最終章6話/ありふれた兄妹。ありふれた毎日。ありふれた過去。ありふれた将来。ありふれた世界。ありふれた悲劇。ありふれた喜劇。そして、ありふれた物語のありふれた結末。
学校からの帰り道、己は噂の彼に遭遇してしまった。――『このごろ変質者が出るらしい』『黒いゴミ袋を担いでいるらしい』『所轄にパトロールを依頼した』
用事があって学校に居残りをした後だった。時刻はニニ時を回っていた。早く帰りたいと思って裏路地なんか通ったのが間違いだった。
変質者は風聞に違わず黒いゴミ袋を担いでいた。中に何か大量に詰まっているらしい。丸々としている。本人も丸々としている。熊のような大男だった。腕の太さは己の太腿程もあった。
最初、己は彼の後ろ姿しか認められなかった。辺りが暗いからだった。入り口の周辺ならばともかく、半ばまで入った路地裏は大通りから隔離されていて、人気もなければ明かりもなく、喧騒すら届かない。
なにか奥でガサゴソやってる奴がいるなとは思った。彼は屈んで手にしたものを活発に使っているらしかった。それは銀色で長細いものだった。
危険かな? どうかな? 引き返すべきだな、と、そう判断したところで気が付かれた。足元に落ちていた空き缶を踏み潰してしまったからだった。音に敏感らしい変質者は振り向くなり、大股に己に近づいてきた。手にした銀色のモノを無闇矢鱈とカチャカチャ鳴らしていた。
己はどうするべきか悩んだ。相手の表情は完全には窺い知れない。どうも笑っているらしくある。では、あのゴミ袋には、まさか本当に死体が詰まっているのではあるまいか。そういえば袋からは饐えたようなニオイがする。助けを呼ぶべきか。しかし、どうしても声が出ない。
そうこうしている間に変質者は己の前に立った。二メートルはあった。濃い顔立ちをピエロのような笑顔に歪めていた。
「君」バリトンである。「その足を退けてくれないか」
足から料理されるわけか。さよなら現世、また来て来世、妹の結婚式に参加したいからとかいう理由で、なんとか見逃してはもらえないものか? 親友を差し出すので。
内心、甚だブルッていた己は言われるがままに足を退けた。すると、おやコレはどうしたことか、変質者はその場にもまた屈み込んだ。手にしたものを使う。それはトングだった。彼は己の踏み潰した空き缶を黒いゴミ袋の中へ仕舞った。
「あの」己は変質者から変質者(推定)にジョブ・チェンジした彼に尋ねた。「何を?」
「何をって」変質者(推定)はサイコパス・スマイルのまま答えた。「ゴミ拾いだよ」
「……。……。……。自主的な?」
「もちろん」
「それはまたどうして」
「それはまたどうしてって」
素直な己の好奇心に変質者(仮)は素直に応じた。「ココが私の町だからさ。ここ一五年ぐらい、色々あって、まあ、汚くなってるからね。特にこういう裏路地は清掃業者もなかなか入らないし。ウチ、ここから近いんだ。ご近所には子供の頃からの知り合いのおばあさんだおじいさんだも住んでいる。で、彼らが嘆くんでね、昔に比べてこの辺りに頻繁にゴミが落ちてて嫌だ、嫌だ、嫌だ、って。掃除すると、ホラ、あの人達が喜ぶし、なんとなく私も気分がいいしさ」
――――昨晩の出来事である。帰宅した己は不愉快な、しかし愉快な、絶妙な心持ちで布団に入り、起きるまで寝るという贅沢を楽しむはずだった。
『もうなんなんスか!』己の安眠を妨害してくれた電話の相手はキンキン声で喚いた。
『マジで信じられないスよ! この書類の束はなんスか! 見知らぬ用語と見知らぬ地名が羅列っスよ! ついでに見知らぬ人名も!』
「知らん」己は舌打ちした。「というか高架下、お前、いま何時だと思ってるんだ。五時半だぞ。夕方でなくて朝の五時半だ。己は眠たいんだ」
『ふざけるんじゃあねえスよ!』
鮫歯のボーイッシュな女の顔がありありと思い出された。『もう訳わかんねーっスよ。病院、出てきたらモヒートが無くなってるっていうし。それどころかダイキリまで無くなってんじゃないスか。ちょっと、聴いてます? 聴いてます? おい、この野郎、左右来宮この野郎、聴いてるんスか? いてまいまスよこの野郎! 返事しろ!』
するもんか。電話を切った。布団を被り直した。また電話が掛かってきた。言うまでもなく高架下からだった。電話の電源を落とした。最初からこうすればよかったのだ。己は悟った気になった。起こされたくないなら起こされないようにすればいい。見たくないなら見なければいいだけであるように。ふん。乱暴な理窟だ。見なければいいで済まない奴も世の中には――。
ニ時間ほど又寝したところで夢から醒めた。不思議な夢を見ていた。夢の中では己は弟だった。妹が姉だった。二人で小銭を握り締めて買い物へ行くところだった。おかしなことに、婆様から小銭を貰って家を出ると、そこは暗い森になっていて、森を抜けて町へ出る途中、己は自分の分の小銭を落としてしまった。
小銭は見つからなかった。妹が己に自分の分の小銭をくれた。町にたどり着いた己はその小銭で妹のために髪飾りを買った。妹は喜んだ。同時に、あげたお金なんだから自分のために使いなさいと己を優しく叱った。――そして、見知らぬ誰かが己の落とした小銭を拾い、それを自分のものにするかどうか悩んでいるところで夢は終わった。
サイド・テーブルに煙草の箱が投げ出してあった。横になったままレッド・アップルを咥えた。部屋の中は静かだった。東の崖の上から顔を出した朝日が降り注いできていた。空気が乾燥している。だから煙草の辛さが際立った。目と頭がシャキッとした。己はナッツに唐辛子をかけたようなテイストの煙を味わいながら部屋を出た。居間へ向かう。己の部屋は居間の真向かいであった。この前、妹に手伝って貰って植えたばかりのコスモスが庭を埋め尽くしていた。どこかから金木犀の薫りも漂ってきている。素足で踏む廊下はヒンヤリとしていた。
「おはようございます」妹は早起きだった。チョコンと座った妹はテレビを見ながら朝食を摂っていた。以前にも増して忙しくなったはずなのに、コイツ、超人的と言うべきかオイオイオイと言うべきか、朝からバナナ、炭酸を抜いたコーラで割ったウィスキー、オジヤに梅干しを添えたものをがっついていた。
「おはよう」己は咥え煙草のまま頷いた。
テレビでは下らないニュースがやってきた。低学歴がどうとか高学歴がどうとか論議しているのは、なんだ、お笑い芸人と学者の先生か。
ンジョール=ヌ会戦の後、低学歴と高学歴の格差だの差別だのの問題は、より世間からの注目を集めるようになった。無理からぬことだ。あれだけの騒ぎだった。会戦の生起前後のメディアの宣伝は異常だった。過剰でもあった。シブヤの街頭ビジョンが宣伝のためにジャックされたとかいう話を己は後から知った。で、ミーちゃんとハーちゃんが国民の九割という我が国である。(浜千鳥が騎兵に対抗突撃した瞬間がまず歴代の最高視聴者数を塗り替えた。かと思うと、夏川が倒された前後で記録が更新されて、やがて己と妹が殴り合うところで、恐らく二度と塗り替えられないであろうレコードが打ち立てられた。恥ずかしい。この頃の己は町を歩くと視線を感じない日が無かった。“あのお兄さん”で通じる世の中など吹き飛べ)
ンジョール=ヌ会戦からブラスペに、ひいては低学歴と高学歴についての物語に興味を持った人々は、無知であるが故に、或いは全くの第三者であるが故に、最も正鵠を得た意見を発表している。『高学歴も低学歴もどっちもどっちなんじゃないだろうか』がそれだった。
尤も、彼らも人間、他人を俯瞰している分にはいいが、自分の意見に『いやそうでもないぞ』と反論されると黙ってはいなかった。彼らは自分の観察眼が間違っていないことを証明するためにプロ視聴者となった。若しくは『これだからゲームオタクは』とか言い残して視聴を辞めた。中には顔を赤くしながら、ブラスペを含む、E・SPORTS専門チャンネルの契約や会員登録を解除した者もいた。それでも怒りを消化できず、自分がどれだけ正しく、相手がどれだけ間違っているかを、SNS上に書き殴って同情者と敵対者を同時に集めた者もいた。面白いもので、プロ視聴者となった者が、その、元は同じような考えを抱いていた者を叩くこともある。――尚、プロ視聴者の過半数は自称ほどゲームに詳しくないし、ただ攻撃的なだけで、実のところブラスペが好きなのですらない。プロっぽいことを口にしている自分が好きなのである。(ちなみに、プロっぽい彼らが話すとき、その文章は必ずと言って良いほど『~って~なんだよな』の形になる)
旧来のファン、そして高学歴プレイヤーの中には、新たに『低学歴もなかなかやるじゃないか』派が現れた。無論、一口になんたら派と言っても、低学歴を本気で認めている者、認めねば損をするから認めているフリをする者、回りが認めているから認める者など、その実態は例によって多岐に渡る。(ある特定の人々などは低学歴を守るという大義名分を掲げられるようになったことで、水を得た魚、高学歴叩きに余念がない。彼らも彼らで、ただ高学歴が嫌いなだけ、愉快犯、“暴走した正義“タイプなど細分化できる)
一方、『やるじゃないか』派に対抗して昔ながらの『そんなことがあるもんか』派は結束を強めた。彼らは些細な主義主張の違いは無視、とにかく『やるじゃないか』派の意見が主流にならないよう、考えられる限り全ての手段で低学歴ディスを繰り返している。
両派の対立は泥沼化しつつある。両派は『古い考えは捨てよう!』と『この前まではお前らも差別していた癖に!』を主張しているからどこかで折り合いをつけるのは難しそうだ。――それに、そもそも当事者たちの方にも受け入れ体制が出来上がっていない。低学歴の中には、これも無理からぬことだが、態度を改めた高学歴たちを痛烈に批判する者も多い。否、それのみならず、高学歴から差し伸べられた手を取る低学歴、同じその低学歴を非難する者も少なくなく、結果として、本音はともかく高学歴とは融和できないと表明する層を量産している。でもって、これに伴い、手を差し伸べたところで断れるのがオチなら最初からやらない方がマシだという層も出現しているから、なんとまあ、悪循環とはこのことだ。
また、妹に触発されたらしい、自分たち低学歴でもやればできると勘違いした阿呆どもが、やらなくてもいいことやしなくていいことに手を出して失敗したりもし始めている。それは全く彼らの自業自得、誰に責められても文句は言えないことだろうに、擁護する者たちもおり――『頑張ってる人たちを馬鹿にするからこの国は衰退したのだ』とか『コレが低学歴の失敗でなくて高学歴の失敗なら叩かれるはずがないのに』とか――、阿呆どもの数はまだしばらくは増え続けるだろう。
実際、その阿呆どもが中心となって、自分たち低学歴はずっと虐げられてきたが今こそ立ち上がるべきだみたいな運動が始まってもいた。『悪いのはぜんぶ高学歴なんだから俺たちは何をしても被害者で許されるんだ! 許されるはずなんだ! 許されるべきなんだ!』が彼らの合言葉である。
勿論、『そんなことがあるもんか』派は彼ら阿呆な連中を総力を挙げて叩いており、その彼らを『やるじゃないか』派が叩いており、――――。
そして、これら一連の渦中を遠くから眺めている全く無関係の人々、彼らはぼんやりとした印象でこう呟く。低学歴って、高学歴って、こうなんでしょ?
己はこのところ真剣に考えている。己と妹は同じ両親から同じような時刻に同じところで同じ日に生まれた。同じ家で育った。同じ事件を体験した。同じような苦しみも味わった。しかし、同じような意見は抱いていない。誰にでもわかりそうなことだ。否、誰にでもわかることだ。わかっていることのはずだ。
それでも、今後、低学歴と高学歴に関する問題はより複雑さを増し、勢力を強めながら、いつか誰もがそれについて語るのに飽きるまで続くことだろう。
妹は語った。『その飽きが来るまでの期間が延長されるのに貢献してしまった私は、私たちは、何らかの手段で、その責任を取らねばならないでしょうね』
……己は何時もの座席に着かなかった。婆様の仏壇の前に立っていた。なんとなくそんなことをする気になったのだった。
妹が言っていた。曰く、臨終の床にあって婆様が最後に言い残した言葉は――アイツはそれをずっと己に言えずに苦しんできたという――次の如し。
『前を向いていては辛過ぎる。後ろを気にしてやっていては取り残される。横の足並みを揃えようとすれば騙される。世の中を生きていくには無慈悲になるか鈍感になるかあらゆる責任を回避するしかない。しかないんだ。覚えておきな。それと、ああ、左京に伝えといてくれ。すまなかったねと。愛してたよ』
それがどうした。
その話を聴いたところで己にとって婆様は相変わらず魔女である。というか、婆様もそれを理解した上で自己満足的に言い遺したに違いない。なんて可愛げのない魔女か。魔女に可愛げがないのは当然か。まあいい。最後の最後まで恥ずかしがりやがったわけだ。面と向かって己に言えば良かったのに。せめて、そんな、付け加えるように言い遺さなくてもよさそうなもんだ。それさえしてくれていたら己は。
だから、己は最初で最後の線香をくれてやった。
感謝しろよ? クソババアめ。二度とはやらない。
やがて、朝食をモグモグしているところで電話が鳴った。己は妹を制した。受話器を取った。このところ長く話し込むようになった母に、本来、己には言う資格のない事柄を述べた。それを聴いた母はだって十年来の不仲なのよとあからさまに悄気げた。一時の恥だと己は母を促した。それに母さんだってずっとずっとそうした方がいいと思ってきたんだろ?
己は妹を呼んだ。この、本棚に『家族と打ち解ける方法』だのとかいう新書を隠していた妹は、躊躇いがちに、己の差し出した受話器を受け取った。背を丸めながら何年かぶりで母とぎこちない会話を始める。手探りで進行するそれを隣で聴きながら己は庭を眺めた。
母が妹に尋ねたのが聴こえた。『お兄ちゃんとはうまくやってる?』
「ええ」妹は随分と時間を掛けて答えた。「はい、もちろんです」
縁側から差し込む光が部屋の中にクッキリとした陰陽を生み出していた。似ているなと己は思った。『あっちに行くと溶けちゃうんだぞ』か。
でも、ここでジッとしているのはもうやめよう。明るいところに己たちはそろそろ出て行かねばならない。
不安だよ。それは不安だ。明るいところは眩しいしな。明るいところなりの悩みも増えるだろう。
でも、己にはお前がいる。
お前には己がいる。
頼りないけどな。お互いに。色々とやらかすことが今後ともあるはずだ。
しかし、それでも、いる。
それだけはもう間違えない。
空は高く、雲は無く、しばらくは雨の降ることもないだろうと思われた。