番外編2章2話/時には昔の話を(花見盛)
昨今の中高生はどのようなものを好むか。特に飲食物の嗜好について俺は通じていない。第三次タピオカ・ブームが起きているのは知っている。存じ上げていますとも。それでもタピオカは好かない。どうしてもサトーを思い出す。アイツと来たらスヤスヤと眠っている俺を夜中に起こす。一瞬だけ申し訳なさそうな表情を閃かせる。閃かせるだけだ。それ以上、弱い部分を、恥ずかしい部分を、俺にすら見せることを、アイツは良しとしなかった。(もちろん俺はその点について不満を持っていた)
『花見盛君』不貞腐れた表情をどうにか拵えたサトーは言う。
『タピオカを煮て。いますぐ。それか冷凍のヤツでもいいから解凍して』
『二時だぞ』俺はどんな返事が返ってくるかを十二分に承知しながらもとりあえずボヤく。
『二時だからでしょ』と言い切って、サトーは人の悪い笑顔をニッと浮かべる。俺はその笑顔が好きだった。遠慮も屈託もない。そのように笑うとサトーはむしろ美人でなくなる。些か不細工になる。それが可愛い。可愛い以上の理由もあった。俺はサトーに我儘をぶつけられるのが好きだった。それだけ俺に甘えてくれているという事実に酔っていた。俺は仕方ない奴だなと呆れた風を装う。いまにして思えば二人ともお互いの心境について完全に把握していた気がする。何を隠す必要があったのか。何を照れる必要があったのか。俺たちは俺たちの間でだけ成立する一種の暗号ゲームに夢中になっていたのかもしれない。
若かったと言えばそういうことになるのだろう。しかし、あの情景と、その情景を見る度に必ず感じた情熱をただの青春と切り捨てることは俺には出来ない。他人がする分にはどうでもいい。好きにして欲しい。興味がない。ただ俺には出来ない。
そのサトーとは、もう、かれこれ一五年近く逢っていない。アレと最後に顔を会わせたのは俺が大学を出た直後だった。
「大学は」蕪城詩乃君は遠慮がちに尋ねた。ダイニング・キッチンのカウンター越しに俺と彼女は向き合っていた。彼女はまずまずの美少女と言って差し支えない。昔の、何かとお盛んな頃の俺であれば仔細に観察したに違いない彼女の容姿、その方向性は地味系である。地味系の美少女は希少だ。どれだけ目鼻立ちが整っていたところで目立たないからである。彼女の唯一の主張らしい主張、自己表現は、ワンレン風のショートヘアの色が茶なことぐらいだった。制服も着崩していない。ピンというよりも凛と伸びた背筋と態度からして育ちも悪く無さそうだ。これで七導館々々に通っているということは彼女もまた訳ありに違いない。
「どちらだったんですか。――あ、訊いて良ければなんですが」
「椎応大学だよ」俺はとりあえず珈琲で妥協することに決めた。あの当時から今に至るまで執念深く、或いはみっともなく、使い続けているミルに豆を注いだ。
「椎応大学でしたか。法学部でしたよね。名門ですね」
「どうかな。推薦だしな。その推薦もサトーのお陰で出たようなもんだ。俺だけでない。俺の世代はみんなそうだったよ」
俺はガガガガと耳障りな音を立てる年代物のミルの表面を撫でた。露骨過ぎるかなと案じたものの尋ねることにした。「君は大学へは?」
「行きたいとは思っています」蕪城君は言葉を濁した。
「そうか」俺は話題を改めることに決めた。「それにしても君が本当に訪ねてくるとは思ってなかった」
「ご迷惑でしたか?」律儀な程に蕪城君は顔を顰めた。
「いや。確かにウチへ遊びに来てもいいというのはリップ・サービスというか、まあ、社交上の礼儀として言ったことだったんだが、それでも言ったことは言ったことだ。自分で言ったことには責任を持つ。もう良い歳だからな。それにサトーに関する話の出来る相手は、正味、このところ少なかったしな。誰にでも思い出話に花を咲かせたいときはある。それも当時のことを知らない相手に。知っている相手だと遠慮と気兼ねがあるんでね」
少女は乾いてもいない唇を舐めた。俺の言っていることの意味が理論としてではなく実感として理解できるらしい。よっぽどの苦労を、やはり、重ねてきたらしい。俺たちが若かった頃と今とではまた時代が違う。生き辛さは日に日にいや増すばかりだ。大人は気楽なもんさ。自分で責任を取れる限り独立していられる。学生の大半はそうではない。彼女もまたその一人ということなのだろう。
「さて」ミルが重労働を終えたところで俺は手を打った。外国製の拘りの戸棚からカップを二つ取り出した。そのカップも外国製だ。白磁である。それへたてたての珈琲を注ぐ。お上品に。並々とではなく。ソーサーに彼女が持ってきた腹切最中を添える。ソーサーを両手に持ってリビングへ。
我ながら。キッチンから出たところで俺は苦笑した。趣味が悪い。
我が家はトヲキョヲの、一応、そこに住むことがステータスになっている地区の、それも駅前にある。タワー・マンションである。流石に上層ではない。かといって下層でもない。窓辺から大都会を睥睨することはまあ出来る。テラスで飲むビールが――多分に世間への優越感で――美味いと感じるぐらいには高いところにあった。
だからリビングは素敵に広い。単身者の、それも後半とは言え三〇代の男が、ボーッと暮らすには分不相応である。俺はこの部屋をサトーを自分の掌から世間に売り渡して得たものだと信じていた。信じているから部屋の内装にはトコトン拘っていた。洒落た、それでいて下卑た、成金趣味であればある程に、毎日、リビングに足を踏み入れる度に自分が大した男ではないことを思い出せるからだった。
「無駄話はこの辺りにしよう。君が望んでいる話をしようか。特にどんな話を聞きたくてウチに来た?」
俺は蕪城君と差し向かいに座った。テーブルはその表面に年輪の目立つ木製だった。木から荒っぽく切り出されて削られたそれは、四角くも丸くもなく、リアス式海岸のような輪郭を持つ。蕪城君はその輪郭を指で頻りに撫でていた。落ち着かないのではない。癖らしい。俺が差し入れた珈琲に有り難そうに口を付けて、形式上、美味しいですと礼を述べてから、
「その後です」と自分の手元を見詰めながら言った。
「概略は花見盛さんから頂いたテープと、それと自分でアレコレ調べたので、凡そ理解しました。知りたいのはサトーのその後です。いまどこで何をしているか。それも出来れば。でもそれ以上にサトーと貴方達が仲違い、と言って良いのかわかりませんし、失礼かもしれないですけど、それをしてからどう生きてきたか。もちろん仲違いした正確な理由や経緯についても」
俺は首筋を掻いた。「君はそれを知ってどうしたいんだ。君が俺にくれた手紙には芸術のためと嘘が嫌いだからと書いてあったな」
「小説にします」蕪城君は俺の方を見て言った。何気ない口調だった。目は割と狂っていた。
「実名で?」
「流石にそれは。しかし読む人が読めば分かる形で。それ以上は望んでいません」
俺は溜息を付いた。と、同時に、彼女に対する値踏みを終えてもいた。俺はもう子供ではない。否、ガキの頃からしていたことではあるが、相手がどの程度まで信頼できるか、頭が良いか、口が硬そうか、それ次第で話す内容を変える傾向が、このところ強くなってきていた。(そしてそれに罪悪感を感じるほど幼稚でもなくなっていた)
馬鹿には何を話したところで仕方ない。平たく言えばそうなる。彼女は馬鹿ではない。
「知ってるよな」俺は匂わせた。
「花見盛さんのことであれば」彼女は俺の望む答えをくれた。
「ならいい。そうだ。俺の職業は恥知らずにもジャーナリストで作家だ。俺はこの十数年、サトーやブラスペに関する本や記事、嘘に塗れたそれを書きまくって今の地位を得た。この家も。名声も。サトーを真実から遠い神のように書くことで。あのサトー展に大量の映像や写真を貸した理由も、テープで俺は『俺とサトーの関係がこうなったからこそサトーのイメージを世間に対しては高潔にしておきたいから』だなんて言ったが、それより深いところで、君なら分かってくれるだろ?」
蕪城君は頷いた。容赦のない頷き方だった。なにしろ迷いがなかった。尋ねた瞬間に間髪入れずに頷かれるとは。いやはや全く。俺が深く関係を持つ女性はみんなこうだ。俺よりも強かだ。それでいて俺よりも弱い。それなのに俺を頼ってくれない。だから俺はお前らが好きで嫌いで憎んでいるんだ。真実を俺だけのものにしちまいたくなるんだ。畜生めと思わなくもない。最高に畜生なのは俺だけどな。
「順を追って話そう。ああ、それと、後でもう一人、当時のことを詳しく知っている、あの昔話でも話題にした奴をココへ呼ぶ。そいつからも話を聞けばいい。聞きたいなら他の奴も紹介してやる。君がフィクションとして俺たちの話を書く分には俺は君を応援する」
俺は革張りの椅子に背を預けた。テーブルの上に投げ出してあった煙草の箱を掴む。俺の女々しさがその箱には濃縮されていた。サトーの愛飲していた銘柄だった。
「先にアイツと最後に会ったときの話をしておこう」
俺は箱の中身を、一本、無造作に咥えながら言った。横摺り式のお高いライターで煙草の先端を焦がすように着火した。普段はこのような着火法はしない。考えていた。彼女はサトーが彼女の直ぐ傍に居ることを知らない。九割までは事実を話そう。一割は嘘にしよう。
もしその嘘まで見破られたらどうするか。彼女は嘘には敏感だ。ただの展示会をザッ見て回っただけでその意図と違和感に気が付くぐらいだ。自分の通う学校にサトーが居ると知れば何もせずにいられるか。彼女のところにまで足を運ばないか。(なにしろ彼女には行動力もある。サトー展に写真や映像を寄せた全ての人間をリスト化して片端から訪ねて歩くという、全く、いや真面目に、気が違っているとしか思えない方法で彼女は俺を探し当てたのだから)
まあいいか。そのときはそのときだ。小娘一人相手ならばどうにでもなる。