2章4話/倹約で枕いらずの
昔、どこかである層の人々が得意げに語っていた。『ヒノモト語は世界中の言語の中でも特に複雑なんだよ』
己は煙草を咥えた。愛飲している二つの銘柄のうち、今日、吸っているモスレムは先折り煙草だ。煙草の先端を折るとそこに詰められていた薬剤が化学反応を起こして火が着く。副流煙が出ないのが長所だが、その分、どことなく軟弱な、焦げる寸前のトーストみたいな味わいがある。もう片方――レッド・アップルの方を持ってくればよかったと後悔した。非喫煙者もいるからと気を遣い過ぎた。
「これは抗議でもなければ反対でもなく意見であり確認である、か」
椅子の、背凭れに頬杖を突いて座りながら会長は呟いた。「言葉遊びは楽しいね、君」
大会議室には己と会長以外、もう人気がない。数分前までの喧騒が嘘のようであった。
『左右来宮二年生は兵站部長の妹君であるとのこと。そこに作為的なものはないのですね?』
『低学歴に大権を与えては敗戦します』
『前例がありません。二年生が旅団長を務めるなどと』
『このような暴挙、世間が許しませんぞ。どうかお考えをお改めください』
意見であり確認である――を、誠に素晴らしいモヒート愛に基づいて断行した連中の目は血走っていた。彼等に包囲された己や会長やその他の幹部は対応に窮した。そこにやってきたのはあの神々廻だった。高校生とは認められないほど肥満した彼は口元のヒゲを弄りながら嗜めた。
『まあまあ、君たち、会長を余り責めるものではないねえ。気持ちはわかるがね、しかし、会長にも何かお考えのあってのことであるし、そも、会長を選んだのは我々なのだよ。それに前例! 会長の決定に異論を挟むことこそが前例のないことではないかね? 君らは苟もモヒート軍の中堅以上の幹部であり男子なのだ。男子たるものは(以下説教が続く)』
鷹揚を通り越した、三匹の子豚の長男みたいな神々廻の声は聴く者をゲンナリさせる。己たちを取り囲んでいた連中が白けた。神々廻はその隙を突いた。
『ところで会長、どうやら私と会長の考えは軌を一にするようで。今後ともよろしくお願いしますぞ』
そのセンテンスが真実であるか否かは関係ない。あの場に居た全員が神々廻と会長の結託を想像してしまった。今後、保守派閥の連中は今まで以上に会長を警戒するだろう。会長が生き延びるには神々廻派閥と睦まじくなる他にない。
己は味の薄い煙草を吹かしながら言った。「神々廻はタヌキですね」
「たった五秒、たった一文」
会長はコタツに入れられた小動物のようにぽややんとしている。「それだけで敵と味方を量産できる人もいるのだね」
「感心してどうするんです。アイツ、まずは邪魔な保守派を出し抜くために、でしょう?」
「だろうが、学閥内政治など今に始まったことではないからね。それより少し訊きたいことがあるのだよ」
「神々廻より優先されることですか」
「うん。君、君は会議中、全然、君の妹君を見なかったね。君の妹君が君を見ることもなかった。って、おい、君、顔を背けるなよ、ハハハ、寂しいじゃないか。――仲が悪いのは知っていたがそれ程になのかね。よかったらそうなった理由を教えてくれないか、君」
己は応えられなかった。やはりレッド・アップルを持ってくるべきだった。