8章27話(夏川)/私のでないティンクル・スター
流汗淋漓の身を震わせた。伸ばし過ぎたかなと後悔していないでもない前髪を掻き上げる。粒のような汗がダダダッと落ちた。幾つかの雫は私の睫毛に当たった。一瞬、その場で雫になって、粘っこく毛に纏わり付いてから、やがて流れた。汗の塩分が本物の涙を誘った。目が痛んだ。
「宵待」と、私は呼び直した。周囲では私の兵が殺戮を恣にしていた。「貴女こそこんなところで何をしてるの?」
マスケット銃を握り直す。
銃剣は? 着いている。
銃剣の損傷は? これといってない。
装填は? とっくに撃った。
再装填は? しているだけの暇は流石にない。
疲れはどうだ? 色濃い。
動けるか? 動けないで醜態を晒すぐらいならば。
周辺に兵は? 五人は従えていたはずだったが逸れた。
それで問題は? あるはずがない。宵待ぐらいなら簡単に殺せる。
私は身動ぎひとつしない、そのふてぶてしさは賞賛するわ、宵待に躙り寄った。尤も、そのふてぶてしさは慢心とか諦観に類するものかもしれない。せめて評価の高いうちに殺そう。程度の低い相手を殺したところでスコア・ボードが賑やかになるだけだ。宵待は銃すら持っていない。
ところへある高学歴が叫んだ。「低学歴ども、お前ら、何の役にも立たないんだ、せめて俺の盾になって死なねえか!」
別のある低学歴が唸っていた。「あなたは高学歴です。死なれると全員が迷惑する。指揮官は最後に死んでください。せめて俺の分までは生きてください」
面白いな。私はそぞろに思った。最初の高学歴は敵だった。二番目の低学歴は味方だった。低学歴の身分向上だなんだを大義名分にクーデターを始めた敵の側にあんな高学歴がいる。低学歴を殺せと唱和している我が方にあんな低学歴がいる。
あんな低学歴がね――。ゲームを始めて私が最初に配属された部隊、そこに居た連中は悉皆、私を馬鹿にしたというのに。後ろから撃とうとした者もいた。それどころか集団であんなことをした者も。
素敵ね。羨ましい高学歴だわ。でも残念、『せめて俺の分までは生きてください』の願望を託された側は、これといって低学歴の献身に感じ要らなかった。功を焦って不用意に身を晒した。撃たれて死んだ。
「左右来宮も」世の中は皮肉で矛盾ね、と、感じながら私は無抵抗の宵待に銃剣を突きつけた。剣先は彼女の慎ましい胸から数センチ先で的礫と煌めいた。興奮からか手が震えた。獲物を前に舌舐めずりとは。三流のすることだとは承知している。それでも言わずにはいられなかった。
「直ぐに後追いさせてやるわ。嫌だと言っても無理にでもさせてやる。仲良くやりなさい。低学歴の落ち零れ同士ね」
「あー」宵待は辺りで死んでいる仲間のことなど気に掛けている素振りもみせない。お雛様のように呑気に笑った。「左右来宮さんに偉く執着してますね。いまから私を殺そうとしてるのに、他の女のこと考えるの、マナー違反だって知ってました? ま、いいです。とにかくアッチでは夏川さんの分の席も用意しておきましょう」
「――ンア?」
「だって、夏川さんだって、低学歴ではありませんけど、落ち零れじゃないですか」
塗炭にカッとなった。狙いを間違えた。案外、宵待が素早かったのもある。宵待は転ぶそうに右へ逃れた。その脇腹を銃剣が抉った。浅かった。内臓を穿つこともできなかった。宵待は乱痴気騒ぎの合間を縫うように走りながら尚も私を煽り続けた。「あらららららら。随分と効いたみたいですね?」
「黙れ」放っておけばよかろうに。私は宵待の後を追いかけた。宵待を庇うように兵が私の行方を遮った。鈍い。邪魔だ。喉に銃剣を叩き込んだ。そのスキに宵待の見失った。ただ声だけが聴こえ続ける。偏頭痛がした。脳の血管が切れるのではないかと思うほど脈打っていた。呼吸をすると米上がジーンと痺れた。
「さっきも言ったんですけど。左右来宮さんに痛く執着していますよね?」
「黙れ」見渡す。屈強な男どもが組んず解れつしていて視界が効かない。手頃な奴らを掻き分ける。その陰には居なかった。その他の蛮声が多過ぎる。宵待の声がどの方向から聴こえて来るのかわからない。「私が左右来宮に執着している?」
「しているじゃないですか」
「しているわけがないでしょ」
「しているわけがない? わけがない人は左右来宮さんの名前が出る度にそうやって顔をグチャッとさせるわけがないんですよ」
嘲笑された。していない、と、私は怒鳴った。狭窄している視界でどうしてそれを捉えられたのか。宵待の背中がツーと乱戦の合間を抜けていくのが見えた。追い掛ける。頭の片隅で冷静な私が呻いた。罠だ。集団から私一人を孤立させるつもりだ。だからどうしたというのか。指揮官の責任だと。知ったことか。どうせこの場での戦闘は既に決着している。後は他のプレイヤーどもがなんとでもするだろう。それよりもいまは宵待だ。
「ホラね」宵待は手近な林に飛び込んだ。ある木の陰で言った。「こんなところまで追いかけて来るじゃないですか。部隊を放置してまで。それって、間接的に、私の言葉が正しかったことを証明してますよね。やっぱり執着してるんだ」
宵待の隠れている木の裏へ飛び込んだ。失策った。子供のおいかけっこでもあるまいし。宵待は木の向こう側へ身を滑り込ませた。彼女はそのまま林の奥へ駆け出した。
「もしもーし。返事してくださいよ。ラグってます? 回線、遅いんじゃないですか? お住まいの地域ってどこでしたっけ? 良い回線を契約した方がいいですよ。貧乏でなければ。よほど僻地に住んでいるのでなければ」
奴の後を追いながら私は弾薬盒を漁った。紙実包を摘み取る。宵待は太いブナの木の陰に身を潜ませた。上等だ。私は立ち止まった。再装填する。時間稼ぎの意味を兼ねて会話に乗った。
「私は執着なんてしてないわ」弾丸部分を噛み千切る。
「してますよ。貴女の性格からしてしてますね」
「してないわ」火皿に火薬を盛るところまで来た。
「してますよ。ネチネチネチネチと何時までも過ぎたことを引き摺る面倒な女じゃないですか、貴女は。大体、していない、していないって、もっと何か他にないんですか。本当に執着していない人は執着してないなんて言いませんよ。間違っても言いません」
なんてムカつく女だろうか。銃腔内に火薬を落とし込みながら私は証拠がないと返事をした。
「証拠? わかりました。じゃ、逆に執着していない証拠を出してくださいよ。そうしたら私も証拠を出しますから。――――――あれ? 出せないんですか? 高学歴なのに。エリートなのに。私に証拠を出せと言ったのに自分は出せないって常識的に考えればおかしいですよ。あ、自分が出せないから私に出させようって言うんですか?」
銃口に弾丸と紙実包を押し当てる。槊杖を抜く。
「少し考えてみましょう」宵待は切り口を変えた。「どうして貴女は左右来宮さんに執着するんでしょうか」
「してない」無心で弾丸を押し込む。
「またそんなこと言って。なんだろ。もういい加減、嘘、吐くのやめて貰っていいですか」
「嘘じゃない」火薬を突き固めた。
「嘘じゃない? 嘘ですよ。貴方はムキになってると嘘を吐くんです」
「違う」槊杖を仕舞う。銃を腰溜めにする。宵待へ近付く。
「違う? 違うかあ。わかりました、じゃ、貴方は執着しない性格なんですね。でも、じゃあ、ルテティエの件はどう説明します?」
私は足を止めた。強く地面を踏み締めた。光と縁を切って久しいらしい林の地面は、何時のものだかもわからない、古い落ち葉の腐ったので埋め尽くされていた。踏み躙れば濁った音を立てる。水の音にも似ている。夜のあの川の音にも似ていた。私が橋から身を投げようと考えた異国の川であった。
「人事幕僚から聴きました。有名な話らしいじゃないですか。鳴り物入りで留学したのに、夏川さん、全然、成績が良くなくて、一年ぽっちで神経衰弱になって帰国したって。それなのに周りと自分は違うんだ、って、そう思い続けてるんですよね。わかりますよ。大変でしたね。辛かったですよね。低学歴なのに自分より早く出世した左右来宮さんが許せないんですよね。だから執着するんだ。落ち零れだって言われて怒っちゃったんだ。あーあ」
気が付いたときにはわけのわからない罵声を張り上げながら走り出していた。気が付いたときには脚を引っ掛けられて地面に転ばされていた。気が付いたときには銃を取り上げられていた。畜生め。いつもこうだ。手間暇を掛けて準備したものがいつも無駄になる。畜生め。畜生め。畜生め。私はいつもこうだ。死んだ方がいい。死んだ方がなんぼかマシだ。畜生め。これで証明終了だ。この女の勝ちだ。前後不覚になるぐらい私は執着している。
執着して何が悪い?
『七夕』と、中学以来、私を育ててくれた祖父は言っていた。
『俺は病院なんて行きたくねえや。行って癌だって診断されるのが嫌で嫌でな。それにな、診断されさえしなければ病気じゃあねえのよ。わかるか?』
私はずっと恐れてきた。優秀だ優秀だと言われながら、所詮、その優秀の程度が並であることを自覚するのを。私は優秀かもしれない。だが天才ではない。普通に生きていれば気が付く。気が付いてしまう。気が付いてしまった。虎だ。私は教科書に出てきたあの虎だ。
ルテティエでは、ああ、あれだけ勉強したのに彼らの言っていることなんてなにひとつとして理解できなかった。あの、周りから取り残されて、それに同情されたときの居心地の悪さは忘れられない。『アイツは何なんだ?』と陰口を叩かれるのも。
忘れられないから反動的に低学歴どもを見下す。だって、連中、努力もしないのに、自分たちが能無しだという事実を指摘されては怒り出す。環境? 事情? 低学歴になった理由? そんなものはない。私の家だって貧しい。それでも、『使うな』の張り紙がされたストーブの置かれた、寒い、足の踏み場もないほど散らかった、虫のワンサカと繁殖している、電気のつかない、食べるものと言えば数日置きに母が買ってくるドラッグ・ストアの弁当の部屋で――それでも私は努力してきた。やろうと思えばできるのに。それをしないで。なにが。誰が。私の。私を。お前たちはいつもそうだ。
褒めてよ。認めてよ。愛してくれなくてもいい。せめてココに生きていると認めてよ。世間でもネットでもあんな愚図どもが持て囃されているのになんで私だけ。母さんみたいに『期待してたのに』とか言わないでよ。じゃあ、どれだけ勉強してもコレ以上は無理そうよ、ママ、って、そう素直に言えば良かったの? 私と母はもう何をやってもやり直せない。そんなことだらけだ。世の中には後からやり直せないことが多過ぎる。
殺してやる。ああ、畜生、左右来宮、アンタならわかってくれると思ったのに。アンタも私をただ高学歴だからというだけで受け入れないに決まっている。確かめたわけではないけれど。こんな都合のいい思い込みの激しい私がなぜまだ自殺しないのだろう。誰も殺してくれないからだ。死ぬ勇気もないからだ。ただ漫然と生きている。
林の外で喚声がした。何事かと驚いた。私は茫然自失から立ち直った。宵待の姿は見当たらない。
目を凝らす。理解するのに時間を要した。我が第二大隊が謎の機動を取っていた。工兵どもを蹴散らして再集結したらしい。それはいい。しかし、なぜそこから動く必要があるのか。第一大隊の後背と進路を確保すべきなのに。
左右来宮である。あの女が前線に出ていた。小隊程度の兵を連れて工兵の援護に出てきたようだった。何を馬鹿な。そんなことがあるものか。見え透いた罠ではないか。――見え透いた罠にまんまと騙された女が何を言うのか。我が第ニ大隊は左右来宮に挑発されたらしい。そして、その挑発に乗ぜられるがまま、逃げ出した左右来宮を追いかけていく。第ニ大隊の指揮は、いま、誰が執っているのだろうか。わからない。私はどこかで戦死したものだと思われている。もしかすると明確な代理指揮官が決まっていない可能性もある。指揮系統が混乱しているのだ。結果、誰もが自分の感情で動く。感情で動いてロクなことにならないのはゲームだろうが現実だろうが変わらない。
プライドだ。高学歴にはそれがある。低学歴を嫌うのもひとえにそのプライド故なのだ。プライドを貶められた高学歴は居ても立っても居られない。
第二大隊は敵司令部へと突撃していた第一大隊、その進路に立ちはだかってしまった。突如のことで第一大隊は齷齪している。彼ら自身、勇んでの突撃中、それをいきなり止められたものだから昂りを抑えきれていない。第ニ大隊と第一大隊は混交した。どけ。ひけ。邪魔だ。仲間内で醜くも争い始めた。左右来宮はこの間に我が兵どもから距離を取っている。
そして、丘の向こうから敵の砲群が姿を現した。あるものは人力で牽引されている。丘の傾斜を利用、頂点付近から高速で滑り降りてくる。別のあるものは騎馬で牽引されている。馬が疲労で死のうが構わないとばかりに丘の麓を回り込んで疾走している。ある砲架の車輪など火花を散らした。
我が大隊どもは僅かニ〇〇メートルの距離で敵砲に睨まれた。どうしようもない。死の渦を描いている蟻のように密集し過ぎてしまった我が二個大隊は微動だにしない。できない。敵砲が異常な速さで装填を終えた。配置に着いてから二分と経過していなかった。火を吹いた。使用された弾頭はキャニスター弾のようだった。ペットボトルほどの大きさの円筒、その中にマスケット銃弾をこれでもかとばかり、一〇〇発から詰め込んである。
発射の衝撃で筒の中のマスケット銃弾が荒ぶる。中から筒を食い破ってしまう。縦横無尽に拡散した弾丸の雨、それが我が将兵を横殴りにする。
数発を体に浴びた兵が細切れになる。一〇発を浴びればミンチになる。一五発ならばミンチより酷くなる。ニ〇発ならば? 血煙にされる。そこに三秒前まで生きていたという存在感すら感じ取れないほどズタズタにされる。
避けようがない死を叩きつけられた我が二個大隊は瞬く間に壊滅した。生き延びた僅かな将兵の取った行動は三つだった。
敵へ突っ込む。砲で殺される。
背中を見せて逃げる。砲で殺される。
傷付いた仲間を介抱する。砲で殺される。
私は体に鞭打って立ち上がった。どうにもヘトヘトだった。構うものか。走る。脚が縺れる。転ぶ。立ち上がる。走る。直ぐに息が切れた。だからどうした。全身が痛かった。だからどうした。声が枯れつつあった。だからどうした。声など枯れろ。
「左右来宮ァッ――!」林を利用したから上手に肉薄できた。砲群の様子を丘の中腹から見守っていた左右来宮はニタニタしていた。護衛を連れていない。私に気が付くと視線を投げてきた。殺してやると私は喚いた。実際、左右来宮は銃を手にしていたけれども、私が奴を押し倒そうとした直前まで、それを振りかざす素振りすら見せなかった。
だから、一瞬、何が起きたのかわからなかった。奴は尋常でなく素早かった。私の右瞼の奥でブチッと目玉の潰れる音がした。不思議と痛くはなかった。ただ悔しかった。目から血と涙の混じったものが溢れているらしかった。頬が熱かった。その場に倒れ込んだ。
「夏川さん」私を見下ろした左右来宮は呟いた。眩い空を背にしているから表情は伺えない。「恨んでください。私だけを恨むように。自分ではなく」
畜生め、と、思った。笑っているに違いないと私は断定した。あの独特の笑い方をしているに違いない。人間は――人間は、そうだ、うちのママもそうだ、私を貶す奴らはみんなそうだ――本物の快感を感じているとき、むしろ苦しそうな顔をする。あのニタニタ笑いだ。
そうだろうな。勝って嬉しいだろうな。畜生め。許さないぞ。いつか絶対に殺してやる。次は失敗しない。次の機会が無ければ作る。作り出す。一生を賭しても。絶対にだ。畜生め。畜生め。なにもかも奪ってやる。殺してやるぞ。お前ら低学歴はどいつもこいつも罪深い。殺してやる。絶対に。
意識を失う前に、私は空に、左右来宮の背後に、ハッキリと星を見た。この昼間に。金星のようなものだろうか。手を伸ばした。なんで掴めないんだろう。
掴めないならいっそ落ちてこい。落ちてきて、綺麗な音で私を殺してくれれば楽になれるのに。