番外編2章4話/花に嵐の喩えもあるぞ(花見盛)
それは冬の一日だった。示唆的なものを感じなくもない。文学的文脈だ。何の前触れもなく舞い込む昔の恋人からの数年振りの連絡――と来たら、悲喜交交、オチがハッピーであるにせよバッドであるにせよ、誰もが予感するはずだ。物語が始まると。春が来ると。
そうはならなかった。それはついに物語には足りなかった。ほんの少しだけ何かが足りなかった。それは単なるイベントとして消化された。俺がそのように事を運んでしまった。
キッカケは警察からの電話だった。もうこの時点でロマンスの香りはない。その頃の俺は既にあのアパートを引き払っていた。社会人になって一年余りだった。当時はある雑誌社に勤めていた。勤めながらブラスペやサトーに纏わる本をチョイチョイと書いていた。尤も当時の著作の内容は、否、著作なんて御大層なものですらない、俺の書いた原稿はコンビニ本の何ページかに変身しただけだった。その状況に言い様のない不満と苛立ちを感じながらも俺は漫然と生きていた。
『花見盛恭三郎さんですね?』と、俺を朝の四時に叩き起こした巡査は、権柄尽くな態度を隠そうともしなかった。俺は寝酒を飲まないと眠れないようになっていた。何時も起き抜けは頭痛がしていた。巡査の声はその頭痛を劇しくした。俺は相手に倣って不機嫌を隠さないまま何ですかと尋ねた。
『権上かなでさんてご存知ですか』巡査は非協力的な姿勢は関心できないとでも言いたげな調子で尋ねた。
「権上かなでが何かやりましたか」俺はと言えば万年床の上にバッと起き上がっていた。無様だなと自嘲しながら更に訊いた。「なんです?」
『いや身元をウチで預かってるんですけどね』
巡査は俺の様子から何かを誤解したらしい。納得したような、それでいて人を馬鹿にしたような、一種の優越感を滲ませた声で続けた。『誰も他に身元を引き取りに来てくれる人が居ないもんですからね。身内はどうしても駄目だと本人がゴネるし。出てきたのが貴方の名前なんですよ。ホラ、ねえ、彼女、アレでしょう? コチラも困ってんですよ。障害者相手に手荒にする訳にもいかないんだから』
直ぐに行きます。俺はそう返事をした。電話を切った。スマホを壁に投げつけたくなった。で、そうした。画面が割れた。知ったことか。ありとあらゆることがムカついていた。とりわけ巡査の口振りが気に入らなかった。警察は正義の味方ではない。それは充分に弁えている。彼女が自殺したときに我が家に踏み込んだ刑事、鑑識、奴らもろくでなしだったからな。だとしても腹は立つ。ポリス・メンだのポリス・ガールなのにまともな奴なんて一人もいないに違いない。畜生め。
俺は側頭部をバリバリ掻いた。それから乱暴に服を着替えた。散らかった四畳半の安アパート、その玄関を、業務用の五リットルの焼酎をボトルのままグーッと呷ってから飛び出した。飛び出すなり足を滑らせた。顔から派手に転んだ。外は一面の銀世界だった。布団をそう重ねて被っている訳でもないのに、まして昨日は下着のままで寝たのに、どうして俺は凍死しなかったんだろう。素直にそう疑問に思った。凍死してればこんな醜態を晒すこともなかった。別に誰が見ている訳でもないけれど。
始発から何本か乗り継いだ。乗り換えれば乗り換えるだけ妙な焦燥感に胸を焼かれた。白い息が口から立ち昇るのが信じられないぐらい、身体はホカホカ、体温は高くなった。頭痛も相変わらずしていた。心臓がバグンと鳴る度に頭がズキンと痛んだ。つまり一秒に一度は酷く痛んだ。トヲキョヲは眠らない。俺はこんな朝早くから電車に乗り合わせた何十人かの人々、彼らを、何の悩みも無い馬鹿だと決めつけて疑わなかった。羨みすらした。その精神状態のままシンジュク駅で降りた。陽はまだ登っていなかった。俺はダンジョンを駆け抜けた。アイツは何を慌てて走っているんだと、すれ違う度、俺を興味深そうに見やる全ての人々が憎くてたまらなかった。――――
再会は感動的でなかった。やあと彼女は言った。俺は返すべき言葉を持たなかった。
サトーは署の三階の一室に閉じ込められていた――と言うと剣呑に過ぎる。暴れる訳でもない。暴れられる訳ですらない。そんなサトーを閉じ込める必要などない。車椅子に乗せられて、迎えが来るまで、そこに放置されていたのである。全く放置だった。部屋には監視すらいなかった。俺をその部屋まで案内した受付の姉ちゃんは、少し話でもされてから帰ってください、帰るときは私にまた一声掛けて下さい、もしアレなようなら呼んでください、そんなようなことを、やたら手首の時計を気にしながら、それでも笑顔で言った。俺は笑顔で返事をしてやるべきだった。入り口でボーッと立ち尽くしていた。姉ちゃんにあのと顔色を伺われて、初めて、ぎこちなく、
「ああ」このように言った。「平気です。どうも。話ですね」
姉ちゃんは訝しむというよりも俺を心配するような目付きをしたが、結局、俺とサトーを二人にした。俺のアパートよりも手狭な部屋で俺はサトーと差し向かいになった。二人の間にはこんな大きさで何の役に立つのか分からないテーブルだけがあった。要するに俺は、身を乗り出せば、サトーに触れられる距離にいた。
「髪を切ったな」久方振りに逢う女性に対して変わったと指摘するのは変わらないと評価するよりも良い。そんなようなことを思いながら言った。
「まあね」サトーは俺が現れてから口元を綻ばせ続けていた。別に俺の顔が見られて嬉しいとかそういう訳ではないらしい。目が虚ろだった。嫌なことが相次いだから笑わずにはいられない。そういうときの笑いにそれは似ていた。
「ロング・ヘアは」サトーは長く櫛っていないらしいボブ・カットを撫でた。「自分ではもう手入れ出来ないからね」
俺はサトーの雰囲気と口調に纏わる違和感を言語化しなかった。すればそれだけで、二人の間で、何か緊張しているものが切断されてしまうと直感していたからだった。第一、あれだけのことがあって、――三年も一緒にいて苦楽を共にした仲間たちに、お前は俺たちを裏切った、お前のせいで俺の人生は台無しだ、信じていたのに、そう責められた挙げ句に学校の屋上から突き落とされてみろ。下半身不随になってみろ。誰だってこうなる。あのとき死んでいた方がマシだったと考える余裕すら彼女にはないように見えた。(極限まで追い込まれた人間は死ぬことすら厭うようになるのではないか。俺はそう考えていた。全てがただただどうでも良くなる。何をするのも疲れる。死ぬことすら疲れるからしたくなくなるのだ。こういう人間は死にたいなどと考えない。自動的に消え去りたいと願う。もしそれを我儘だというならそうなのだろう)
「今日はアレらしいな」
俺は努めて穏やかに切り出した。「酔って町中で倒れてた上、起こしてくれた警察官に、なんだ、食って掛かったって?」
「そういう日もあるだろ」サトーは困ったように眉間に皺を寄せた。あくまでも笑顔のまま。
「ない訳じゃない。俺も」俺は胸が締め付けられるような気がした。苦笑した。いますぐコイツの手を取って連れ帰るべきだなと思った。
「でも君は元気そうだ」
「そうでもないさ。お前は」
「元気ならこんな羽目にはなってない。少しは頭を使うことだね。飾りじゃないだろ」
「おやおや。何だか安心したな。お前、昔と、そう変わってないところもあるらしい」
俺は溜息を吐いた。口の中が変に乾いていた。頬を窄めた。膨らませた。再び溜息を吐いた。
「仕事は?」俺は核心を突けなかった。臆病な回り道をした。
「まだ学生だよ」サトーは事も無げに言った。
「学生」俺は驚いた。「留年したのか」
「そう。まだ三年生だ。卒業はまあ出来ると思う」
「お前が単位を落とすとは」俺は何故かイライラした。遠慮を忘れて言った。「酒浸りだからか」
「それもある」サトーは肩を震わせて笑った。「それもあるけどね。講義を受けに行くと周りから向
けられる目と親切に耐えられない。あとはお金の問題もある」
「金」俺は今度は遠慮した。サトーがわざわざ“あとは”と金の話を付け加えた理由を踏まえてのことだった。泣きそうになった。お前がそんな風に話すなんて。弱さを露骨に見せてくるだなんて。強がりもしないなんて。俺はしこたま稼いだじゃないかと言った。高校生には過ぎた額をと言わないでいいことまで言った。泣きそうなのにキレそうでもあった。
「みんなを売ってまで得たお金だったんだがね」サトーは会心のジョークだと言わんばかりの表情だった。「気が付けばコレだ」
サトーは右手で作ったグーをパーに変えた。「色々とあった。そのお陰で家族と同居できてはいる。危ういところで死なずには済んでいる。一応、空気があって、暖かくて、ボーッとしてても食事が出てくるような生活をしているが、それだけだ。家族も家族で私に自動的で義務的な善意を向ける。残念ながら。まあ報いだよ。然るべき報いだ。甘んじて受ける他にない」
俺はテーブルの下で両手を組み合わせた。サトーが話していることはどこまで本気か。半々なように思えた。本気でそう考えている面もある。そうでない面もある。俺は悩んだ。俺は、サトーが藤川らに暴行を受けたとき、そうされると知っていて、実は何もしなかった。俺からしてサトーと気不味くなっていたからだ。それに俺も怒っていた。サトーが俺たちを売って、八百長で会戦に負けて、それでスポンサーから金を受け取ったことをあまりにあまりだと考えていた。それで進路を絶たれた仲間たちもいたのだ。少しぐらいは痛い目に遭うべきだとも考えていた。藤川らがあそこまでするなんて予想だにしなかった。言い訳だな。俺はどうもまだサトーに未練がある。負目もある。可哀想だとも(本人がそう思われたくないとしても)思う。連れ帰るだけでは足りない。責任を取ってもいい。
一方で、何が甘んじて受けるだ、受けてないじゃないか――とも思っていた。甘んじて受けているならばこんな騒ぎは起こすな。普通に講義に出席しろ。笑いものにされながらでも生きていけ。お前はあれだけのことがあっても根底ではやはりサトーのままじゃないか。反省してないんじゃないか。ある意味では自己防衛だった。このままコイツとの縒りを戻す。するとまた裏切られるのではないか。コイツは俺にすらあの八百長を相談しなかった。何もかも秘密で進めた。そういうことがまた起きないとも限らない。裏切られるか。裏切りという形容がまず正しくないのかもしれない。
「家まで」俺は俺の胸の中の不確かなものに頷きながら言った。「送るよ」
サトーは目を伏せた。生唾を飲んだ。「いまは君はどこに住んでるんだ?」
「そのうち教えるよ。また会いに行く」
サトーはパッと笑った。帰り道、奴は、少しだけ昔のサトーだった。