8章20話(浜千鳥)
いまさらながらにふと疑問を抱いた。こんなにも青い空の下で、僕らはどうして殺し合っているのか? これが鉛色の空の下ならば狂ってしまうからに違いない。青空の下以外では戦争なんて出来やしない。綺麗という感情はきっと自己肯定感を高めるために生まれたに違いない。
敵が現れた。六〇〇騎はいる。戦場移動に用いられる騎兵縦列を完璧に維持している。練度が高い。僕らは彼らの出現に前後して第一大隊の隊形変更を終えていた。遅過ぎも早過ぎもしない。絶妙なタイミングだった。丹波君はやはり上質な指揮官だ。
隊列は丹波君の献策通り二列横隊とした。僕はこれをシュラーバッハで経験している。組むのは難しくなかった。あのときの左右来宮さんを思い出せばよかった。――といっても、まあ、僕自身、あんまりあのときのことを覚えてなかったんで、僕よりもずっと記憶力に長けた漆原君が隊形変更の音頭取りをした。
薄いな。僕は二列横隊(横三〇〇名縦ニ名)に不備がないかひと渡り確認して思った。不備などなかった。あったとしても僕にはわからない。ただ薄いことだけはわかる。見ればわかる。赤い軍服を身に纏った主に男の、それに混じった少数の女の、作り上げる薄い薄い赤い隊列――。
僕は怯えている。震えている。ゲロ吐きそうになっている。目に汗の入らない瞬間がない。痛みは疾に麻痺した。視界の半分は霞んでいる。
それなのに良い気分だというのは嘘ではなかった。覚悟を決めたというべきか、割り切ったというべきか、頭が変になったというべきか、男らしくなったというべきか。どれでもいい。どうせ大した違いはない。後で僕のことを評価する誰かに決めて欲しい。当人からすればそんなのは些細な問題だ。そう、些細な問題なんだ。他人にどう思われるかなんて。
アチラの司令部の置かれた丘の背後から出撃した敵は直線的なものではなく、遠回りするような、円を描くような軌道で以て僕らに接敵した。不意の砲撃や対抗突撃を警戒している。それに僕らの隊形を見て取ったこともあるだろう。移動距離を長くすることで思考する時間としたのだ。移動速度そのものも、こういった場合に主に採用される速足(時速一四キロ)と並足(時速七キロ)の中間ぐらいだった。
シメた。奴は慎重な方の指揮官だ。僕らの様子が変でもとりあえず突撃してくるというようなことはなかった。
僕は額を流れる冷や汗を拭いそうになった。将兵が僕を見ていた。敵騎兵縦列の先頭を走る指揮官も望遠鏡でコチラを覗いている。
駄目だとはわかっていた。なのについ手が出た。僕は額の汗を拭った。それからニンマリと笑ってみた。我が将校たちは呆れ果てた。兵たちは何かを勘違いしたらしく大きく勇気付けられた風だった。敵騎兵の足がより遅くなった気はする。いっそ止まればいいのに。否、止まれば砲撃の餌食になるのがわかりきっているから、それはないけれど、願望としてね、止まればいいのに。話し合わない? 無理だよね。話し合いで解決しないから戦争をやってるんだもんなあ。
敵騎兵はもったいぶった。接敵はする。彼我の距離を六〇〇メートルほどで固定した。本来ならば突撃準備距離としてもう数百メートルは欲しい所だ。戦場が狭いからだろう。
突撃を掛けては来ない。アッチへ来たりコッチへ来たり遊弋している。僕らを誘っているのだ。試しているのだ。駆け引きだ。彼らは敢えて行軍速度を落としている。ともすれば僕らの司令部の方へも行けるんだぞという具合に振る舞っている。
乗るな。司令部へなんか行けっこないのだ。行けば砲にやられる。近付けば近付くほど命中効率が上がるのだから。それに司令部にも護衛部隊が残っている。彼らが方陣を組めば騎兵突撃は失敗する。そうだ。行けっこない。動揺するな。誘いに乗るな。焦りを表に出すな。ただ隊列を維持しろ。コレが最初から規定されていた行動であるように装え。
兵は下士官らに叱責されながらもよくよく耐えている。騎兵とにらめっこ、混乱したら負けよのアップップ、こんなの普通ならとっくに戦列が崩れている。だってそうだろ? ありえない話だけど目の前にヘビィ級ボクサーがいるとする。自分は一歩も動けない。相手が自分の顔面にパンチしてくるのはわかっている。でもそのパンチが、何時、繰り出されるかはわからない。
怖くて当然だ。怯えて当然だ。列を組み続けるのなんて無理だよな、普通。
下士官があと何人か少なかったらどうなっていたろう。考えるのをやめた。
犬だな、と、僕は自己観察した。息が浅くなっている。短くなっている。ハッハッハッハッハッ。心臓の鼓動は秒に三回の割合、全身が熱いのに背中と額だけがホッキョクのように冷たい。吹き出してしまった。つい笑ってしまった。なにがそんなにおかしいのか自分でもわからない。将兵がまた呆れた。兵たちの気分がまた盛り上がった。敵指揮官が小首を傾げたのがわかった。
味方の砲撃は敵が突撃を開始する一瞬のスキを突いて行われることになっている。僕らの行動方針を伝令で司令部へ。司令部からは音楽でその旨の通達が来た。やっぱりアレは便利だよ。真面目に。
今や僕らの後背で繰り広げられている敵左翼と我が右翼第一戦列との戦闘、それはついに白兵戦の様相を呈し始めた。喇叭が吹かれる。銃剣が煌めく。誰かが刺し殺される。その誰かの悲鳴、また別の誰かの悲鳴、無秩序な悲鳴、それらを掻き消すほど大きな蛮声、第一戦列は時を置かず敵を蹴散らすだろうと思われた。
もはや一刻の猶予もない。そう判断したらしい敵騎兵が動いた。彼らは相変わらずウロチョロと移動しながら――移動しながらだよ――隊形を変更した。なんて技量だ。縦列から突撃のための三列横隊へ。敵前であるにも関わらず、まあマスケットなんて当たらないからアレだろうけど、悠々と旋回、僕らと正面から向き合った。停止する。
敵の指揮官が腰のサーベルを抜いた。振り上げる。何事かを叫んでいる。僕もああいうのをやるべきなんだろうか。そう疑っていると丹波君が、
「大隊傾注ゥッ!」がなった。僕と彼と漆原君は横列の真ん中に並んで立っていた。僕はよっぽど耳を塞ぎたくなった。
「敵騎兵が突撃を開始する。怯えることはない。味方の砲撃が助けてくれる。ここまで辿り着ける騎兵は少ない。射撃号令に従って射撃を行えば必ず敵は倒せる。なお、射撃号令は打ち損じのないよう、通常よりも至近で行う。また、狙えの号令は省く。慌てず騒がず時を待て。下士官ども、良いか。兵の手綱をキッチリ握れよ」
応と威勢のいい返事があった。丹波君の野武士じみた顔が喜びで崩れた。
「ココで我々が敗北すればお味方は突破力を失う。左右来宮さんも殺されるだろう。せっかく見えた我々、低学歴の希望の火も消えてしまう。諸君、高学歴どもに顎で使われたいか?」
否定の叫びが隊列中で上がった。下士官が叫ぶと――低学歴とか高学歴とか関係ないんだけどね――兵も叫ぶ。
「そうだ。今日までそうされてきたからこそ我々はここにいる。尊厳を踏み躙られ、あることないことを言われ、やってもいない罪を被せられ、奴らがのうのうとしている中で泥の中を進み、奴らが大学進学を勝ち取る中で痛みに悶え、給与も少なく、功績を残したとて指揮官たる高学歴に奪われ、あまつさえその果てに与えられる仕事はろくでもなかった。その未来を変えねばならない。我々、低学歴の未来を自分たちの手で作らねばならない。違うか、諸君?」
違わないという叫びがまた隊列中で上がった。コレってデモ集会か何かだっけ。でも戦意は高まるな。確かに高まる。高まる。低学歴だの高学歴だのどうでもいい僕ですらなんだか、俄然、やる気に満ち溢れてきた。震えは止まらない。心臓も相変わらずだ。しかし、敵が恐ろしくはない。
「見せつけてやれ。俺たちにも出来ると見せつけてやれ。奴らに見せつけてやれ。この戦いを放送で見ている奴らに見せつけてやれ。俺たちは屑じゃない。では連隊長ッ!」
「ンンッ」僕に振るのね。最初からそう言ってよ。ええと。ええと。僕は咳払いをした。実際には噎せただけだった。
「第一大隊、構えェッ!」
「第一大隊、構えェッ!」丹波君が復唱した。
「銃が低過ぎるッ! 今度の射撃は至近だッ! そこを狙っても当たらん!」と、隊列の各所で下士官らが兵への指導修正を始めた。
そして、何もかもが流転する。敵が吶喊した。突撃を開始する。かと思うと彼らの頭上に砲弾が降ってきた。凄まじい技術としか言いようがない。彼らが停止して突撃を開始するまでには三分もなかった。その間に砲を指針、照準、発砲したのか。こんなところを狙う砲撃計画はなかったはずなのに。よく考えると恐ろしい。(なにが恐ろしいってタイミングが最も恐ろしい。榴弾砲は放物線を描いて飛ぶ。発砲から着弾までにタイム・ラグがある。砲兵指揮官は敵が突撃に移るタイミングを事前に知らされていたとしか思えない)
土砂が舞い上がった。白煙が立ち込める。砲弾は円弾だった。我が軍にはもうそれしか残されていないのだろうか。敵騎兵の姿はすっかり煙の中へ没した。馬の嘶きと人の悲鳴とが交錯している。転倒した馬に巻き込まれる形で他の馬が転倒しているらしい。こうなってしまえば足を止める馬が多いはずだ。それを宥めるのは生半なことではない。
計画通りだ。これで煙を抜けてくる敵はニ〇〇騎もおるまい。二列横隊ならばなんとかなる。なんとかならなくても第一戦列が加勢に来てくれるまでは耐えられる。
一頭、白煙の中を駆け抜けてくる敵騎兵が見えた。一頭だと。横列すら組んでいない。敵の被害はそこまで酷いのか。その騎兵は颯爽としていた。敵ながらアッパレだとか僕はふざけたことを考えた。間もなくそのバチが当たった。
件の敵騎兵がサーベルを振り上げた。何事かを再び叫ぶ。すると、その背後で叫びが木霊した。続いて、白煙を抜けてきたのはキチンとした隊列を組んだ敵騎兵の群だった。少なく見積もっても四五〇騎はいる。奇襲で砲撃を叩き込まれてあれだけの損害しか受けていない? そんな馬鹿な。
――――――『騎兵は高学歴の兵科だ』
「しまっ」たは辛うじて発音しなかった。なんでそれを計算に入れなかったんだ。否、丹波君は入れていたのかもしれない。だとしても見積もりが甘過ぎた。そうだ。コチラには低学歴が多い。だから戦列の強度が高い。アチラは高学歴が多い。ならば?
歯を食い縛った。奥歯がミシミシと鳴った。歯にヒビが入ったかもしれない。硬くて鋭い歯の破片が口の中でジャリジャリした。だとしても上げるな。悲鳴はあげるな。まだだ。まだわからない。撃ってみなければわからない。
第一戦列はまだ敵を仕留めきれていない。我が第二と第三大隊は隊形変更を終えている。無防備な縦列の脇を固めるのは僕らの第一大隊だけだ。なんとしてでも敵を食い止めねばならない。そうだ。死んでも。逆に気が楽になったぞ。
この後はないんだ。ここで全てを出し切れ。