2章5話/ロマンと合理性と愚かしさと人間のタフネスへの過剰評価の四世帯住宅
「やー」
丘の上だから吹き付ける風も強い。円筒帽を手で抑えながら吉永女史が驚いている。意識を落とし込んで遊ぶこのゲーム内、その風の感触も彼女の表情の質感も現実とまるで違わない。「実物で見るとやっぱり大きいわねー」
「ですか?」その光景を見慣れた私はついそう応じた。
「ええ、でも、そうですね。言われてみれば大きいですね」
我々の見下ろす先――アマシュルタット平野には三六〇〇人もの歩兵(NPC)が犇めいていた。無秩序にではない。彼等は士官級と下士官級のPCらによって整然とした一本の横列を組まされていた。風が私の頬を撫でる度に、横列の各所で兵が手にする大小様々な旗、それが翻った。
「デカ過ぎてよくわかんないんだけど、これって横の長さ、どれぐらいあるの?」
「旅団横列ですから、そうですね、六〇〇メートルぐらいですか」
「六〇〇メートル!」ヒャー、と、吉永女史は肩をウネウネさせた。「そりゃ、また、だわねー。スカイツリーぐらいあるじゃない」
ブラスペ世界の戦争における主戦力――コレが戦列歩兵である。
一個中隊約ニ〇〇人が縦三人、横七〇人の、肘が触れ合う程にギチギチな隊列を組む。中隊横列である。戦闘の際、戦列歩兵は、この横列を崩さないようにしながら行動する。
中隊横列の横幅は三〇メートル程である。中隊横列が五メートルほどの間隔を置いて三つ集まると大隊横列になる。大隊横列が更に三つ集まれば連隊横列に、その連隊横列が二つ集まれば旅団横列となって、コミマの待機列を彷彿とさせる巨大な人の群れとなる。
なお、俗に三兵編制と呼ばれるように、旅団はこれら戦列歩兵の他にやはり隊形を組んで戦う騎兵と砲兵とを編制内に有する。衛生、施設(築城や架橋などを担当)、給食、後備(補給)などの各種支援部隊もだ。これに対して旅団未満の部隊は、少数の例外を除いて、単一の兵科と後備部隊のみで構成されている。
その戦列歩兵大隊ひとつずつに付随する軍楽隊から喇叭の音が相次いだ。旅団が行軍の際に用いる隊形、縦列から戦闘用の横列への隊形変更を完了した旨の報告である。このように、原則、部隊の基本単位――戦場で行動するときの集団としての最小単位――は大隊となる。尤も、諸々の、主に人材敵な制約から、このゲーム内では一個連隊が固まって動くことの方が多い。(余談ながら日常生活における基本単位は中隊となる)
私は懐から懐中時計を引張り出した。旅団全体が縦列から横列への隊形変更を終了するまでに掛かった時間は四五分、平均よりも些か早く、まずまず満足するべきだなと考えた。
「次席副官」私は頂を呼んだ。
「合図を」
この丘の上には旅団司令部を構成する八〇人ほどのプレイヤーが集まっていた。頂に促されて司令部附き喇叭手(NPC)が訓練開始の曲を奏でる。それを聴き付けた各連隊長たちが麾下大隊長らに前進の開始、攻撃目標、進行方向、大隊間距離、移動距離などを号令する。以下、大隊長は中隊長へ、中隊長は下士官らへ、同じような命令を発令していく。そして旅団横列はゆっくりと前進を開始した。
歩幅の揃えられた足並みは極めて鈍い。分速五〇メートルである。そうでなければ隊列が崩れてしまうのだから仕方ない。否、この速度ですら一部が崩れつつある。そういう箇所は中隊長の判断と命令に則り、中隊横列の側面と背面に配置された下士官が怒鳴りつけたり指示を与えたりして回復させる。
吉永女史は鼻を啜りながら言った。「なんだか集団行動みたいね」
「というか、そのものですよ。スケールデカイ版のアレです。ああ、それと、マスケットには銃剣を着けて戦うことが多いんですが、やったでしょう? 銃剣道。小学校とか中学校で」
ああー、やった、やった、と、吉永女史は燥いだ。私は頷いた。「元々、ヒノモト人の国民性は隣近所と足並みを揃える――ですからね。上からの号令に従って行動するのもそうです。このゲームの戦争、その基礎の五割ぐらいは普通の学校で学べてしまう。だからプレイヤー人口が増えやすいというか流行しやすかったというか」
「ははあ。ところで、あれだけ、その、的として大きくて動くのが鈍くさいと移動中、敵に撃たれちゃうんじゃない?」
「撃たれますよ。特に本物の戦闘では砲も出てきますから、それはもう」私は認めた。
「右に居た仲間が撃たれて、左に居た仲間は砲撃でバラバラにされて、比喩でなく血の雨が降りますし、アッチからもコッチからも誰かの身体の一部だのが飛んできます。でも、だとしても、我々は密集隊形を取って行動せざるを得ない。敵に攻撃されて友人が死のうが恋人が死のうが、優先されるのは隊形の維持と修復、プレイヤーは足を止めずに判断と行動をし続けることが求められます」
「それは」吉永女史はゲッと言わんばかりだ。「また、どーして」
「集団を維持したままでないと殺し合いにならないからです」
キョトンとした吉永女史に私は私のマスケット銃を差し出した。モヒート制式採用銃を改造したそれは私よりも大きい一五〇センチだ。重量は四・七キロにも及ぶ。改造してあると言っても、銃身の下、槊杖入れの更に下に円形のアタッチメントが着いている他、制式品との差はない。
「物々しいですが、コレ、要するにただの筒なんですよ」
「なるほどね」吉永女子はわかっていない人の表情をした。「なるほど。……ごめん、つまり?」
私は苦笑した。なんとまあ親しみ易い高学歴だ。
「現代の、たとえば映画とかで見る銃にはライフリングっていうのがされてましてね。銃身内が螺旋状になってるんですよ。弾が回転しながら撃ち出されるので、弾の軌道、弾道ですね、それが安定する。弾も飛びやすくて当たりやすいようにできています。でもそれをこのゲーム内でやるには莫大なお金が掛かる。ので、出来ない。だからホラ、銃口から覗いて貰えばわかるんですが、銃身内がツルツルで滑らかでしょう? しかもコレはね、先端の、この銃口から直接、弾丸を火薬と一緒に入れて撃ち出すんです。つまり銃口より小さな弾しか入らない。すると撃ち出すときに弾が銃身内で跳ねますよね。だから撃つ度に弾が違う方向へ飛ぶ。弾丸の軌道が、野球の変化球みたいに、ルーズショルダーのピッチャーが投げるスライダーみたいな魔球軌道になることも珍しくない」
「はえー。ねえ、近付かないと当たらないって言ってたけど、実際にはどれぐらいまで届くの?」
「あれぐらいです」と、私は停止しつつある旅団横列を指差した。
「なんか近くない?」と、吉永女史は困惑している。
近い。旅団横列と仮想敵(軍服を着せたカカシ)との距離は五〇メートルである。
「あれぐらい近くないと当たらないんです。マスケット銃の有効射程距離は相手の黒目の見える距離――と言われますが、でも、あれぐらい近くても五〇パーセントの確率で外れます。で、あるからこそ密集隊形を取るんですね。固まって撃たないと誰も死なない。敵も味方も。戦列歩兵の射撃は、なんていうのかな、相手を撃つというよりも、相手の居る方向に対して弾丸で作った壁をぶつけるイメージで行われます」
「てことは。待って、整理すると」吉永女史は後頭部を激しく掻いた。
「戦闘の度、撃たれながら、隊列を崩さないようにしながら、あんな距離まで近付いてくの? 相手に身を晒して? ノコノコとぉ?」
「そうなりますね。例えば、えーと、そうですね、敵味方が四〇〇メートルの距離で相対しているとしましょう。この場合、敵も味方も八分間、お互いにお互いの砲撃を受けながら射撃位置まで前進しなければなりません。それまでに隊形が崩れればそこでゲーム・オーバーです。或いは、敵が四〇〇メートル先でジッとしていて、その敵をどうしても倒さねばならないとき、味方側は八分間、ほぼ一方的にボコられながら前進を続けねばなりません」
「それって防御側、超有利ってことにならない?」
「常識的にはまさに」
「砲だけで決着を着けるっていうのは」
「それもコストと時間の問題になりますし、結局、相手の守っている土地や陣地を奪うことができるのは歩兵だけですからね」
「なんていうか」吉永女史は溜息を吐いた。「じゃあ、もういっそ弓とかだと駄目なの? 銃じゃなくて」
吉永女史は唇に指を当てている。「もっと命中率が高くできそうなもんだけど。それならバラバラに分かれて戦えるし。なんなら遮蔽物……? に、身を隠すことだって出来るでしょーに」
「NPCはどれだけ学校に通わせても頭が一定以上によくならないんです」
私は弓を引く真似をした。「弓の扱いは極めるのに何年も何年も掛かるものでしてね。しかも弓の矢は高いんです。意外と作るのが難しくてね、作れるのが熟練の職人プレイヤーかNPCだけでして、一本一本、家内制手工業になりますから、単価がもうそれは」
「つまり、NPCが弓の使い方を覚えるまでにはとんでもない時間とお金が必要になってしまう?」
「ですね。もしそれがクリアできても、今度は、バラバラになって戦うとき、自己判断が出来ないんです。どこをどうどのように攻撃すべきかの。それを指示するためには、なにせこの世界には電話も無線もないですからね、声が届く範囲にいる兵にしか命令ができないので、やはり密集していなければならない。更に更に」
「まだあるの?」吉永女史はゲゲッという表情である。
「ええ」私は口元を抑えて笑った。「密集していないと、兵はね、指揮官や下士官の目を盗んで逃げ出そうとするんですよ。一丁前にね」
「一丁前にね」吉永女史はゲゲゲッという表情を呈した。
「一丁前にです」私はニタニタした。
「戦列歩兵同士が戦うと」頂が補足した。
「相手を如何に殺すかはそれほど重要ではありません。如何に相手を怯ませて隊形を崩すかが肝心なのです。一度、散開してしまったNPCはまず帰って来ませんし、万が一、帰ってきたとしても隊列を組み直すのに長い時間が掛かりますから。そういう意味でも密集隊形を取る意味があります。射撃戦になったとき、別々の場所で一〇人が倒れるより近くに居る一〇人がバタバタと倒れる方が相手は動揺しますので」
「ま、なんというか、平たく言ってしまうと」
私はズレてもいない眼鏡の位置を気にしながら言った。「戦列歩兵同士の戦いとはどちらが先に相手の陣形をぶっ潰すかのチキン・レースだと、そう解釈してください」
「あー、なるほどね」
吉永さんは項垂れた。「もしかしなくても、なんか、とんでもない部署に配属されたんじゃないかしら、私……」
「さて」あいも変わらずニタついたまま私は旅団主力の方を向き直った。「横列全体が完全に停止しましたか? しましたね。次席副官、合図です」
旅団司令部の喇叭が鳴った。射撃を開始せよである。連隊からその命令を受け取った旨の喇叭が鳴る。続けて、彼らは隷下大隊向けて射撃を開始せよの喇叭を――以下省略である。
各中隊長らの「構え!」の号令で縦三列の先頭が片膝を突いて銃を構えた。吉永女史が生唾を呑んだ。「撃て!」が号令される。
吉永女史が「ん?」と期待外れ風に小首を傾げた。無理もない。先頭列のNPCどもが口々に「バーン!」だの「ドーン!」だの擬音を叫ぶ有り様は不気味ですらある。
「本当にお金がないんですよ」
私は真実をありのまま伝えた。「火薬も弾丸も高いもんですから、演習ではね、一ヶ月に一度しか実包を使えないんです。昔、大盤振る舞いしてた時代もあるそうですが、そのせいで国がね、破産寸前にまで追い込まれたもので」
「あらら」
吉永女史は拍子抜けした。心なしか彼女のツインテールまでグッタリしたように思われる。「あ、そう」
それにしても。私は頂を屈ませた。旅団横列の右翼側を担っている第三ニマスケット連隊の動きがいい。隊列が乱れない。士官と下士官の動きも的確だ。私は頂の肩に望遠鏡を乗せて三ニ連隊本部を覗いた。
まさかそれに気が付くはずもない。ここからあそこまでは何百メートルも離れている。だが、気が付いたとしか思えないほど奇跡的なタイミングで彼女は振り向いた。あの特徴的な三白眼でコチラを睨んでいる。
彼女はそこでしなだれていた金髪ごと自分の腰を掴んだ。それからこの丘めがけて中指を立てた。私はニタニタした。望遠鏡を腰の定位置に戻して振り向く。忙しく働いている訓練部や作戦部のメンツの間を副参謀長が軽やかに走り回っている。「順調? あ、遅れがちか。じゃあ、ちょーっち待ってねー」
私はオノボリさん状態の花村君を手招きした。「みんなにお茶を用意しておいて貰えますか」
「あ、はい!」と弾かれたように走り出した彼は、しかし、足を踏み外して丘の下へゴロゴロと転がって行った。そこで待機していた工兵連中から悲鳴や笑い声があがった。