番外編1章27話/いちばん最初のサトーさん(4)
八月七日に日付が変わってから正確に四五分後、我が七導館々々高校の総員はグラペ山――ダババネルの背後を守る物言わない天然の壁――の中にあった。従来、昼間ですら集団での移動は困難、夜間となれば不可能とされた山内行進を、サトーは平然と選択していた。
『実際、ダババネルを不意打ち出来る位置を取るには山の中を通るしかないの。でも安心しなさい』と、事前の打ち合わせで、彼女は何かに勝ち誇ったように言った。
『“鹿が通えるならば馬も通える”よ。あの手この手で山中のNPCから道を教えて貰ったの。多分、いまのところは我々しか知らない、今までの道よりずっと歩き易い道をよ。妨害されるとか気が付かれるとかってことはないわ。人工無能相手に根気強く交渉してくれた副部長に感謝するのね』
部長と高木先輩を救出したとき以来、サトーのこの、“安心しなさい”は我が部において、ある種の神話的効果を持つようになった。そう言われると安心できてしまう。してしまう。(後に築かれることになるサトー神話の土台はコレだったかもしれない。どんな無茶であっても、少なくとも我が七導館々々高校は、彼女の命令であればなんでも成功すると信じて疑わなかった。あらゆる危険に望んで飛び込んだ)
……安心はしていたが、では、安全であったかと尋ねられると、それは微妙だった。確かに既存の道よりかは遥かに崩れ難い道ではあった。道幅も一人で歩くのであれば問題は無かった。夜間視力さえ失わなければ月と星の光で足元を確認することも出来た。それぐらい木が疎らなのだった。露わになっている山肌の色は赤黒かった。
それでも夜間の山歩き、歩を進める態度はどうあっても慎重に傾き、全体の速度は遅かった。文字通りの断崖絶壁を縫うように移動せねばならなかったときは、誰よりも何よりもまず、サトーの転落死が案じられた。結局、俺が奴を背負うことで問題は解消されたのだが、サトーのみならず、部員たちは危うく大事故に発展しかねないミスを無限に乱発した。
軽く足を滑らせる、斜面や草花や木の根に足を取られる、装備を谷底に転落させる、それが致命的なものにならなかったのには二つの要因がある。
ひとつは、やはりと言えばやはり、サトーによる徹底した班分けだった。サトーは我が部を最低三人、多ければ六人の小さな班に、ヤツの言葉を借りれば再編成していた。
「なんで班によって人数にばらつきがあるんだ?」
「貴方、たまにわかってることを質問するわよね。教えてあげるけど。高いわよ」
「美味い酒を作ろう」
「班長の能力、人柄、そういったものを基準に、何人まで任せられるかを大まかに考えてのことよ」
「アイツは五人も指揮してるのに俺は二人――なんてことにならないか?」
「二杯」
「はいはい」
「はいは一回。出来るだけならない人に三人を任せてるの。それにね、花見盛君、大抵の物事は言い方次第でなんとでもなるのよ」
「また悪い顔をしてるな。どういうことだ」
「“貴方には少数精鋭でお願いしたいの”って言えば、僻まないでしょ、三人班の班長でも」
言葉巧み、サトーによってその気にさせられた班長達は仲間たちがミスることを事前に想定していた。させられていた。サトーの指導や指示も受けていた。難所に差し掛かる際は事前に――『ここから先は事故り易いから次のことに気をつけるように』――リマインドもされていた。
個人としての人間には限界がある。集団としての人間にも限界がある。しかし、限界の水準が前者と後者では大幅に異なる。
例えば班という団体で行動したとき、そのメリットは何か。色々ある。最大のそれは意思疎通と注意の簡便である。
これまで我が部は三〇人以上の個人で構成されていた。結果、部長なり副部長なりが方針を決めたとき、彼らが三〇人全員の面倒を見なければならなかったし、彼ら全員が正確に方針を理解できているかどうかまで確認せねばならなかった。要するに一人のこなさねばならなかった仕事量と負担が尋常でなかった。
ところがどうだ。班行動を徹底したこの場合、サトーの立てた方針は精々が七、八人の班長にだけ正確に理解されていれば良い。残る二〇人以上には班長から伝達が行われる。現場での指揮、あそこで誰々と戦うからお前はあそこでこういうことをしろ、こういうことに気をつけろ、そういう指示を出す手間暇も大幅に簡略化された。(少数を相手にするので、サトーが班長らに対して方針の説明を行える時間、それも向上している。全体で見たとき、これは一人一人の方針に対する理解度が以前に比べて深まっていると言える)
俺たちは馬鹿である。大馬鹿ではない。そのような組織作りを試みようと過去に思わなかった訳ではない。発想はこれまでにもあった。実現できなかった。技術と思考に限界があった。それが俺たちとサトーの差だ。馬車のときにも感じた覆せない差だ。凡人と天才の差かもしれない。コンプレックスは感じない。俺とサトーとでは為すべきことが違うだけだ。
ところで、俺はサトーを中心とした四人班(サトーは本部班と呼ぶ)に所属している。班の内訳はサトー、俺、加藤先輩、それに屋鋪先輩だった。屋鋪先輩をサトーが抜擢した理由は不明である。俺はサトーの身の回りの世話から他班との連絡役で、加藤先輩は部全体の数字に纏わる管理をサトーと分担して担当だと明言されていたが、
「彼はまあ」と、サトーは屋鋪先輩については言葉を濁していた。当の屋鋪先輩はヒゲを弄るばかりで何も言わない。世界は平和だ。
この他、部長と副部長は独自の班を持たず、三班とか四班とか、班の集団の面倒を見ている。中管理職である。
『いまの時点で強いて置く必要もない役職なんだけど』と、サトーは述懐していたが、実のところ、コレが事故の未然に防がれた二つ目の要因だった。
部長はゲーム初期の環境を生き抜いてきたプレイヤーである。かねてから思っていた如く彼女はその場に居るだけで仲間たちを安心させる。気配りも上手だった。緊張している班長、班員、それらを見付けたら、ときに厳しく、ときに優しく、アメとムチを適度に使い分けることができた。痺れるね。
副部長は、元来、こういう能力を買われていた男だけあって、班長たちの犯したミス――そうなのである。班長たちも機械ではない。彼らもミスをする――をリカバリーするのが抜群に上手かった。どこぞの捏造を疑われている歴史上の偉人よろしく、アンタ、何人の話を同時に聞き分けられるんだ? 班長の判断や指示が間違っているとわかったとき、それとなーく訂正に行っては、ついでとばかりに場の雰囲気を和ませたりもしている。(班員たちも阿呆ではない。班長が間違った判断をしたことがわかっている場合もある。そういうとき、“コイツの命令になんで従わねばならないんだ?”という不和が生じることがあり、副部長はそれを諌めるのが凄まじく上手かった)
「花見盛」
全体の行程が半分を終えた辺りで加藤先輩が話しかけてきた。私語は小声であれば禁止されていなかった。緊張緩和(とサトーは言っていた)を目的としてのことだった。尤も、総員、歩くのに神経を使っている上、いい加減、疲れてきているのもあって、話し声はそう多くない。どこかでミミズクかフクロウが鳴いている。
「なんですか?」俺たちは傾斜の激しい斜面を登っていた。普通に歩くと転げ落ちてしまう。あちこちに露出している木の根や岩を足場や手摺代わりにして上を目指していた。クライミングと呼べるほど大層なものではない。山歩きと言えるほど軽いものでもない。
「以前のことなんだがな」肉体派でない加藤先輩は息を切らせていた。「悪かったなと思ってな」
サトーは俺でなく屋鋪先輩の首筋に縋り付いていた。身軽な俺は加藤先輩より少し先を行っていた。彼に手を貸す。ある岩の上から別の岩の上まで引っ張り上げた。「前のことってなんです?」
「サトーだ。あれが部に馴染むまでのサトーの面倒、部員との調整、そういうのをお前に任せたからな、俺は。そういえば謝っておこうと思ったのを不意に思い出したのさ」
「またそんなことを言って。別にいいですよ。先輩も情報収集だので忙しかったでしょう」
「それは認める。ただ、二歳も年下のお前にAからZまで任せたのには、流石に後悔がある。手一杯だったと言えば聴こえはいいさ。しかし、言い訳だな」
「ストイックですね」
「そうかな。そうでありたいもんだ。それにしてもキツい!」
加藤先輩は擦り切れた手を擦り合わせながら冗談めかした。「肉体労働は今後は勘弁して欲しいな。俺は頭脳労働担当でいたいよ。肉体労働は好きな奴らに任せればいい」
俺たちの足元では六人班を独特な手法――要するに気合と罵声と怒声と僅かな暴力と大いなる優しさ――で統御している高木先輩が居た。更にその下には荒木たちの班があった。あろうことか荒木も六人班を与えられている。それでいてミスらしいミスはやらかしていない。副班長なるポジションに任ぜられた井端の活躍だった。
まるで水を得た魚、転売チケットをオークションで競り落としたばかりの地下アイドルオタク、井端は荒木のためになるならばと一念発起、意外に過ぎる優秀さを発揮していた。いまも、
「君、彼を手伝ってあげて。あ、そこ、滑るから気をつけて。水も溜まってるから下から来る人の顔に跳ね上げないように。君は中腰になってあげて。そう。それで手を。そう。そう。そう。その辺りで。そう。組むの。そう。そこに君、足を乗せて、そう、上へ、そう、送ってあげて」
人並み以上に働いている。折を見て荒木が良く頑張ってるっスねと井端の二重顎をタプタプする。井端は喜ぶ。更に真面目に働く。蟻の社会構造みたいだ。(サトーの人物鑑定眼は恐ろしいなとも思った。どこをどう観察すれば井端に“かくされたひみつのうりょく!”があることを見抜けるのか。どの人事も正鵠を得ているのが凄い。同じ人生をループしてるんじゃなかろうな)
……俺たちが計画の開始地点に到着したのは一時五〇分だった。予定より一〇分だけ速かった。一息、吐く時間が部員たちには与えられた。しんどかった。手も足も乳酸が溜まって痺れている。肺が痛い。息をすると気道がヒンヤリと冷たいのがわかる。物を掴むと指先の感覚が無かった。
「水を飲ませ過ぎないように」サトーは班長たちを集めて指示を与えた。管理職はこんなときでも休めない。「飲み過ぎると疲れるから。食事は一切禁止。トイレはいまのうち。五七分には帰ってくるように厳命して。五五分の時点で帰って来ない者は呼び戻すように。以上」
俺たちは二〇〇メートルほど降ればダババネルの裏手に出られる、ある山林の中に身を潜めていた。降れば直ぐに、ダババネルに四つある出入り口の、最も小さくて警戒の薄いところへ潜り込める。ダババネル自前の警備隊は例の高崎がなんとかしてくれる手筈だった。上手く行けば計画の開始から完了には一時間半も掛からないはずだ。
革の水筒からちびちびと水を飲んでいると気が付いた。部長が空を見上げていた。ブラスペ世界の四季は現実のヒノモトのそれと(俺たちの認識している土地の限りでは)ほぼ連動している。透き通った空を余す所なく埋め尽くす星々の煌めきは荘厳ですらあった。樹脂の塊の中にバケツ一杯の電球や金平糖や宝石を閉じ込めたような風景だった。――
「綺麗ですね」と、もしかすると部長も緊張しているのではないかと疑って、俺は声をかけた。
「綺麗だ」と、部長は頷いた。
「部長にも人並みに乙女チックなところがあるようで」
「お前なあ」
部長は唇を尖らせた。このところ凛とばかりしているので忘れていたが、この人、プライベートでは割とポンコツなところもあって、直ぐに拗ねるわ、照れるわ、扱いが難しいところがある。実にいい。唆る。好みだ。
「ゲームも長くやっていると色々なことがあるな」部長は苦笑した。腕を組む。胸元で揺れるものと同じぐらい彼女の汚れた頬の弾力は素晴らしかった。「今日のことはずっと忘れない気がする。今日からこのゲームは何か劇的なものに変わってしまう気もするよ。これまでのゲームは、結局、個人戦の連なりだった。これからは団体戦の時代かな」
「寂しいですか。悲しいですか。大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。リタイアした仲間たちのことを考えてはいた」
俺と部長は妙な雰囲気で見つめ合った。ゲーム内では眼鏡を掛けていない――というか眼鏡がまだ存在しない――彼女の瞳はガラス玉のようだった。星々が写り込んでキラキラしていた。俺は肩を竦めた。部長はどういう訳か冷笑した。やれやれだなと誰に向けてか呟いた。
「今日は旧暦だと七夕だ、花見盛。願い事のひとつでもしておくかな」
「またロマンチックなことを。先輩、娘さんとか出来たら、この想い出に因んで“七夕”とか命名するタイプでしょ。――って、痛いですよ。足を踏まんといてください」
「ふん。今日のことは忘れない。色々な意味で忘れないからな、花見盛」
「はいはい。で、何をお願いしときます?」
部長は腕を組んだまま沈黙した。首と顎が水平になるまで空を見上げた。
「五年後とか一〇年後に我々に明るい未来が待っていることとかかな」
やっぱりロマンチックじゃないですか。そう言ったら今度は殴られた。