8章29話(神々廻)/豚が二足歩行しないのはできないからか?
自分の行為が誰かの将来を左右する。コレは全く胃に悪い。このせいで、最近、日に五食しか食べられなくなっている。嘘ではないよ。神々廻は見ての通りのデブなのでね。二時間に一度はモノを食わねば、本来、生きていけない体質なのだよ。異論があるならデブになってから言い給え。君等もデブになってから言い給え。
私は先天的なデブなのだ。格好の良いデブではない。少年時代を神童、美少年、清廉潔白、そう呼ばれて過ごしたことがあるような似非デブどもに真実のデブについて語って欲しくはないと思ってもいる。後天的なデブなど掃いて捨てるほどいる。――ちなみに、私はここまで、腹に付いているもの以上に、心に付いている贅肉の話をしている。
私はデブだ。幼少時代から他人より遥かに肥満した自尊心をこの分厚い脂肪の奥に秘めていた。どいつもこいつも妬ましかった。私のウチはこうなのに。『お前は男に生まれた癖に――』
そして、また、無論、私自身、その私を嫌っていた。『醜いデブめ!』と、私は何度、自分をそこらの焼肉屋のキッチンへ放り込もうと思ったか知れない。私など解体されてしまえばいい。さして美味くもないカルビやハラミに解体されて、貧困家庭、数ヶ月に一度だけやってくるバイキング、その卓上、電気ロースターの上、せめて将来に希望を持てずに生きている子供の舌を数秒でも騙してやればどうなのだ。私に生きている価値などあるのか。お前は豚ではないか。不満足な哲学者になれない豚ではないか。餌さえ与えられれば満足する豚ではないか。炙られろ。とろ火で炙られろ。この豚め。
わかるだろう? 脂肪は口当たりが良いのだ。融点が低い。舌の上で蕩ける。私の本性はそれによって包まれることで隠されてきた。今後ともそうだろう。
私は自らの体から溶け出して完成した嘘と虚飾の海を、全身、油まみれになりながらも、脚を取られながらも、それでも前進していくしかない。
所詮、世間や四方山は変わらないのだからね。個人単位では何とでもなる。しかし、集団となるとそうはいかない。――要するにこういうことだ。自分は自分である。どれだけ嫌いでも生きていく上では肯定せねばならない。ただし、肯定するにはキッカケや自信が必要になる。デブにはそれがない。だから権力を求める。シンプルだ。
「神々廻さん」と、左右来宮君がペコリとした。私は、いましがた、ンジョール=ヌ原野に到着したところであった。随員は少ない。モヒート首都を脱出したときから着いてきてくれている一個分隊ほどの護衛だけだった。ただし、やれることはやったという自負がある。自分のものにならないモヒートならぶち壊してしまえ。ドジャーンとね。
「お疲れ様だったねェ」
私は腹太鼓を叩いた。雲行きが怪しかった。丘の上に吹く秋風は冷たかった。軍楽隊の演奏が乾いた空気の中で透き通っていた。上手な演奏ではない。しかし、こう、なんというか、グッとくる演奏ではあった。真に迫るものがある。芯に訴えるものがある。まァ、昔の流行歌、それも恋愛の歌などをこの場で演奏するのはどうかとは思われるが、どういうわけか泣きながら演奏し続けている彼女らに『やめなさいよ』などと言えるはずがない。というか、彼女ら、自分たちの世界に入っているけどね。戦闘が終わったことには気が付いているのだろうね?
「勝って良かった、実に良かった、それなりに不安で来たのだがね」
不安という言葉は正確ではないな。私は思った。正確には覚悟を固めながらここまで来たのだ。左右来宮君と合流したとき、もし、彼女が敗北していたら? そもそも合流する前に存在が消滅していたら?
そのときは男らしく、潔く、そうする他にない、誰かの手に掛かろう。そして、左右来宮君は無理だろうが、一人でも多くの、このクーデターに参加した者の将来を守るべく、出来るだけ多くの罪をおっ被るつもりでいた。
「本当に良かった」と、だから私がこう言うのは割と深刻な意味合いでだった。どれだけ覚悟を決めていようとも背中に流れる汗は止められない。どころか、覚悟を固めれば固めるだけ汗の量は増える。貴重な発見だ。次に活かせる。自分は本当に仲間のために男らしく死ねるのか。いざとなれば命乞いをしないか。ああ、文書にするといいかもしれない。そうだ。それがいい。戦闘に臨むにあたっては先に全ての責任は自分にあると明記するようにしよう。次からは。
「ありがとうございます。神々廻さんも長旅、お疲れ様でした」
「うんうんうんうんうんうん。慣れない馬で苦労したがね。乗り継ぎもあったし。ところで君は何をしとるのかな?」
左右来宮君は花村君に手伝って貰って着替えをしていた。花村君の慣れない手付きを、それでも、左右来宮君は尊重していた。
「準備ですよ」
花村君が後ろから差し出した軍装に袖を通しながら左右来宮君は言った。その第一種軍装は華美である。元来、高学歴の、見栄えを重視する層のためにデザインされているからだった。尤も、それで高学歴を派手好きの阿呆だと断定してしまうのは早計である。戦場における見栄えには一般社会のそれよりも大変に重い意味がある。非常時にキチンとした服装を整えられる者をこそ将兵は慕う。更に言えば、この場合、服装は社会的地位を視覚的に象徴している。人間は大抵、人を見た目で判断している訳で、パッと一瞥しただけでコイツは自分よりも格上だ――と、そう確認できることは無駄ではない。なにせ、殺し合いの場である、俺はお前より偉い、偉いから命令できる、お前は俺のために死ね、こういうやりとりが何時あるかわからない。
「準備? 何のかね。パーティにでも招かれとるのかね、その服装は」
「ある意味では。狩りですよ」
「聞き慣れん単語だね。どうも、私は前から思っとったけどね、君ね、あのね、常用外の漢字や珍しい言葉を使いたがる傾向があるね」
「低学歴ですからね。知ってる言葉をそれらしく振りかざしたいんです。で、神々廻さん」
「何かね?」
「この場をお願いしたい」左右来宮君は着替えを終えた。襟を自分でもういちど正す。「いいですか。私は少し出掛けます。指揮権をお預けする訳ですが、まあ、実務は参謀長を頼って頂ければ」
「いいとも」私は気安く請けがった。剣橋君も大変だなと苦笑する。
「どうも」左右来宮君は花村君が差し出したマスケット銃を手にした。着剣してあった。それから、アレは、ああ、あの部隊のアレか、彼女はもう片手にカンテラを引っ掴むと丘を駆け下りて行った。丘の麓では見事な体格の馬に跨った高望君が待機していた。
「君は行かなくていいのかね」と、私は訊かずともよかろうことを花村君に訊いた。
「はい」と、彼は私の知る限り初めて率直な言葉を口にした。まあ、それほど多く言葉を交わした間柄ではない。けれども、彼の心境はなんとなく理解できた。邪魔になるから伴はしない。その決断を男子するのにどうして苦渋でないはずがあるのか。私は彼の背にそっと手を添えた。
司令部に挨拶して回った。露天に置かれた机のひとつで露天の机のひとつで那須城崎君が頭から湯気を出していた。労った。その那須城崎君を介抱してやっている宵待君は笑っていた。彼女、人伝に聞いたことだが、的確で冷酷に夏川君を追い詰めておきながら気に病むところがないらしい。『人生の秘訣は割り切ることですからね』
参謀長、副参謀長、それにどうやら復籍したらしい作戦部長らを訪ねるのはやめておいた。忙しそうだ。邪魔をしては不味い。護衛を連れて私も丘を下った。戦後処理に従事している部隊の幾つかに声を掛けてみた。彼らは大抵、笑い、笑い、仲間を褒め称え、喜び、勇み、抱き合い勝利を喜んでいた。
だが、悩み、疲れ、悲しみ、涙して、何かに疑問を抱く者も僅かながら居たのが印象的だった。
当然のことだが、そして忘れられがちなことだが、武装解除されてひとつの塊となった敵軍にも様々な態度の人々がいた。敗軍だからといってその全員が嘆き悲しむだけのはずがない。敗戦を素直に受け入れる者、むしろ敗戦に喜び暮らす者、早くもなぜ負けたのか、その原因ではなく犯人とでも言うべき存在を探し始めている者までもが存在している。彼らの中には昨日までの親友を、受け入れがたい、今日の敗北の責任者として永久に貶める者も居るだろう。
鋼鉄の心を持たない私はある木立の下へ逃れた。幾つかの死体と何挺かのマスケット銃が転がっていた。なんとはなしにそのなかの一挺を私は拾った。驚いた。そのマスケット銃の中からはニ三発もの弾丸が転がり出てきた。装填するだけして、自分が殺されるまで、ただの一回たりとも発砲しなかった者がいるのだ。
このことは誰にも話すまい、と、私は決めた。この、とても美しく優しく残酷な事実は私だけのものにしてしまおう。誰か見知らぬ他人のどうしようもない解釈に汚されることがないように。人間はそういう、身勝手な思い込みによる支えがひとつぐらいはないと立ち続けることすらできないのだから。
私は出世の階段を登る。やがては階をすら登ろう。その上に君臨しよう。転げ落ちるようなヘマだけはすまい。ここまでは何とかやってこられた。これからもそうするさ。邪魔者を一人一人、丁寧に、丁寧に、殺してから一応、息の根が本当に止まっているかどうか確認して、念の為に殺し直すぐらい丁寧に排除しながら。
戦いはまだ始まったばかりだ。全く、全く、デブは辛い。辛いね。ひとりぽっちでは満足に歩くことすら叶わない。