番外編1章29話/いちばん最初のサトーさん(6)
ブラスペのアバター(プレイヤー・キャラクター)は飲食を欲する。排泄もせねばならない。欲求を放置すれば現実と同じ末路を辿る。漏らすだけならまだいいさ。餓死なんて誰もしたくないだろ? この飽食の時代にな。だから、会議室の長机の上、全員の席に煮沸した水で割られたワインが配られていた。
偶然だった。会議室内のダババネル運営側の全員が神妙にお縄に着いて、手を、文字通り荒縄で縛られていたとき、彼らのうちの誰かが身動ぎをした。縄がきつかったのかもしれない。寒気がしたのかもしれない。理由はわからない。机に腰を打ち付けた。その衝撃で机の上のゴブレットが床に落下した。甲高い音と共に砕けた。それに室内の全員の注意が向いてしまった。
高崎と加賀を痛烈に非難した野郎だった。そいつは結ばれかけていた手首の縄をパッと解くと、鬼の形相、側に居た我が部の生徒の腰から剣を奪った。
活劇は起こらなかった。班構成のメリットがここでも発揮されたからだった。全員がお互いをカバーし合える位置取りを心掛けていたのである。野郎は鞘から刃を抜き出す前に後ろから捕らえられた。ふざけるなとか喚いて暴れた。サトーが彼を黙らせてと命じた。野郎は手荒に組み伏せられた。高木先輩がうるせェと怒鳴ってヤツの頭を蹴り飛ばした。奴はぐったりとした。
「花見盛君」サトーが神妙に指名した。
「ン。どうした」俺は眉間にシワを寄せながら尋ねた。
「逆らえば殺す。私はそう宣言したわ。彼は大人しく出ていこうとしなかった」
俺は慄然とした。仲間たちもそうだった。それは余りに厳しいのではないかと思った。しかし、こういう場合、特に虜囚とした連中の手前、思ったことをそのまま口に出す訳にはいかない。『奴らは脅しこそすれ真実の暴力を振るうことはない』と、そう嘗められたとき、ウチのような武闘派集団は終わりだ。(結局、俺たちのような、言葉を選ばなければチンピラのような連中は、無視したり相手にしなかったりすると何をされるかわからない――このような武力を背景にしてクライアントに対する優位性を確立している。騎士だの武士だの傭兵だのと格好のいい自称は幾らでもあるが、実際のところ、ヤクザとそう変わらない)
「わかった。殺そう。ただし、見世物じゃない」俺は表情を変えないように努めながら言った。意識の混濁してログ・アウト寸前になっている例の男を同僚から受け取った。立ち会ってくれとサトーを呼んだ。部長にも同伴を願った。サトーはこの場を高木先輩に預けた。
「サトー」と、会議室から出て、かなりの距離を取ったところで、俺は切り出した。廊下の空気はひんやりとしていた。窓ガラスからは斜めに月の光が青く差し込んでいる。ロウソクで照らされているだけだって室内から表に出ただけなので夜間視力は失っていない。サトーが不機嫌そうにしているのが見て取れた。
「まさかその男を殺したくないとか言わないでしょうね。アイツらの前で見せしめにしないだけでも殆どフォア・ボールだっていうのに」
サトーは改めて縛り直した上で床に放り投げてある男を見下しながら言った。
このゲームでは人が死ぬ。
そのことについては、何度、確認しても足りることはない。ゲーム的な死は痛みを伴う。斬られれば熱くて痛い。撃たれれば骨が歪むように痛い。スッと血の気が全身から引いていく感覚はまさに臨死体験だそうだ。俺は決して味わいたいと思わない。だが、それらの苦痛が霞むほどに、このゲームで死んだ人間は職を失い、現実的な意味での、より強烈な死を味わわねばならない。否、必ずしもそうなるとは言い切れないが――なにしろ手段と方法さえ選り好みしなければなんとかまだ食っていける時代だ――、そうなる確率は否定しきれない。事実、ブラスペをクビになった為に自殺した奴を、俺は何人か知っている。
故に、別にレギュレーションでそう規定されているとかそういうことでもないが、よほどのことがない限り、ブラスペ内では、無用な殺生は避けるべきだとされていた。不文律である。暗黙の了解である。降伏した相手は殺さないのもその一種だ。(身代金云々はこういった不文律を逆手に取って出来上がった制度である。身代金を取りたいから殺さないのではない。そこまでプレイヤーたちは腐っていない。因果を誤解しないで貰いたい。この精神は将来、何時までも続いて欲しい)
俺たちがこんな反乱なんて阿呆な真似をしているのは何故か。前者の意味でも後者の意味でも死にたくないからだ。柘榴は俺たちを嫌っている。高木先輩の言っていたように奴らは俺たちを必要悪、暴力装置、そうとは認めているものの、内心では明らかに軽蔑している。最近では殊にサトーを嫌っている。自分の面に泥を塗られたからには当然だ。これで、サトーの計画に従って俺たちがこの辺りのレイダーをクリーン・アップした暁には、奴、大手を振って俺たちを解雇するなり、どこかへ流すなり、或いは殺しさえするかもしれない。コレは予防的反乱なのだ。俺たちはサトーからそう伝えられている。確かにそうだなとも納得している。だからこんな真似をしている。
殺したいから、死んでほしいから、やっているんじゃあない。俺たちは自分たちのビジネスを守るためにコイツらからコイツらのビジネスを取り上げる。一方、新たなビジネス・チャンスを得る機会まで奪い取ることが許されるのだろうか?
「適当にボコボコにするってのはどうだ」
俺は先に触れた“暴力団は嘗められるとやっていけない”の法則と現状を擦り合わせた妥協案を述べた。
「論外ね」と、サトーはにべもない。
「甘いことを言うものじゃないわ、花見盛君。コイツは面倒な性格だってさっきの一幕でもわかったでしょ。生かしておくと後顧の憂いとなるわ」
「後顧の憂いって。おい、それじゃあまるで――」
「――戦争だな」
俺が流石に口にするのを躊躇った言葉を部長が引き継いだ。部長は呆れと憮然の中間の態度だった。拗ねているのかもしれない。
「サトー、ダババネルを奪うのも、柘榴たちを放り出すのも、俺は別に反対しない。むしろ積極的に賛成だ。要するにあちらとこちらのどちらがより相手を上手に出し抜くかの勝負だったんだ。勝負だった。やらなければそのうちやられていた。だからそこまでは卑怯だともやり過ぎだともさっぱり思わない。自己弁護かもしれないがな。しかし、勝負だからこそ、そこまでする意味があるとは思えない。大体、後顧の憂いって、そんなものがあるか? コイツを一人、生かしておくだけで、何が変わるってんだ」
「貴方には見えない未来が変わるわ」
サトーは即答した。俺は顔をしかめた。久々にコイツの悪癖を見た気分だった。くさくさした。
「わかった」俺は溜息を吐いた。コイツに出会ってから何度目の溜息だろうと思った。俺は部長に目線を走らせた。部長は已むを得ないという風に頷いた。
「ただし、コイツだけだ。コイツ以外も何か名目をつけて殺そうとしてたんじゃないか、お前? そんな気がしてきたぞ。流石にそれはやりすぎだ」
「……。……。……。ああ、そう、ま、いいわ。いい。それでいいわ。とっととやって」
後味はとても悪かった。口直しが欲しくなった。