番外編1章30話/いちばん最初のサトーさん(7)
大して上手くもないギター、そのリズムに乗って叫ばれる嫌いになれない青春の詩、走り去っていく車の窓から置き去りにされた季節外れのクリスマス・ソング、この意外性と面白さ、夏の虫たちの儚く歌い上げる恋の歌、それらに入り交じる都会の生活音、――世界は音に満ちている。
その中にあって俺がサトーの悲鳴を聞き分けられたのは、どうしてだろうか。理由など何でも良かった。俺の体は反射的に動いた。全身のバネと歯車が無条件に噛み合う音が俺の脳髄に響いた。直前まで、長時間の過労働と、一昨日の、例の後味の悪い殺しのせいで、俺はまたサトーのことの苦々しく思っていたはずなのに。
俺は深夜の住宅街を駆け抜けた。スタディ・フロンティア高校の校門からほど近いところにサトーは居た。学校の外壁に追い詰められている。追い詰めているのは? 手に刃物を持った男だった。柘榴だった。魚でも捌くつもりなのか、刃渡りのご大層なその包丁は、月よりも街灯の光を集めて、人を殺める前から脂っぽく光っていた。(魚ならいいさ。人を捌けば次に裁かれるのはお前だぞなどと俺はどうしようもないことを考えた)
「邪魔するなッ!」柘榴は俺が何かする前に機先を制した。勢いのまま奴に飛び掛かろうとしていた俺はそれで立ち止まった。奴と俺との距離は二メートル程だった。夜の住宅街は既に寝静まっていた。否、どこかで雨戸を閉じる音がした。
「邪魔すればお前も殺すぞ」
温厚なオヤジのような外見には似つかわしくない台詞だ。ヤツの声には暗い情熱がありありと籠もっていた。「近付くな。そこでジッとしてろ。何もするな」
「落ち着けって」最近、こんなことばっかりやってる気がして俺は苦笑した。「何もそこまですることはないだろ?」
「何もそこまですることはないだろ!?」
柘榴は意味不明な雄叫びをあげた。俺はサトーの様子を確認した。思わずキョトンとしかけた。サトーはコンクリの壁に背を貼り付けていた。それだけならまだわかる。ヤツの姿勢はゆっくりと低くなっていった。震えてもいるらしい。ついに地べたに尻餅を着いた。表情は恐怖に凝り固まっていた。マジか。お前、どうした、普段の威勢の良さと度胸は。そういえば悲鳴をあげるなんてのもらしくない行動だ。
俺は、俄然、現金だな、サトーを守ってやらねばと(いつものように“守ってやらねばか。偉そうだな”と自嘲しながら)思った。
「お前らにとってダババネルはただの町だろうさ」
柘榴は――危ないからやめろって――包丁を振り回しながら言った。「しかし、私にとっては全てだ。あの町を築くまでにどれだけの仲間たちが倒れたと思う? どれだけの苦労があったと思う? 金? 次の町を作ればいい? ひとつの失敗? ふざけるなだ。ふざけるなだ、クズども、あの町は私の町だ。お前らのじゃあない。誰のでもない。私のだ。お前らのじゃあない。私たちの町だ。お前らのじゃあない」
「待てって。だからってサトーをどうにかしても意味なんてないだろ?」
「意味が必要か!」柘榴は吠えた。
コレは話し合いで解決するのは無理そうだ。手に負えない。どうにかしてスキを作れないものか。俺は一歩目を奴に向かって歩み出した。来るなと柘榴は地面を蹴った。サトーと奴はものの一メートル程しか距離を置いていない。近付かないことにはお話にならない。誰かが通報してくれているだろうというのは希望的観測だ。背中に冷や汗が流れるのを俺は実感した。
「お前らの町って言う割には」俺は些か露骨な時間稼ぎを講じた。「高崎や加賀たちには風当たりが強かったな」
「奴らは外様だ」柘榴は平然と吐き捨てた。「高崎は行き倒れそうなところを拾ってやったんだ。町のために働かせてやったんだ。工業にシフトしていくのは町全体のためには仕方なかった。確かにメイン・ストリームからは外れたかもしれん。それでも雇用は続けてやった。確かに恩着せがましいこともしたかもしれん。だが、それでも私は温情を与えてやったんだ、反逆だなんだされるのは心外に過ぎる!」
大き過ぎる釣り針に奴は引っかかってくれた。奴は俯いた。掌の中で鈍い輝きを発する刃に写り込んだ自分、それと目線を交換している。
「加賀たちも同じだ。何が気に食わない? 何が気に入らない? 何が気に病むところがあった? 私の何がいけんかった?」
柘榴の瞳が潤んだ。勝機だった。俺は奴がナイーブになっている間に距離を詰めた。奴はアッと小さく叫んだ。いまさらサトーをどうにかしようとしたところでどうなるものでもない。俺は奴の手首を捻り上げた。包丁が地面に落ちた。そのまま関節を折るつもりで捻った。奴は悲鳴をあげた。どいつもこいつも恩知らずだと泣きじゃくった。それとも最初からこうするつもりだったのかと被害妄想に陥りもした。「そうなんだな。そうに違いない。私を最初から陥れるつもりで――」
俺は放心しているサトーの名前を、三回、呼んで、なんとか我に返らせた。それから通報させた。サトーの舌はぜんぜん回っていなかった。刃物を持っていると通報した為だろうか? 物々しい装備の警官たちが大挙してやってきたのは八分後だった。開口一番、痴情のもつれを疑われたのには呆れたが、頼もしいことは確かだった。事情聴取だなんだで署まで同行を願われた。解放されたのは朝だった。潰れた目玉焼きみたいな太陽の光が目に染みた。白米と味噌汁とソースが欲しいなと思った。
「花見盛君」と、同じタイミングで解放されたサトーが警察署の入り口で言った。
「ここからウチまで帰るの、大変だから、少し貴方の家に寄らせて。休ませてくれる? 一人だと不安だし」
サトーの目は死んでいた。まさにこれこそ捌かれた魚のそれだった。俺は承諾した。
……後日、親しくなったとき、高崎たちは柘榴について次のように言っていた。『何かと尊大でセクハラもしてきてキモかったし、逮捕されて当然、居なくなってくれてハッピー、スッキリしました』