番外編1章25話/いちばん最初のサトーさん(2)
高層ビルが立ち並ぶマチダ駅前、そこから伸びる賑やかな大通りもついに果て、振り向けば摩天楼、前を見れば寂れた商店街、地元民のための遊び場、細くて入り組んだ一帯――視界がそうなった辺りで俺はサトーとの距離を詰めた。マチダの治安は悪い。首都圏へのアクセスであること、その割に家賃が安いこと、外国人労働者が多いこと、彼ら向けの“おたのしみ”が流行していること、挙げようと思えば理由は幾らでも挙げられる。
それでも昼間はまだしもである。やっているのかやっていないのかわからないラーメン屋の前で、喫煙所、何やら話し込んでいる黒い肌の青年たちは、如何にもなストリート・フッションに身を包んでいた。暑い国の言葉を喋っている。夜になると、彼ら、闇に紛れるようにして活発な活動を開始、暴力と恫喝を駆使してありとあらゆるものを売りつける。サトーのような美人になら売るのではなく売らせるだろうか。
ま、俺個人の偏見も多分に含まれている訳だが――いまの彼らだって真面目に働いているかもしれない。見掛けは厳つくてもそれだけで断定は出来ない――、かといって用心もせずに危ないところへ出掛けていってアラホラサッサー、見事に身包みをひん剥かれた後で『こんなはずではなかった』と後悔するのは情けない。他所からのお客様がおいそれと入っていい空間でないことは確かなのだ。注意はしておこう。やれやれである。肩を竦めたい気分だ。ヒノモトは何時からこんな国になったのかね?
目的地は薄暗い路地裏の奥にあった。こんなところに店を構えてやっていけるのだろうか。辺りはムッとした酸っぱいニオイに満ちていた。壁は室外機や換気扇に埋め尽くされている。どの室外機にもスプレー缶で落書きがしてあった。地面はゲロと乾き切らずに淀んでいるいつかの雨と、その雨で生まれ育ったらしい気味の悪い虫どもと、それから煙草の吸い殻、謎の注射器、白い粉の僅かに残ったビニール袋などで埋め尽くされている有様である。
『キャバレー・ヴォルテール』が、その店の名前らしかった。昼間だというのに点燈しているピンク色のネオン・サインがそれを教えてくれた。ネオンはどう見ても従業員の出入り口としか思われない店の扉の上に、壊れて、やや斜めって設置されており、“ヴォ”の辺りはLEDが切れていた。
「花見盛君」サトーは俺の背中に隠れるように立っていた。俺の背を掌でそっと押した。「先に入って」
ビビってんのか? とは、尋ねないことにしておいた。扉を開けた。扉に備え付けられた鈴がりんと鳴った。狭い店だった。L字のカウンターには六席しかない。カウンターの中では中年を過ぎた頃のマスターがグラスを布巾で磨いていた。先客が三人あった。俺たちは手前のカウンターに二人で並んで陣取った。
「ご注文は」と、マスターが見事なバリトンで訊いた。
「ピムス」と、サトーは間を置かずに応じた。
「お兄さんは?」
「ミルクとミルクのカクテルをお願いしますかね。シェイクではなくステアしてください」
ジョークの通じる店であった。ミルクとミルクのカクテルは甘くて舌触りが良かった。冷やされたグラスが嬉しい。外気と緊張のために俺とサトーはビッシリと汗を掻いていたのだった。サトーは喉を鳴らしてピムスを飲んだ。(ピムスは紳士の国として知られるジョンブルの、夏の、伝統的なアルコールである。ほろ苦いピムス原液にストロベリー、レモン、オレンジ、ミント、それからこれを忘れてはいけない、キューカンバーを大きめにスライスして大量の氷と一緒に叩き込み、それをレモネードで割る。身体の火照ったときにコイツをキメると最高にスカッとするが、反面、口当たりが良いので、ぐびぐび飲むとあっという間に出来上がる。サトーには要らない心配か)
サトーは可愛らしいゲップをした。グラスを手の中で軽く揺さぶりながら、
「素敵な店を知ってるのね」と、一席、空けて座っている先客に言った。サトーの揺らしているグラスからは夏の爽快な香りがした。グラスの中でそれぞれ触れ合って鳴る氷の音は幼少時代、両親に海に遊びに連れて行って貰った記憶と、あの青い空と白い雲の形を、何故か俺に連想させた。
「皮肉屋とは聞いていましたけれども」
先客はウィスキー・グラスの縁を撫でながら苦笑した。グラスの中身はウィスキーではなかった。コーラだった。先客は見掛け倒しの好きな男らしかった。彼自身、ゴツいナリをしている癖に、声は少女のように優しく、表情は保育園の先生を思わせた。(尤も、無論、演技である)
「噂通りのようで。でも、実際、良い店じゃございませんか? 気に入ったでげしょ?」
「立地がここでさえなければ通ったでしょうね。――で、人数はキチンと揃っている?」
「揃っていますよ」先客は彼の奥に座っている他の二人に目を配った。一人は小柄だが利発そうな女性だった。もう一人は小役人タイプに見えた。
先客は諸手を揉み合わせた。「早速、ビジネスのお話に入らせて頂いて良いですかね? 今日のご用件は? ウチの馬鹿がご迷惑を掛けた件についてでしょうか?」
「ええ」サトーは胡瓜をポリポリと噛みながら頷いた。
「“ダババネル”を私たちのものにしようと思ってるの。それに力と情報を貸して欲しいんだけど、どう?」