番外編1章2話/筆にはしらせ
『人生は素晴らしい。戦う価値がある』(自殺したある作家の言葉)
中学一年生だったと思う。一三歳の頃だ。初めて、俺は人が死ぬのを見た。否、その言い方は正確ではない。人が死んでいるのを見た。これが正しいかな。
名乗っておこう。俺の名前は花見盛恭三郎、年齢については想像にお任せするし、職業についてもまた然りで、与えられる情報と言えば外見が冴えないことぐらいだ。無精髭でロン毛の男を想像して欲しい。髪の毛で前髪が隠れている。シャツ、ネクタイ、スラックス、衣服はどれもがヨレヨレで、まともな店の敷居は跨げない。そもそも入れて貰えない。腕時計はしていない。勘違いはしないように。買う金はあるんだぜ。金だけは持ってるんだ。使い途は思い付かないがね。
さて、――俺は駅のプラット・ホームで電車を待っていた。朝七時だった。晴れていた。桜の季節だった。地元は田舎だったんでね? ボーッとしているとピンク色の花弁が鼻先に落ちてくるようなことがあった。花弁は主に六弁だった気がする。俺はそれを敢えて払わなかった。なんとなく快い気分だった。駅の外は寂れた商店街だった。何時になろうとも上げられることのないシャッター、シャッター、シャッター、その合間を縫うように咲き誇るソメイヨシノばかりが目に着いた。
考えてみれば巧いよな。俺は溜息を吐きたくなった。巧いやり逃げだ。
桜は確かに綺麗だ。でも、まあ、綺麗なだけのものってあるかね。ないだろ。仔細に観察をすればだな、桜にもだな、近所で評判の人妻みたいなもんさ、他人様にはとても見せられないところがあるはずだ。汚いところがあるはずだ。そのはずだ。
しかしだな? 桜の寿命は儚い。直ぐに死にけつかる。二度と同じ桜は咲かない。万物は流転する。俺たちは桜に騙されているんだ。詐欺られているんだ。カモられているんだ。毎年毎年、飽きもせず、桜は美しいなあとか呑気なことを言って、その本質に気が付くことはついに無い。――――
無性に腹が立ってきた。俺は例の、鼻先に着いていた桜の花弁を指で摘んで、それからそれを食ってやろうか、踏み躙ってやろうか、熱心に悩んだ。
熱心に悩んだからこそ見逃した。自分の性格が憎い。どれもこれも桜のせいだ。畜生め。警笛が鳴らされた。誰かが悲鳴をあげた。俺がハッとしたときにはもう轢かれていた。妙な音がした。ゴミの回収車が走りながら出す音に似ていた。あれよりも若干ながら水っぽい音だった。遅れて非常停止ボタンが押された。それまで大儀そうにしていた何人かの若者、違うな、若者に限らず、オッサンもオバサンも、誰もが信じられないほど素早くスマホを構えて電車の先頭へ向けて走った。ホームにアナウンスが流れた。『撮影はご遠慮ください。撮影はご遠慮ください。撮影はご遠慮ください』
誰も聞きやしなかった。彼らは運転手と駅員らに窘められるまで思うさまエゴを満たした。俺はどうしていたか。それらの様子を遠巻きに見ていた。茫然としていた。何が起きたのかをキチンと理解していなかった。“何事も唐突に起きるのだ”ということは理解していたはずなのに。
畜生めとまた思った。やはり無性に腹が立っていた。生の、できたてホヤホヤの、そんな死体を見られるチャンスはまたとないだろうに。ノロマめ。俺のノロマめ。もっと早く行動するように心がけねば。ああ、あの死体、千切れた胴体からはいまごろは湯気が立っているのかな。春だからそんなこともないか。ニオイはどんなだろうか。惜しいことをした。得られるはずだった利益を得られないとこんな気分になるのか、人間は。
しかし、白状するとね、俺は希望と諦観を同時に抱いたんだ。なんとなくこう考えていた。『諦めていることに限って叶ったりするものだ』
で、まさにその通りになった。同じく朝の七時だった。同じプラット・フォームだった。違うのは天候だった。雨だった。ざあざあだった。気分が滅入る。こんな日は死ぬ奴がいるのではないかな、と、俺は密かに期待していた。桜の花はまだ咲いていた。雨で無闇に散るのを、この日の俺は、ああ、なんて可哀想なんだと痛く悲しんでいた。
……プラット・フォームの端に二人の女の子がいた。手を繋いでいた。女の子って、なんで、ああ、友達同士で手を繋ぎたがるんだ? 俺は百合の花を連想した。二ヶ月もすればウチの裏の山にそれが咲く。バニラ・エッセンスを濃くしたような薫りが俺の寝室にまで雪崩込んでくるだろう。(最初の数時間はウットリとしていられる。後はもう駄目だ。窓を閉めるしかない。吐きそうになる)
麗しいな。俺は彼女たちを――若さ故の過ちさ――盗撮しようとした。二人はそれぐらいには可愛かった。パッチリお目々さんだった。スマホのカメラを起動した。バレないように、内カメラで当時から長かった髪の毛を整えるフリをして、彼女たちにピントを合わせた。そのときだった。気が付いた。二人は靴を脱いでいた。靴下も履いていなかった。生足の甲の辺りを雨水が叩いていた。叩けば反作用が生じる。甲に当たって跳ね返る雨は酷く生々しい感じがした。その水を集めれば変態相手に高く売れる気がした。彼女たちの肌の色は健康そのものだった。シワのひとつもなかった。ツヤツヤしていた。これから死ぬようには思われなかった。
だが、実際、彼女たちは『せーのっ!』と、タイミングを合わせて線路に飛び込んだ。飛び込むとき、彼女たちは繋いでいた手を大縄跳びのようにぐるぐる回したし、その爪先はグッ――と、こう、丸められて、指がうねうねと動いて、そこに溜められた力を遺憾なく活かしたものだから、彼女たちの跳躍は力強かった。(彼女たちが飛ぶとき、足元に溜まっていた僅かな水がパッと辺りに散った。その水の飛沫のひとつひとつに彼女たちの長い髪の毛に隠された背中が写り込んでいた)
俺は知らない間にカメラを動画に切り替えていた。彼女たちが電車に轢かれて変形する、その瞬間を、だから俺は後からフレーム単位で見直すことができた。それは壮絶な光景だった。なんとしても俺だけのものにしてはならないと考えた。SNS上に(捨て垢を作って)アップロードした。途轍もない反響があった。グンマに住む、特にこれといって取り柄のない、どちらかと言えば落ち零れな少年にとって、その快感は凄まじいものだった。『俺は人気者なんだ!』
ま、なんというか、馬鹿は馬鹿、報いは受けたよ。アカウントを特定されてね。あろうことか学校にさ。親を呼ばれた。まず教頭が出てきた。次に校長が現れた。大目玉では済まなかった。中学で留年するところだった。母は優しかった。勘当されてもいいぐらいの馬鹿だろ、俺は? その俺をニ、三回、泣きながらぶん殴るだけで許してくれた。母はそれから二年で事故死した。父親はガキの頃の震災で疾うにくたばっていた。
俺は天涯孤独になった。高校生になるまでに相当な苦労をせねばならなかった。何か辛いことのある度に母親が、元はそれほど好きでもなかった彼女が、どうしようもなく恋しくなった。冗談でなく、寂しい夜に、俺は一人、暮らしていたボロ・アパートの部屋の隅に蹲り、泣きながら、自分のしでかしたことを思い出し、
「ごめんよ、母さん。ごめんよ」と、呟き続けた。多分、鬱だったんじゃないかなあ? ハッハッハ。笑い事ではないか。
自殺に憧れることはなかった。ただ、部屋の角の床に溜まった埃、その夥しいことに驚いた。また、俺の頭から抜けた――若いのにストレスのせいか多かったのよ――髪の毛を餌に生き延びているらしい、あの、カサカサ動き回る虫の生命力に感心したりもしていた。(一時、俺は奴のことを死ぬほど気に入って、唯一の友達だとすら思っていた。毎朝、それと寝るとき、虚空に向かって“おはよう”と“おやすみ”を言った。返事はなかった。それで満足だった。同じ空間に居てくれることが心強かったのだ。だが、退去のとき、彼は、つまり、その、好きなんだろうな、そういうことがね、あまりに子沢山だったので、俺は燻煙式殺虫剤を使った。彼らは根絶やしになった。すまん)
ニ〇ニ〇年の、また桜の季節、七導館々々高校の制服を着るようになった俺は生活のために仕事を探していた。見つかるまでにそれなりの手間暇を要した。世間はそれだけ逼迫していた。アルバイトすらロクに見つからなかった。自殺件数は三年前の数倍にまで跳ね上がっていた。自殺現場に居合わせることもあれから更に何度かあった。大抵は駅だった。一度だけは違った。
そう言えば自殺に失敗した者を見たこともある。失敗すると切ないよ、とても。
俺はプラット・フォームから、線路の上、泣き崩れるそのバーコード・ハゲのオッサンを見下した。同情した。手を差し伸べた訳ではないけれどもね。いっそ殺してやればいいのになと思った。安楽死が認めれるべきなのではないかとね。そして、そう思う自分を優しいとまでは評価しないにせよ、残酷だとは認識しなかった。それが正しい倫理観だと信じていた。いまも信じているかもしれない。
オッサンは駅員に寄り添われてどこかへ歩き去る。線路の上から。衆人環視の中で。お前のせいで約束の時間に遅れるという冷たい目線を全身に浴びながら。多分、家族に、会社に、連絡が行って、それからどうなる? 帰ったオッサンを家族は泣いて抱きしめてやるのか。会社の上司は彼に気前良く休暇と一時金を渡すだろうか。
俺はこのようにしてようやく命の価値、大切さ、或いは生きているということの意味、そういうものを悟った。過去の自分をどれだけ殺したいと念じたかわからない。
一方、それと同時に、生きていくためには他人の大切な人生を虐げねばならないということも次第に理解して行った。実感と共に。
俺は高校の三年間で少なくとも一〇〇人を殺した。
最初の一人どころか二人目、三人目、五人目、一〇人目、五〇人目、九九人目に至るまで顔どころか名前すら覚えていない。
最後の一人だけは覚えている。というよりも、忘れることができない。彼女はサトーと呼ばれていた。
昔話を始めよう。