最終章4話/腐ったミカン
キャッチ・ボールで二段モーションはないだろう? タイミングをズラすな。私は打者ではない。取り損ねた球を何十メートルか走って追い掛けた。下着の下に汗が涌いて出た。心拍数が上がっていた。息が切れていて、手足に乳酸がこれでもかというほど溜まっているのに、でも、私は雀躍として踵を返し、生唾を飲み込みながら元の位置へ戻った。運動する喜びを感じるのは随分と久しぶりだった。――――
ンジョール=ヌ会戦から数日後、私は呼び出された。ラブ・レターを渡してくれる相手からではなくて学校からだった。
「恥知らずめ!」と、初めて見る顔の、中年の教師に叱られた。出会い頭だった。なにも人の顔を指差さなくても良いでしょう。
「メディアであんな破廉恥な姿を晒すなんて」おばさん教師が唸った。
「我が校の名誉を貶めたことを理解しているのかね?」質問に見せかけて倫理の教師が私を罵倒した。
「生放送だったんだぞ。放送禁止用語まで喚き散らして」棺桶までの距離がミリ単位の科学先生はモゴモゴと喋った。
ラスボスが控えていた。高名な音楽家のように髭を蓄えた先生は諭すように言った。「そもそもあんな下品なゲームをプレイしていることからが君の人格、その低俗さを物語っていることを悟りなさい。いいかね。君は自分が馬鹿だと宣伝して歩いているようなものなんですよ。即刻、プロ・ライセンスを返却すべきだ。君のためにも。学校のためにも。あんなゲームを高校生がプレイするだなんて世間様が許さんよ」
「ええと」私は校長に助けを求めた。無数にある会議室のひとつだった。幾つかの長机で長方形が組まれている。校長は上座で溜息を吐いていた。窓の外は平和な秋晴れだった。事件は現場で起きているのではないなと私は肩を落とした。会議室で起きている。
「あのね、君等ね、でも、彼女が居ないとさ、増えないのよね? 生徒が。入学希望者が。するとね、ウチ、何年かで廃校だよ。みんな職が無くなるよ。ポシャるよ。おじゃんだよ。いまどき教師なんてどこにも買い手、いないよ」
「入学希望者なら増えます」禿頭でトンボメガネの先生が反論した。しかし、増えますと述べた以後、彼は具体的なプランを述べるわけでもなければ、特に言葉を接ぐわけでもなかった。つまり脊髄反射的に反論したのだった。自分の気に入らない論理を肯定できないらしかった。コレが教師とは。反面教師にしないとですな。それにしても、我が校、最初の中年の先生、おばさん先生、それにこの彼、アラフィフ先生が若手って、まあ、なんというか、実に、こう、未来が無いですね。
「君たちだってさ」校長は両手の指をピンと伸ばしていた。伸び過ぎたツメを気にしながら呆れた。
「最初は賛成したじゃない。左右来宮君を特待生にするの」
「校長の説明に不備があったのです! 貴方、自分に都合の良い情報しか並べなかったでしょう。いいですか、校長、いいですか、学校の顔にコイツは泥を塗りました。本来ならば即刻退学に処するべきですよ。でなくとも停学が妥当です。部は活動停止にするべきだ」
自分基準の正義感に燃えている団塊ジュニア世代の教師、ジャージ姿なのに数学教師の彼は机の表面を掌で叩いた。「こんなやつがいる学校に進学したいと思う、そんな生徒は居ない。居たとしても居ない者より少ないですよ!」
「それってね、君、統計とかあるの?」
「校長、常識で物を考えてください。リコールが出た車会社の売上が下がるように、問題のある生徒の在籍している学校に進学する者は減ります」
「それ、微妙に無茶な喩えじゃあない? そもそも時勢を理解してないよ、君。いまはゲームの時代だよ。そりゃあ非難もされてるよ、彼女。でもさ、それ以上に人気があるのよ。学校経営なんてビジネスなんだからさ。既に学校見学の希望者も増えてるって言うじゃない。ね。例年比ではそうなんでしょ、権上君」
「ええ?」会議室の端でボーッとしていたかなで先生がゲッという顔をした。私にそれ訊くんですかとばかりだ。校長からすればかなで先生ぐらいしか味方がいないのだろう。かなで先生は彼女の椅子――車椅子の肘掛けを指先で叩きながら苦笑した。
「昔、私が、えー、学生だった頃にはですね、ゲーム・プロの有名人が同じ学校に在籍してましたよ。彼女が在籍する前と後では入学希望者が三倍から違いました」
「それが?」おばさん先生は嫌味っぽく訊いた。なんだか女と女の確執を感じる。おばさん先生は鎖のついた眼鏡を指先でクイクイと上下させながら冷笑した。「我が校と貴方の母校は違いますよ、権上先生。お若い貴方にはわからないかもしれませんけれど」
「じゃあ、常識とかいうものも貴方たちのそれと若い層のそれとでは違うのでは?」
「なんですって?」おばさん先生はあくまでもクールだった。しかし、口元のシワは濃くなっている。
「権上先生!」科学の先生が咳き込みながら怒鳴った。「年上、あまつさえ目上の相手にその言葉遣いは何かね、エ?」
「まあ、待ち給え」髭先生はおばさん先生に微笑みかけた。「何も教師同士で対立することはない。ちなみに権上先生、貴方の母校とは?」
「えっ」かなで先生はぎこちなく笑った。「あー、えーと、えー、私立の、カナガワのですね、これ、言わなくちゃ駄目ですかね?」
「隠す必要はないでしょ?」
おばさん先生は右手の人差し指で左手の親指のツメを引っ掻いていた。年に似合わない派手なマニキュアが塗ってあった。年下の愛人でもいるのかな。まさか見栄だけでマーベラス・オレンジとウルトラ・ショッキング・ピンクとマニアック・パープルの三色を選んだってことは無いでしょう。どんな召喚獣を呼ぶつもりだ。愛人は絵描きかな。薄々、自分の体でも内面でもなくて、自分の財産にしか興味がないことを悟っていながら、ついお小遣いとか渡しているに違いない。やがて別れ話を切り出されたとき、彼女は一応、表面上は慌てるし、そこそこ悲しみもするだろうが、空虚な偽りの愛情を演じ続けねばならない日々が終わることに感謝するのである。で、その一方、未練などないと口では言いながら、彼の写真をこっそりとね、携帯してたり、それをどこか風光明媚なところでビリビリに破いたりするわけです。――などと、私は失礼極まりないことを考えた。だって、入り口にずっと立たされてるもんですからね。暇なんですよ。脳内で映画脚本の一本でも作らないとやってられない。
「スタディフロンティア高校です」
かなで先生は車椅子の背凭れに体重を掛けた。頭を振っている。車椅子がギシギシ鳴った。
「ホー」髭の先生はご自慢の髭を撫でながら感心した。「国立ですか」
やっぱり馬鹿にしているのかもしれない。そういう言い方だった。「実はね、私、フェアではないと思いまして、著名なゲーム・プロについて少しばかり調べてきたのです。権上先生の通っておられた学校はサトー、そう、サトーの母校ですね?」
「ええ」かなで先生は唇を舐めた。「まあ……」
「もしや先生、年代的には合致しますが、サトーと?」
「えーっ」かなで先生は手を振った。「まさか。そんな。知り合いな訳がないでしょう。あんな社会不適合者」
「そうですかな」
「そうですとも」
「ふむ。まあいいでしょう。えー、で、えー、スタディフロンティアです。優秀な学校だ。確かに、記憶が正しければですが、アー、サトーの在籍時、入学希望者は爆発的に増えたんですよね、あの学校。しかし、最初から高偏差値で、生徒からすれば良い勉強の出来る環境が整っていて、教師も優秀、ゲーム部ではなくて他の部活も毎年のように色んな実績を挙げてましたよ。複合的な要素があったのではないですかな? サトーが居たからではなくて、サトーが居たことも理由のひとつだ、と。というか、サトーが居たことも所詮は理由のひとつに過ぎない、と」
「思うに」倫理の先生が私を睨みながら話し始めた。「ゲーム・プロっていう職業がまずいかんですよ。あんなもの職業ではない。そもそも職業ってのはね、労働ですよ。労働は国民の義務ですよ。義務というのはね――」
あの、その話っていまの話に関係あります? 場は白けた。倫理の先生は学校の話から飛びに飛び、ついに政権批判、謎の陰謀論(あれもこれも○○の利益になるように仕向けられているのだ)、嫌いな政治家への個人的な攻撃に至り、そこから突如として現代の若者がどれだけ軟弱かに転じた。
結局、三分近く彼は独壇場を展開したが、彼の結論はそれらの話と全く関係がなかった。
「ゲーム・プロで釣って集めた生徒なんてね、まともであるはずがない。もし多数決で可決されてもアタシは嫌ですよ。そうなったらアタシあ学校を辞めますからね」
自己評価お化けか。
この他、駄目な大人の見本市はますます盛況、自分が糾弾されているのではないのに自分が名指しで辱められたと感じて止まない先生は顔を赤くし、暴言ばかり吐く先生は何故か自分は他人から認められないと場違いにも嘆き、ようやくのことで現れたまともそうな先生は、
「思うに、今回の件は、(ある神話の名前)でも語られているように青少年の多感なエモーションがですね――」
いきなり謎の検討材料を持ち出して来たので仰天した。(多分、こういう人が少年漫画の考察本、コンビニとかで売ってる奴ですよ、あれを書いてるんだと思いますね。『このキャラはあの伝説に登場する人物と同じ名前であり、あの人物と云えばあの逸話なので、このキャラの物語上の役割は云々』とかいう)
いい加減、“駄目人間大集合!”にもゲンナリしてきた。査問会に召喚されたミラクルなんとかではないのだ、私は。ほとほと三行半を叩きつけてやろうかと思った。否、実際に叩きつけるところだった。そんなに言われなければならないなら辞めます。
私が側頭部を掻き毟りかけたそのとき、会議室の扉がバァーンと開いた。我々は目を丸くした。扉の向こうには大量の本を抱えた誰かが居た。間もなくそれが生活指導の高橋だと知れた。彼は遅れて申し訳なかったがただいま高橋圭三郎が参上仕ったなどと口上を述べながら入室した。高橋の後ろには教育実習生の鈴木田さんがいた。彼は恭しく会議室の扉を閉めた。私にウィンクした。彼も小脇に何やら分厚い本を抱えていた。私は高橋に少し持ちましょうかと申し出た。高橋は粗い鼻息ひとつで私の提案を跳ねた。
「話は概ね理解しているつもりです」高橋は長机のひとつに抱えていた本を置いた。ドン! と、かなで先生以外の全員が椅子から腰を浮かすほどの衝撃が起きた。
「この左右来宮の馬鹿をどう遇するかですな? よろしい。それについては私に意見がある。大いなる意見がある。発言、よろしいか」
誰も反対しなかった。高橋はでは失礼しますと本の山から一冊を取り上げた。それは学校の歴史を纏めたものだった。黒革の表紙に開校一五周年記念とあった。文字は金色だった。持ち出し禁止というシールが貼ってもあった。見なかったことにする。
「野球部!」高橋は辞典のような本の三〇六ページを開いた。「地区大会初戦敗退! のみならず、実は地方新聞で取り上げられとります、負けた相手に難癖を着けて暴力事件を起こしかけておる。――鈴木田!」
「はい、先生」鈴木田氏は彼の運んできた本を高橋に渡した。
「ボクシング部!」その本はどこかの新聞が発刊したキレる十代がどうとかいう題名のハード・カバーだった。
「我が校、始まって以来のこの上ない名誉であるからご存知でしょう、ニ〇年前に在籍していたボクシング部のエースの某、彼は二年生のときにはオリンピックにも出場しましたけれども、三年生の秋、飲酒運転、薬物乱用、公務執行妨害に傷害罪で逮捕されまして、芋づる式にですな、我が校から八名のクズが逮捕されました。薬物絡みで」
高橋は本を閉じた。鈴木田氏に押し付けた。高橋は手首を捻ったり返したりした。彼は、今日、竹刀を持っていない。持っているときの癖が抜けていないのだった。
「まだまだある。まだまだあるのです。これらの本の中には我が校の汚点が幾らでもある。我が校の過去、麗潔館高校、樋列館高校、丹判館高校、その三校が合併しまして、以来、ニ三年、我が校は歴史を紡いで来ましたけれども、七導! 清楚、清潔、清純、清浄、清淡、清涼、清廉潔白! その教育理念を掲げた結果、さて、立派な生徒は何人、排出できましたか?」
高橋は見得を切った。「よろしいか、先生諸兄。我が校の顔はもうとうに泥だらけなのです。いまさら塗られる泥などたかが知れとる。上塗りされたところで誰も気が付きやせんよ。学校の名に傷? 大いに結構! 諸兄らは見誤ってはおりますまいか。学校とは教育を施す場であります。無知な者に知恵を与える場であります。ならば、手のつけられんアホタレどもを更生させるのが我らの至上の職務ではないか。学校の顔、名、そんなものを優先しているようでは言語道断、左右来宮を辞めさせようだの、ゲームから足を洗わせようだの、そんなことで問題を解決したつもりになっているようならば増上慢も良いところ。生徒を正しい方向へ導かず、ただ強制して、矯正して、生徒のことを考えるのではなく、自分たちの利益を追求して、何が教師か。貴様らは教師失格だ」
万座は沈黙した。言い負かされたのではない。頑固爺様を相手にするのが憚られたのだろう。端的に言い直すならば“ボケ老人相手に戦っても疲れるだけだ”ということに気が付いたのである。髭の先生は高橋の言説にさも感激したらしく、自己の不明、それを恥じて、とりあえず私に軽い処罰――公衆の面前でアレだのコレだの口にしたことに対する反省文の提出――を与えてはどうかと発議した。全員が尤もらしく賛同した。それで会議は終わった。下らない時間だった。もしかして大人って何時もこういうことをしてるんですか。だとすれば大人にはなりたくないな。
「あのですね」サッパリしてしまった会議室で私は高橋に頭を下げた。
「なんだか、どうも、ありがとうございます」
「図に乗るな」高橋は不愉快そうだった。「私は教師としてあるべき姿を示しただけだ。ことさらにお前を守ってやろうと思ってのことではない。というかな、左右来宮、この落ち溢れめ、お前という生徒は本当にどうしようもない。人格を疑うぞ。先生方の手前、言ったが、貴様、本当に我が校の顔に泥を塗ってくれたのだから、そのことについてキチンと考えねばならん。具体的には――」
鈴木田先生(予定)は肩を竦めた。私は苦笑した。高橋は滔々と語り続けた。