女自身、腰の曲がった、まもなく介護を必要とするだろう六〇格好の高齢者だったからだ。