番外編2章14話/トムとジェリー(花丸)
「真後ろにスポーンした?」
私はメガネを外しながら驚いた。言い換えるならば真剣に驚いてはいなかった。「敵が真後ろにスポーン。追加で。でもサトーは別働隊を用意してたんですよね。それに敵の攻撃なんて少しぐらい食らってもへっちゃらだったんじゃ。――あ、しまった、メガネ拭きをどこにやったかなあ」
「それがそうでもなかったんですよ」井端さんは軽装だ。持ち物らしい持ち物はハンド・バッグしかない。上品でこぢんまりと纏まったデザインは高級品の予感である。ブラスペでさぞかし稼いだのか。玉の輿でも捕まえたのか。そういえば井端というのは、展示物にもチラホラと名前が出ていた通り、サトーの手下、手下? 手下って言ったら不味いよね? 部下? そもそも学生で上司とか部下ってさあ。まあいいけど。私が手下とか部下になるんじゃないんだし。
兎にも角にも、あの井端とこの井端さん、関係があるんだろうか。写真で見る限り、あの井端の隣には何時もオタサーの姫みたいなお姉ちゃんが並んでたけど。面影があるような。ないような。
井端さんはバッグからハイソなメガネ拭きを取り出して、どうぞと、親切にも貸してくれた。有り難く使わせて貰う。目が“3”みたいになってんだろうな、今の私。
「我々の隊列の後方には馬車群が控えてまして。後方って言っても一キロ近く距離があった。敵がスポーンしたのは、丁度、その馬車群の向こう側だったんです。私らと敵らで馬車群を挟み込む形になったといいますか」
「馬車群」私はオウム返した。メガネ拭きの生地は、なんだろうコレ、薄くて丈夫で伸びるけども。メガネ拭きにこんな繊細な模様を刺繍する必要ある?
「馬車には食料が満載されていました。敵に勝っても馬車が倒されるか奪われるかしたら帰るに帰れなくなるかもしれません。で、馬車自体は簡素な作りですし、馬は連中の武器でも簡単に殺せますからね。殺さなくとも攻撃すれば暴れたり逃げたりしますし」
「ああ。そういう。馬車に護衛とかは付いてなかったんですか」
「戦力に余裕がなかったですからねえ。付いてなかったですね。ほんの少しだけしか。元々、まさか敵が追加でスポーンするとは見込んでいなかったので」
「アレですか」私はレンズを眩い照明に透かした。汚れは綺麗に落ちていた。「護衛に付いてたのは何か問題のあるメンツだったんスか?」
「端的に表現するならそうなりますね。問題のあるメンツでした」
井端さんはニッと笑った。不敵というか、言葉を選ばないならば人を小馬鹿にしたような笑みには、どこかで見覚えがあった。どこだっけ。
「でも、それがあっても、楽勝だったんですよね?」私は何となく念を押した。
「ええ。楽勝でした。サトーは冷静でしたからね。対応が迅速でもありましたし」
またばきをした。パチパチと。何度も。続けざまに。私は。唇を舐めた。乾燥はしていなかった。メガネを、もう一度、丹念に照明に透かす。やはりもう汚れていない。それでも改めて拭き直した。何かが心の端に引掛り始めていた。
ええと、なんだろう、違和感、そう、そういうものがあって、んー、――なんかこの人、嘘っぽい?
あ。私は呟いた。井端さんは小首を傾げた。愛想笑いで誤魔化した。メガネを掛け直すかリュックに仕舞うかで酷く悩んだ。クリアな視界を取り戻してこの人を直視するのが怖くなっていた。薄い化粧の下にこの人は何か闇のようなものを隠している。裏がありそうな予覚もある。推理小説の登場人物になった気分だ。しかし、何時もそうするように、オチのページから先に読んで『へえー』とすることはできない。人生は、物語ではあるけれど、本ではないからだ。
“嫌いで好き。好きで嫌い。どちらかは分かりませんけど。尊敬はしていました。”――井端さんの言ったこの台詞が不意に思い出された。何故か詩乃の顔が脳裏を過ぎった。私は溜息を吐いた。井端さんはいよいよ訝しげである。私はメガネを掛け直した。
「すみません、エー、あの、持病のボーッとしちゃう症候群がですね、アレしまして。話の続き、聴いてもいいですか?」
井端さんは嬉々として語り始めた。私は彼女の心積もりを察し始めていた。