番外編1章23話/新たなる戦いの序曲
スタディ・フロンティア高校に着いた頃、夜と夕方の境目に特有な、あの冷たくもあれば暖かい風が吹いていた。風の吹き付ける角度が微妙に異なるだけでその肌触りが違う。俺は制服の上を持って来なかったことを軽く後悔していた。長くチャリを漕いだ後だから背中と額に汗を掻いていた。気化熱のせいで夏なのに肌寒い。捲くっていた袖を元に戻した。それはそれで腕が重くなった気がする。ままならないものだ。
寮に入ろうとしたところで背後から呼び止められた。腰の曲がった、おい爺さん平気か、管理人だと名乗る人物が『あんた誰だ』と尋ねてきた。俺は爺さんが大儀そうに持っている脚立を代わりに持ってやった。その上で友人のところへ遊びに来たのですと告げた。ゴキゲンな爺さんはそうかそうかと俺を撫で回しかねない勢いだった。
「若いのに色々と感心だな。見かけはアレだがね。で、誰を尋ねて来たのかね? 規則だと、一応、入館者は名簿に名前を書いて貰うことになっとる」
「はい。校門でも書いたんですが、ここでもですね?」
「規則だよ。まどろっこしいものさ」
俺は寮の一階の隅にある管理人室まで脚立を運んだ。窓口でクリップ・ボードを渡される。管理人室は大きな柱の陰にひっそりとしていた。狙い済ましたかのように、否、実際、狙ってそう設計されているのだろう、存在感が薄い。それで前回はスルーしてしまったようだ。
陽の当らないところに居を構えているから空気が埃っぽい。湿度も高かった。どうあっても取れない汚れやカビがこの辺りにも繁殖している。爺さんは息苦しそうな二畳ばかりの管理人室の中で平然と茶を啜っていた。彼の座る椅子は骨董品だった。
「お願いします」俺は窓口の向こうで茶を飲んでる爺さんに記入したクリップ・ボードを返却した。すると爺さん、
「おやおや。権上さんかね」
何とも言えない笑みを浮かべた。俺とサトーの関係を誤解したようにも思われる。「そうかね。あの娘に来客というのは、この半年、一度しか無くてね」
「はあ」俺は後頭部を掻きながら意味もなくペコリとした。「そうですか?」
「知らんのかね」爺さんは短時間の間に俺をすっかり信頼したようだった。彼は自動人形のようにひとりでに喋り出した。「あの子、ほら、君なら知っとるだろ、来歴がアレじゃないか。家庭環境と言うかね。実に、まあ、なんだ、可哀想なことだが、オヤジさんが――ではね。学校でも変わり者として知られとる。ご家族とも上手く行ってないらしいでなあ。一度、訪ねてきた客というのもアレの義理のお父様だそうで、いや、血が繋がってないから似てないのなんの、愛想の良い紳士なんだがね、私などにも優しい言葉遣いをするんだから人物じゃあないか。あのときは、なんだったかな、素行不良だったかな、それで学校に保護者として呼び出されて、その足で娘さんの部屋を少し覗いて行こうと思ったようなんだがね、え? あそこまでせんでもいいと思ったなあ。権上さん、娘さんの方ね、お父さんをそれはもう罵倒してね、寮中に響くような声で帰れと。ずっと私は心配しとったんだよ。何が出来るわけでもないが、あの子、まさかこのまま一人で生きて行く気なのかなとね」
爺さんはハッハッハと笑った。俺も相槌を打つノリで笑った。爺さんは最後に“なあ若いの”と前置きしてから演説した。
「昔、私はな、些細な、他人からすれば馬鹿げているほど些細なことが出来んで苦労したことがある。例えば何かわからないことがある。それを学校でな、教師にな、教えてくださいと頼むのが、どうしても気恥ずかしかった。恐ろしかった。いまではなんとも思わんがね。アレは何だったのかねえ」
……サトーを後ろに乗せて七導館々々高校に戻ってきた頃、景色の色味はRGBで言うところの〇〇〇によほど近付いて、時間の流れと気温は弛緩したようにまったりとしていた。校内に満遍なく広がる緑の醸す爽やかさ、全身を包む満足感を伴う倦怠、襟元を扇ぐとシャツの中に入ってくる妙に涼しい空気、乾いていく汗のべたつき、前髪の隙間に冴えるサトーの肌の白さ、空に横たわる天の川――、俺は彼女を部室まで誘導した。七導館々々は表記上は丘、実態は山、その斜面に沿うように建築されていて、しかも、年がら年中、増え続ける生徒のために増改築が行われている。昼ならいい。夜分のお客様には必ずエスコートを。でないと割とガチ目に迷う。(翌朝、自分が迷っていたのがなんてことはない場所だったと気が付いて愕然とするまでがセットだ)
並木道になっている斜面を登って部室棟へ。最上階の最奥、我が部室を中心に、階全体がパーティ会場として整備されていた。サトーはその光景を一目、見るなり、
「ちゃちいわね」と、嘯いた。
サトーと仲間たちの対面は別に感動的でもなかった。と言うのも、まるで防空壕だ、仲間たちが凄まじい人口密度で詰め込まれている部室に入った瞬間、サトーはこう言った。「気を遣わないで。お礼とかも言われたくないわ。謝罪もされたくない。私は自分のやるべきことをやっただけよ。いい?」
「そうか。わかった」一同の先頭に立っていた部長が微笑んだ。「ありがとう、サトー。お前のおかげであのときは助かった。それに色々とすまなかったな」
「な」サトーは後退った。なななななと吃った後で彼女は顔を赤く染めた。「人の話を聞いてた?」
「聞いていた」
「わかったって言ったでしょっ」珍しくサトーの語気が荒いだ。誰かが口笛を吹いた。笑いながら顔を見合わせる者もいた。
「わかりはした。ただ、従うとは言っていないぞ」
部長の眼鏡のレンズがキラーンと光った。サトーはぐぬぬと歯を食い縛った。ところへ、まあまあまあ、まあまあまあ、今日は目出度い、サトーの姉御がせっかく来てくださった日なんだ、さあさあさあ、いいから、さあさあさあ、何かお飲みになられますか――と、高木先輩がしゃしゃり出てきた。サトーは高木先輩に遠慮なく何だコイツという目線を向けた。それから貴方は猿みたいねと罵倒した。部員たちが爆笑した。高木先輩はヘラヘラした。ただし、笑っている部員たちには何がおかしいと怒鳴った。それで部員たちはもっと笑った。
正直な話、全員がサトーを見直した訳ではない。数人は未だにサトーを疑っている。内心では嫌っている者も居るだろう。周りがサトーを受け入れることにしたから自分もそうするという者もいるはずだ。世の中はそう綺麗事だけで回っているわけではない。
しかし、だとしても、この場には部の全員が揃っている。総意として俺たちはサトーを歓迎したいと思っている。それが彼女にも伝わった。伝わったはずだ。伝わったかな。伝わっていればいい。伝わっていなければそのときはそのときさ。そうだろ?
サトーは勧められるままに飲んだ。食べた。特にその鯨飲っぷりには称賛が集まった。ジョッキでビールを一気飲みは余裕、ハイボールでも余裕、ウォッカはやめとけって? な? スピリタス? なんだ? 胃腸をアルコール消毒する必要でもあるのか? 内臓疾患か? 信じられないね。
「もっと飲めっス!」と、煽るバカな女も居たせいで、サトーはついに泡盛を一升瓶でラッパ飲みし始めた。放っておくことにした。俺は加藤先輩や副部長とささやかな乾杯を交わした。自分で言うのも何だけれども、サトーの参加から今日に至るまで、最も苦労した三人だ、高いウィスキーを三人占めしても許されるだろう。
あるとき、バカ女、荒木は唐突に「そうだ。コレ、知ってるスか?」と、サトーに自分のスマホを見せ付けた。SNSのアプリが起動していた。(なお、荒木はフォロワー数五万人を誇る“ツブヤイッター廃人”である。それだけのフォロワーを獲得するために彼女がどれだけ肌色を露出したかについては触れないことにする)
「なにこれ」サトーは肩を組もうとする荒木を押しのけながら尋ねた。
「この前の奴っスよ」酔っている荒木はサトーの頬を舐め回そうとしていた。
「この前の奴?」サトーの貧弱な二の腕がプルプルと震えていた。
「だーかーらー、サトーちゃんがビシッとボケどもをぶちのめしたときの映像の、反響っスよ。エゴサしてないんスか? めっちゃ格好良かったって、ホラ、これ」
サトーはハッとした。荒木はそのサトーを押し倒した。信じられないほど可愛らしい悲鳴をサトーはあげた。“きゃっ”って。サトーは首筋まで舐められた。荒木は井端に羽交い締めにされてサトーから引き剥がされた。――ものの、数秒で羽交い締めを、まるで猫だ、液体だ、ぬるんと抜け出すと再びサトーに覆い被さった。部員たちがやれやれと囃した。
それから二時間が経過して、俺はお手々を洗った帰りに、廊下の端、開け放した窓の側で、ジッとスマホを食い入るように見詰めているサトーを目撃した。サトーは俺に気が付かなかった。仲間たちは酔い過ぎてサトーが会場を抜け出したことに気が付いていなかった。少しばかりサトーを観察した。好奇心と興味だった。
サトーは何を見ていたのだろう? 想像はつく。彼女はニヘラと笑っていた。ガッツ・ポーズを取ったりもしていた。はいはいと思った。ごちそうさまです。
パーティがたけなわとなったのは深夜を過ぎてからだった。三度、警備員が見回りに来たけれども、彼は顔馴染みで、アップルタイザーを渡してやると酷く喜んだ。教師たちは我々のことを見なかったことにしていた。否、一人だけ、高橋という名前の、ヘイセイの半ばまでは鬼とか呼ばれていたらしい、何時も竹刀を振り回している爺さんが苦言を呈しに気はした。ただ、あの爺さん、扱い方にコツがあって、とりあえず、はい、はい、仰る通りですと言っておきさえすれば、当座はそれで許してくれる。その場は凌げる。こんなバカなことは今回だけにしておけと唸るだけで済ませてくれるのだ。なんとまあ。昔は生徒に対して振るわれていたというボロい竹刀、それを握る彼のシワだらけの手、部室の天井に設置されたキツい青色の照明を浴びて尚も色褪せている彼の姿に、俺は幾ばくかの寂しさと同情を覚えたりもした。
パーティの終わり自体にも寂しさを感じた。祭りの後は何時だって寂しい。つい一時間前にはしゃいでいた連中が次々と帰路に就く。副部長の主導で後片付けが始まる。余った酒や食品を加藤先輩が保存すべく集めている。高木先輩が床で倒れた後輩に毛布を掛けてやっている。部長とサトーが部室の隅に設けられたカウンターで並んでいた。何かを語り合っている。部長は微笑していた。サトーは緊張している風だった。喧騒は急激にではなく徐々に徐々に鎮まっていく。ネジを巻き忘れた時計のように。あくまでも滑らかな動きのままで。
「サトー」俺は部長に断ってから会話に割って入った。「まだ何か飲むか?」
「ええ」今晩、ここに泊まり込むことにしたサトーは徹底的にやる腹積もりらしかった。「もし良ければパッと飲めるものを。酔いが醒めてきたから」
「もしよければ? そう言ったか、いま?」
「うるさい。どうでもいいでしょ」
「そうだな。いいさ。パッと酔えるものね。――実は、俺、昔、カクテルに凝った時期があってね」
「あ、そう」
「おい、冷たいな。少しぐらい相手にしてくれ。どうだ? お前が好きそうなのを作って来ようか。丁度、シャンパンがあったはずだ」
「シャンパン。どんなカクテル? 名前は?」
「“午後の死”だ」俺は気取った発音で告げた。
「感動的なネーミング・センスね」サトーは眉間にシワを寄せた。
「それでも美味いよ。飲むか?」
「……。……。……。」サトーは眉間にシワを寄せたまま固まった。数秒、そうしていた挙げ句、視線を右へ左へ泳がせた末、顔を俯かせ、俺を上目遣いに見ながら、誠に恥ずかしげに言った。
「ありがとう。お願い」
俺は頷いた。それ以上の言葉も動作もいまの気分を現すのに過剰な気がした。不足な気もした。俺はそのままの勢いで部長にも尋ねた。彼女も飲み物を持っていなかった。
「夏川先輩」それが彼女の名字だった。「何か飲まれますか?」
「知っての通り、私はアルコールが苦手なんで、あまり強くないのを貰おう」というのが彼女の返答だった。