8章28話(黒歌)/君の居る時間
それから、戦いはもう長く続かなかった。――黒歌〆嘉は周りの評価してくれているほど強くない。この数日間、戦闘開始から終了までの四時間、動きっぱなしだった私はヘトヘトになった。司令部テントの中央に与えられた自分の席ではなくて、その端も端、陽の光の当たらないところに蹲った。間もなく思い直した。こんなところでこうしている副参謀長を他人はどのように観察するだろうか。
将兵に与える影響がとか、そういうことではないのだった。私は積み上げられていた木箱に腰を降ろした。中身がなんであれ座り心地は悪かった。司令部の周囲は勝利に沸いていた。意味のない絶叫、万歳三唱、敵への悪罵、痛罵、面罵、肩を組み合ってモヒート軍歌を歌う者、カメラの撮影地点を推定してそちらの方向へ手を振る者もいる。特に最後の人々が私の注意を惹いた。カメラか、と、そう胸中で嘆息した。
敵の一部が離脱した。我が軍の兵が敵司令部へ到達した。敵司令部が降伏を宣言した。我が方はそれを受け入れた。終わってみれば、ンジョール=ヌ会戦に限ってのことではあるけれども、あっけない幕切れではあった。右京ちゃんにとっての本命の戦いはむしろこの後である。彼女の幸運を祈ろう。嘘ばかりの私だけれど、うん、こればかりは心から。
それにしても敵の司令部護衛大隊は屈強だった。多分、暁顕と彼の統率していた第二旅団作戦部の指導があったのだと思うけれども、彼らは早くも散兵戦闘に効果的な対応をしてきた。のみならず、地形(戦術障害線)、集団心理(低学歴と高学歴の対立)、矢玉の数の差(我が右翼は敵戦列を突破した後で補給を受けていない)、そういったあらゆる要素を活かして我が軍の波濤を長時間に渡って防いだ。実際、一個大隊が耐えられると予想された時間の、驚くべきことに、彼らはニ倍近くを稼ぎ出したのである。
タッチの差だったのだ。
もしも夏川さんが誘惑に負けていなければ、もしも彼女に代わって第二大隊を指揮した者が自尊心を優先しなければ、先に司令部を陥落させられたのは我が方だった。
否、ここだけの話、私たちは負けたのかもしれない。試合には勝った。戦いには負けた。しかし、兵力を喪い過ぎた。兵站も滅茶苦茶だ。ここから軍を再建するにはひとかたならない努力と幸運とが求められる。
「高学歴共め」テントの外で二人組が語り合っていた。
「修羅場会戦(シュラーバッハ会戦の通称)で何を学んだんだか。あっけなく誘導されてあっけなく殲滅されやがった」
「そりゃあそうだ。アイツら、自分たちで思っているほど頭が良くないんだからな。馬鹿だよ。馬鹿。殺されて当然の馬鹿共だ。負けて当然の大馬鹿どもさ」
「偉ぶるだけが能のな。現実には何をする能力にも欠けた連中だが――」
「それを自覚するだけの脳もない」
二人組は肩を叩きあった。その場で別れたらしい。そして、司令部テントに入ってきた一人の青年は、ボーッとしている私を認めるなり歩み寄ってくれた。彼は優しく微笑んだ。
「副参謀長、平気ですか? 顔が青いですよ。何か飲み物などお持ちしましょうか。お疲れ様でした。貴女の力なくして我が軍は勝利できなかった。感動です」
照れた風に笑おうと決めた。そこで気が付いた。笑顔を作るのに気力が必要だった。
無理をしてでも笑わなきゃ。そう思う。笑っていてこその人生ですわよ?
だって、笑ってないとパパが――本当のパパもお得意様のパパたちも――怒るんだもん。笑顔で、ピースして、カメラ目線で、つい何年か前まで、私はそうやって生きてきた。思い出す。『私は京太郎も暁顕もどっちも欲しいの!』と取り乱した夜のことだ。
ああ、男女関係のイザコザで大火傷した直後だったのにな。いま、住み始めた家にその何ヶ月か前まで付き合っていた人の乗り込んできた後だったのに。暴れる彼をどうにかするために幼馴染二人が怪我をしてくれた後だったのに。
私、反省もせずにこう言った。
『欲しいなら何でもあげるから。一人じゃ足りないの。二人じゃなきゃ嫌なの。二人に愛して貰わなきゃ足りないの! なんで喜ばないの? ねえ、なんで喜ばないの? 男の子ならこれで喜ぶはずでしょ!』
私の構ってちゃんな性格のせいでどれだけ暁顕を傷付けたろう。私は何度、こういう、“かわいそうなわたし”で自分を正当化するつもりなのだろう。どうせ私は変わらないのに。とりあえず笑っておけば何でも誤魔化せると信じて。(――ちなみに誤魔化すの語源は二つあるとされているんだって。ひとつは胡麻菓子を語源とする説ね。大昔の胡麻菓子と言えば見かけは立派だけど中身は空洞、見掛け倒しも典型例だったから、ソレが転じて誤魔化すになった、と。もうひとつは護摩に由来するらしいよ。お寺とかで祈祷するときに炊く護摩ね。偉いお坊さんの護摩だよ、って、そう偽ってただの灰を売り捌く詐欺師がいたんだってさ。へえ。この護摩に“紛らかす”とかに使われているる“かす“が合体、護摩かすになって、それがまた誤魔化すになったんだって。ハッハッハ。私、なに言ってんだろ。でも、どっちの語源だろうと、私も似たようなもんだよね)
ああ――、いけない、いけない、だから笑わなきゃだし。でも頬が痙攣していて笑えない。私は両手の指で自分の口の端をニーッと引っ張った。これで笑っていることになった。安心、大丈夫です。私は大丈夫です。なんでも言うこと聞きますわよ? だから乱暴しないで。なんつってね。
「何をやってるんです」
不意にそう話しかけられて驚いた。気が付くと暁顕が目の前に立っていた。何人かの兵に銃を突きつけられている。縄で縛られてもいた。手錠までされている。当然か。
「オイオイ」京太郎は丸めた書類の先で暁顕の頭をパコスカ叩いていた。「お前を連れてこさせたのは感動の再会をやるためじゃあないぞ」
「痛いです」と、暁顕は京太郎の言葉を半ば無視した。京太郎は大袈裟に肩を竦めた。
「〆嘉」暁顕はまるでここが海の底であるかのように冷たく静かに呟いた。「泣きたいなら泣けばいいでしょう。無理に笑おうとせず。なぜ、泣きたいのかは、私にはわかりませんが」
「え、あ、ちょ」私は涙腺が緩むのを感じた。泣いたら駄目なのに。止められなかった。
「なんでそういう似合わないこと言うかな」
私は泣いた。笑ってもいた。「でも、そういうところが大好きだよ」
暁顕は目を丸くした。それから見たこともないほど柔和に口元を綻ばせた。
「で」と、京太郎がどこか満足げに訊いた。「暁顕、お前、戻ってくるか? 戻ってくるなら、なにしろクーデター失敗の立役者殿だからなあ、主演男優賞だよ、周りからは恨まれるだろうが、それでも、やることは死ぬほどあるんだ。とりあえずこの戦後処理をしなくちゃならん。敵の武装解除も。引き抜ける奴は引き抜いて。戦場清掃はどうしたもんかな。それらが完了次第、ロホーヒルヒに戻る必要もある。あそこを拠点に今後の方針を定めないとだ。お前の脳味噌が必要なところなんだがな」
「戻りましょう。というか」
暁顕はあっけからんと言った。「いつ、戻らないと言いましたか、私が?」
「お前なあ」京太郎は深い溜息を吐いた。
「今回は貴方たちを試したのです。見事な戦いでした。勝てると思ったのですが」
「たまに殺したくなるな。お前さんのこと」
「たまに殺したくなる? 私なんていつもですよ」
二人は顔を見合わせて爆笑し始めた。兵らが気味悪そうにした。何を勘違いしたのか、司令部中の参謀たちがコチラを指差して手を振ったり、自分たちの笑い声を高めたり、興奮して意味の通らないことを叫んだ。
いいな。私は自然と笑顔になった。作らない笑顔を浮かべるのはこの二人の前でも久々だった。こういうのっていいな。悪くないな。
リアルの、私の身体のアチコチに着いている酷い傷跡が痛む気がした。それでも私はこの人たちと一緒なら変われる気がする。この場所でなら変われる気がする。やろうと思えば人は変われるのではないか――と、根拠もない希望と願望を抱いた。私は涙を拭った。涙を通して見る世界もたまには悪くないなとは思ったけどね。
「副参謀長」ひとしきり笑った後で、これまたわざとらしい咳払いをするなり、京太郎が呼んだ。
「というわけで、仕事だ。勝って喜ぶ役目も勝って悲しむ訳のわからん役目も暇な連中にくれてやれ。俺たちにはやることが山程あるんだ。俺たちぐらいはまともに働かんとこの軍はどうにもならんのだ。いいか」
「――――はい。なんでもお任せですわよ?」