番外編1章21話/サトー
私のことなんて。お湯を沸かしながらそう考えた。花見盛君たちも放っておいてくれればいいのに。パーティに誘われたところで困る。私なんかが行ってもつまらないでしょうに。
……ピューとか言ってヤカンが白い蒸気を吐き出している。火を止めた。部屋のガス・コンロは使い物にならなくなってから久しい。私が壊したわけではない。前の住人が壊したらしい。前の前だったかもしれない。勉強の出来る阿呆のなんて多いことだろう。国立まで来てガス・コンロの使い方ひとつわからないの? どうすればガス・コンロを爆発させられるの? ガスを出したままで煙草を吸ったらどうなるかわからないの?
ヤカンを持とうとした。物思いに耽っていたからつい金属部分を触ってしまった。熱い。飛び退いた。積んであった本の山を崩した。それで私の身体のバランスも崩れた。背中から床に倒れ込んだ。連鎖的に部屋中の物が倒れた。何かの弾みで額の辺りに作りかけのプラモデルが飛んできた。肩のトゲが皮膚を引っ掻いた。痛い。膝に落ちた緑色のそれを掴んだ。力一杯、どこかに投げようと思って、やっぱり辞めた。どうして辞めようと思ったのかはわからない。不思議だ。部屋の中は大地震の後のようになっていた。丸い窓の外を丸くて赤い太陽が落ちていこうとしていた。粘るな。土俵際で粘るな。とっとと落ちろ。
不思議と言えば、そういえば、モビルスーツは空を飛ばないはずでしょ。私はその場にペタンと座り直した。手にしているプラモデルに尋ねた。なんで飛ぶの。どこで飛び方なんて覚えたの。作ってあげたのに恩を忘れてどこかへ行こうっていうの? それともアレなの? へそを曲げてるの? モビルスーツのヘソってどこよ。仮組みしてから先へ作業工程を進めないことに怒っているの? 明日、そう、明日、明日から作るから、お願いだから機嫌を直してよ。同じベッドで寝ている仲でしょ。ごめんね、と、私は言った。ごめんね。ごめんね。
何をやっているんだろう。本気で泣きそうになっている自分の神経を私は疑った。偶に、自分でも、病院に行った方が良い気がする。気がするだけだ。
「――――。」
立ち上がる。足の踏み場もないところを掻き分けて、一度、ベッドに戻った。握りしめていたプラモデルを窓枠のところに飾った。暮れ泥む空の色が機体の色を緑から赤へと変えた。私は多少の満足を感じた。赤くて三倍だ。ツノは後で着けてあげる。ね? それでいいでしょ。
かつてタオルと呼ばれた雑巾、年増アイドルのようなそれ越しにヤカンを持って、カップ焼きそばにお湯を注ぐ。その間に冷蔵庫を漁る。冷蔵庫はシステムキッチンの下部に格納されている。一人暮らし用だから小さい。可愛い。昨日、買ってきたものが詰めてあった。茹で卵の二個セットと明太子味のポテトサラダのパックを取り出す。
ピヤングが食べ頃になるまで再び物思いに耽った。ポケーッと立ち尽くしながら自問自答する。私はどうしてこういう性格なんだろう? さてね。順を追って考えればどう? ちんちくりんだった頃からこんなイカれた性格なの?
その当時は違った。私には父がいた。母もいた。父は私の全てだったように思う。容姿、性格、年収、職業、出世速度、それに娘への教育、家庭への愛着と愛情、それを表現する手段、どれを取ってもピカイチだった。小学生のときに『わたしのおとうさん』とかいう作文を書いたのを覚えている。校内で金賞を取った作文だった。父は作文の内容にはそれほど触れなかった。父さんのことをこんなに良く書いてくれて有難うなとは言った。それ以上に私が賞を貰ったことを喜んでいた。
ああ、――六歳の誕生日だった? いいえ、七歳よ。あ、そう。七歳ね。そう。七歳の誕生日ね。父は私を遊びに連れて行ってくれる約束をしていた。ところが前日の夜、父は急な仕事で帰って来られず、結局、家の敷居を跨いだのは私の誕生日から十日後だった。
そのときだけに限らない。父は何時でも遅刻した。その度、私の好きなケーキを手に、恥ずかしげに、控え目に開いた玄関の扉を潜る。私は二階にいる。父が帰ってきたのが音でわかる。それでもベッドの中に籠もる。迎えに出ない。毛布の端を、こう、ギュッと握って、外から毛布を剥がそうとしても剥がされないように頑張っていた。(実際に剥がされそうになったことは一度もなかった。いまにして思えば絶対に剥がせる。子供の力だ。私の力だ。でも、一度も剥がされそうになったことはなかった。それが私の自慢だったような気がする)
実のところ、なにしろ私は賢いから、私は父の遅刻にそう腹を立てたことがなかった。父の仕事はハードだ。遅刻するのは仕方ないことだ。約束を破りたくて破っているわけではない。そんな人ではない。
ただ構って欲しかった。『ごめんよ』と謝る父にふん! と、拗ねて見せるのがたまらなく楽しかった。得意だった。ズルくもあった。そうしておけば休日の父を独占できることを知っていた。私は一時間以上も父を困らせてからこう言うのだ。『今度だけは許してあげる』と。
父の手は大きく、暖かく、世の中の良い面、例えば情熱とか、勇気とか、他者への思いやりとか、そういうものだけしか持ち合わせていないような彼の性格を極端に象徴していた。私はその手で撫でられるのが好きだった。撫でられながら、父の膝に座って、彼の買ってきたケーキをはむつく。
思い出せない。どんなケーキを食べていたろう? 思い出せない。悲しい。でも、その味の、とても美味しかったことは覚えている。
父、誕生日に遊びに連れて行けなかったことのお詫びと称して職場へ連れて行ってくれた父、白い制服を着込んで家では決して見せない表情を閃かせる父、全てのクルーから艦長と慕われる父、――はそれから間もなく死んだ。海の藻屑になった。その最後は余りに情けなかったと母は言っていた。私は信じていない。あの人が部下を見捨てるはずがない。あの人が普段から横暴な人だったはずがない。家庭と職場では人格が違ったはずがない。事故の責任を他者へ押し付けようとしたなんてしたはずがない。否、そもそもあんな土壇場であんな事故を起こすはずがない。父の判断ミスで我が国の領土が損なわれた? 多くの人命が失われた?
信じない。どいつもこいつも好き勝手に言っていればいい。どいつもこいつも嘘付きだ。私だけが真実を知っている。そうなのだ。父は死んでいない。死ぬような人ではない。他人が語るように死んでよかった人でなどなかった。断じてなかった。そのうち帰ってくる。次の誕生日にはきっと帰ってくる。今度は遅刻しないで帰ってくる。否、遅刻してもいい。遅刻しても許してあげるから。
家が無くなった。財産もなくなった。母は『わたしのおとうさん』の作文を私に内緒で処分した。学校では虐められた。どこへ言っても後ろ指を刺された。記者やキャスターに囲まれたこともある。ネット上では我が家に関する大量の虚偽が行き交った。誰も彼もが娯楽として私を罵倒した。『あの男の娘だ! 何をしても許されるあの男の息子だ! サンドバッグにしろ! サンドバッグにしろ! サンドバッグにしろ!』
母は他の男を私に父と呼ぶよう要求した。死ねばいいのよ。死ねばいいの。あんな女なんて。薄情者じゃない。父さんを捨てて。死ねばいいのよ。いっそ殺してやりたいわ。殺してやりたい。そんなにあの男が好きなら一緒に殺してやるわ。一緒に殺してから鍋で煮てあげる。鍋のまま冷蔵庫で保管しておいてあげるわ。ずっと一緒に暮らしなさいよ。好きなんでしょ。たまに再加熱してあげるわ。焦げないように鍋のそこを掻き混ぜてもあげる。冷え切った仲だと可哀想だからね。私は優しいの。父さん似でしょ?
殺意を制御できそうにないことに気が付いて、家を出た。全寮制の小学校へ編入したのは一一歳のときだった。
何故、母に、私が昔から懐いていなかったのか。懐けずにいたのか。その理由が最近になってわかった気がする。母は新しい男と子供を拵えた。これで将来は安泰だと喜んでもいた。安い女だと思う。私は年の差のある弟を愛せる気が全くしていない。
いつか見返してやろう。いつか見返してやる。見返すんだ。そう思って生きてきた。誰をとかは考えなかった。見返すという目標だけがあった。勉強した。努力した。睡眠時間を日に三時間まで削った。その分、とにかく出来ることをやった。飲食も最低限に切り詰めた。そんなことよりも知識量を増やすために本を買った。一瞬でも足を止めることは許されていないような気がしていた。父の居たところへ向かうことが全てに優先されていた。当然、友達など作らなかった。そもそも周りのクズどもは私を虐げた。やり返すのは時間の無駄だと思った。だから虐げられるだけ虐げられてやった。いじめは日に日にエスカレートしたけれども、だからなに? 私はアンタらとは違う。やりたければやればいいじゃない。靴とか私物とかなんでも隠せばいいじゃない。集団で囲んで殴りたいなら殴りなさいな。頭から水をぶっかけたいならぶっかければいいでしょ。悪い噂を立てたいなら立てればいいのよ。――を――したいならそうしなさい。知ったことじゃない。どうでもいいわ。早く終わらせて。要求はそれだけよ。
『コイツ』と、中学二年生の、寒い日に嘲笑されたことを思い出した。雪が積もっていた。冷たかった。雪には少しだけ泥が混ざっていた。汚かった。体育館裏だった。茂みの中だった。
『マジかよ。本、読んでるぜ。喘げとは言わないけどよ、もう少しなあ? ま、いいや。コイツは何をしても反応がないってことで有名で――』
馬鹿じゃないの? と、私は彼らを冷笑していた。彼らは合計で四人だか五人だか居た。全員の相手をするのに三〇分と掛からなかった。
ま、馬鹿だったのは私なんだけど。
どれだけ勉強しても運動神経は変えられない。鍛えても体質的に筋肉がつかない。私は父と同じ職業には就けそうもない。そうわかって以来は自堕落、何もかもを呪いながら趣味の世界で生きてきた。(母と“素晴らしく温和で温厚で家庭的で娘に気に入られようと躍起になっている素敵なお父さん”からの仕送りを食い潰すのが楽しかった面もある)
解放された気分だった。と、同時に自己嫌悪が募った。一秒ごとに父を忘れていく、彼を侮辱した者、自分を笑った者、それらに対する憎悪を忘れていく自分がたまらなく嫌になった。私にはそれしかなかったのに。自分から自分のアイデンティティをどうして取り上げられるの?
死のうかなと思ったこともある。それが正解なのではないかと今でも思う。日に二回は思う。
それでも死なないのはあのゲームを見付けたからだ。キッカケは偶然だった。動画サイトをザッピングしていたら目についた。ちゃんちゃら可笑しいゲームだと思った。もっと幾らでも効率的なやりようがあるじゃない、と。それで気が付いた。教えてやればいいんじゃない? それで名前が売れるかもしれないんじゃない?
名前が売れる? 売れてそれからどうするのか。それはだから知名度を利用して――とかする。それで本当に自分の目的が達せられるのか。世間をギャフンと言わせられるのか。そもそも世間はもう父とお前のことなんて忘れているんじゃないの。次のサンドバッグとよろしくやってるわよ。
それでも何もしないよりかはマシだ。絶対にマシだ。マシだって? それはつまり、お前が、自分自身が、一秒ごとに『お前は馬鹿だ』と自分を責めねばならない苦痛がマシになるって意味でしょう? 父のために始めたことで自分が辛くなった。辛くなったから自分を優先する。なんてエゴイストなの。酷い。酷過ぎる。そんな娘でパパは泣いてるでしょうね。
――――私だってもう少しぐらいまともに接したいのよ、彼らと。花見盛君たちと。やろうとはしてるの。出来ない。彼らは眩しい。仲の良さそうなところを見せられるとまず嫉妬してしまう。その輪に入れてくれようだなんてされると困る。どうすればいいかわからない。有り難くはあるの。でも、その気持ちを表現することができない。したくない。したいけどできない。しようとしてもいない癖に。
放っておいてくれればいいの。ああ、それも自己中心的な考え方ね。彼らを一方的に不愉快にさせておいて自分だけ楽をしようって?
やっぱり死ねばいいのは私なんでしょうね。そんな気がしてきた。ああ、もう、だから、畜生、そう思うなら死ねばいいのに。発作的に死ねばいいのに。跡形もなく死ねばいいのに。サッパリと綺麗に死ねばいいのに。葬儀の場にやってきた数少ない知人友人親族たちが『アイツもようやく死んでくれた』と喜べばいいのに。葬儀の後はどこかの料理屋で私のことなんて忘れて馬鹿騒ぎしてくれればいいのに。畜生め。
世間は私からパパを取り上げた。パパを愛する自由すら取り上げた。パパを擁護する自由も取り上げた。パパを忘れるという救いすら取り上げた。それで平気な顔をしている。世間がどんな顔をしているかは知らないけれど、知らないけれど、その顔を絶対に青くしてやる。パパが死んだ海のように青くしてやる。もう私にはそれしかないでしょ。その自由と意志だけは誰にも取り上げさせたりはしない。絶対にだ。
そうだ。私は間違っていない。七導館々々の連中など踏み台だ。相手にするな。人間だと思うな。どうして彼らは私をじゃれあいたがるのだろう? 要らない。必要ない。ビジネス・ライクな関係でいい。彼らは私に従っていればいい。
「あ」私はフッと勘付いた。カップ焼きそばが伸び切っていた。慌てて湯切りした。切るほどのお湯が残っていなかった。数十ミリ・リットルのお湯はシンクに山積みになっている食器の中に溜まった。湯気は立たなかった。食器の底には埃が淀んでいた。
ベッドまでピヤングと半熟卵とポテサラを運んだ。ピヤングの上にまず明太ポテサラを絞り出す。そこへ潰した半熟卵を叩き込む。半熟卵はお好みで温泉卵に代えてもよい。混ぜる。混ぜる。混ぜる。混ぜれば混ぜるだけ粘り気が出てくる。混ぜる箸が簡単には動かなくなる。めげてはいけない。混ぜる。
出来上がったものを行儀悪く啜る。カロリーの味がする。もったりとしている。口の中の水分が瞬く間に奪われる。美味しい。
でも、こんな味ではなかったな――と、思ったところで部屋の戸がノックされた。「俺だ。サトー、俺だ」
げっ。