真説 ―― 鶴の恩返し
――えん
その響きがいつも心にあった。きっとそれは私の名。
炎の如き緋色の羽を持つ妖鳥。大空を自由に舞う大鳥。それが私。
――炎を纏いし私は、炎。
それが私の名――?
私はいつも心に空虚さを抱えていた。まるで大切な何かをどこかに忘れてきてしまったかのような、そんな空虚さを。
その日、いつものように自由に大空を舞っていた。緋色の翼をはためかせ地上を見下ろす。すると年老いて弱った鶴の姿が見えた。このあたりには冬になると多くの鶴たちが飛来し、春になるとまた旅立っていく。人間は彼らをマナヅルと呼んでいた。大きな灰色の体。首の後ろは白く、目のまわりから嘴にかけては羽毛がなく赤い肌をしている。大空を優美に舞う姿は美しい。だが人々は作物を食べる害鳥だとして彼らを嫌った。赤い顔が恐ろしい、醜いと子供たちは石を投げた。そのときも子供たちが弱った鶴に石を投げ騒いでいる。よく見ると鶴は既に息絶えていた。
――かわいそうに。
改めて人間の愚かさに嫌気がさす。そこで、鶴のために復讐してやろうと思った。鶴の怨みを晴らしてやろう、怨を返してやろう、と。私は体を膨らませ巨大なマナヅルの姿となった。燃えるような朱色の顔。子供らの前に悠然と舞い降りる。最初呆気にとられていた子供らは見たこともない大きな鶴の姿に驚いて逃げ惑った。私は彼らの帯を掴み一人ずつ上空へと持ち上げて怖がらせてやった。むろん怖がらせた後は地上に下ろしてやる。体が宙に浮かぶや子供らは怖がって大声で泣き叫んだ。これに懲りて動物をいじめなくなればいい、そう思った。
多くの鶴たちが住まうその場所で、私は幾たびか巨大な鶴の姿となり怨を返してやった。しばらくの間そんなことを続けていると、村の人々は鶴の怨返しじゃとひどく恐れるようになった。
――鶴の怨嗟を纏いし私は怨。
それが私の名――?
こうして私はしばらく鶴の怨返しを続けた。するとある日、飛べずにいる鶴に駆け寄る人の姿が見つけた。鶴は何か紐のようなものが翼にからまりうまく飛べなくなっているようだ。もしこの人間が鶴に危害を及ぼすようであればすぐに出ていって鶴を助け、こやつを懲らしめてやろう、そう思って私は様子を窺った。するとその男は鶴が驚かないように静かに声をかけながら近づくとゆっくりとその紐を外してやった。鶴は嬉しそうに羽ばたき上空へと舞い上がる。するとどこからか一直線に飛んでくる別の鶴の姿が見えた。おそらく飛べずにいた鶴の連れ合いであろう。鶴というのは生涯同じ相手と過ごす。そのつながりはとても強い。二羽の鶴は寄り添って飛び去った。その様子を男はじっと見つめていた。いつまでも、いつまでも。
(奇妙な人間)
私はその男に興味を抱いた。その男のことを知りたいと思った。そこで私は人の姿となり男を訪ねることとした。雪の如き白き肌にぬばたまの如き黒き髪、そして珊瑚のような深紅の唇を持つ妖艶な女性。
――妖艶なる色香を纏いし私は艶。
それが私の名――?
ある寒い冬の晩、私は男を訪ねた。“えん”という名前だけを告げ記憶を失い行くあてもないのだと言った。男は私を見て少し驚いた顔をしたがすぐに家へと招き入れてくれた。男は佐吉と名乗った。佐吉は記憶を取り戻すまでここでゆっくりしていってくれと私に告げた。
佐吉と暮らすようになり私の人間に対する感情は変わっていった。佐吉はとにかく優しい男であった。傷を負った動物を見つければ連れ帰って治してやり、近所の老人が腰を痛めれば畑仕事を代わってやった。やがて私も佐吉の嫁として近所の人間たちと交流を持つようになった。気付けば十年もの年月が流れていた。悠久の時を生きる私に時の流れは意味を持たない。だが人間は違った。
人間という生き物は自分らと異なるもの、異質なるものをひどく恐れ、忌み嫌う。いつまでも年を取らない私の姿に人々は疑念を抱き始めた。その不寛容さに驚きつつもそろそろ潮時であろうか、と思った。佐吉までもが村八分にされかけていることを知ったのが大きなきっかけとなった。
(このままここにはいられない)
そう思った私はここを去る前に佐吉に何か残しておこうと考え、反物を織るので糸を買ってきてほしいと頼んだ。佐吉はすぐに緋色の糸をたくさん買ってきてくれた。まるで私の羽のような緋色の糸を。その糸に妖鳥の羽を織り込み反物を織った。その反物は都にて大層評判となったらしい。佐吉は嬉しそうに話してくれた。
反物を織るときは決して部屋に入らないでほしいと伝えた。なぜなら機織り機に触れることなく妖の力で反物を織っていたからだ。私は佐吉のために反物を織った。毎晩のように。そんな私の体を気遣い佐吉は反物を織るのをやめてほしいと言ったがそれでも私は織ることをやめなかった。
どうやってここから去るか、そんなことばかり考えていた。そこでふと思い出した。初めて佐吉と出会ったときのことを。あのとき佐吉は鶴を助けていた。あのときの鶴だと言おう。何も言わずに去ることはできない。かといって妖者であることは知られたくない。人間が妖を見るあの恐怖と嫌悪に満ちた目。あんな目で佐吉から見られるのは耐えられなかった。
私は自ら機織り部屋の扉を開け、佐吉にあの時の恩を返しにきた鶴なのだと告げた。佐吉は一瞬黙った後、いつもの優しい笑顔で言った。それでもよい、と。このままここにいてほしい、と。いたたまれなくなった私は鶴へと姿を変えた。佐吉は一瞬落胆の表情を浮かべたように見えた。鶴となった私は力強く羽ばたきその場を去った。後ろから佐吉の声が聞こえた。
「えん!待っておくれ!私はお前の……」
最後の方は聞こえなかった。
そうして私は佐吉の元を去った。悲しかった。急にまわりの景色が色あせてしまったような、そんな感じすらした。私は飛ぶことを止めた。まるで深い深い淵の底に沈んでいくような、そんな心持ちであった。
――深淵の中で孤独を纏いし私は、淵。
それが私の名――?
どれぐらいの時間をそうして過ごしたであろう。数十年か、数百年か。私は深い深い淵の底で悲しみの檻に囚われていた。そんなある日、バサバサッという鳥の羽ばたく音に気付いた。目を開けるとそこには飛ぶのがうれしくて仕方ないといった感じの若い鶴がいた。私を空へと誘っているようであった。あまりにその鶴がうれしそうに飛ぶのを見て久しぶりに私も飛んでみようと思い翼を広げた。大空を舞うのは心地よかった。季節は春らしい。どこからか花の香が漂ってくる。鶴の後を追って飛んでいると里山の方に寺があるのが見えた。なぜだか妙に心を惹かれその寺をしばらく見つめていた。気付くと前を飛んでいたはずの鶴の姿が見えない。どこかに飛び去ってしまったのであろうか。少し寂しい気もしたが眼下の寺が気になり行ってみることにした。緋色の着物を纏った艶の姿となり寺に向かい石段を上る。人の足で地面を踏みしめるのは懐かしい感触であった。寺の門に着くと年老いた和尚が門から出てくるところであった。和尚は私を見ると大層驚いた顔をして言った。
「な、なんと!あの言い伝えは真であったか!」
和尚は戸惑う私の手を引き寺へと招き入れた。
「この寺には代々伝えられていることがあってな。いつかこういう姿の女性が来る。そうしたらこれを渡してほしい、と。この寺を開いた和尚からの言伝なのじゃ」
いつの日か、白い肌、黒い髪、緋色の唇をした女性がおそらく緋色の着物を纏って現れる。そのときこれを渡すように、と伝えられているという。寺の中に入ると驚いたことに大勢の子供がまめまめしく寺の仕事を手伝っていた。怪訝そうな顔をする私に気付いて和尚は言った。
「ここではな、戦で両親を亡くした子らを引き取っておるのじゃ。そのための寺なのじゃ。もうかれこれ百年以上前になるかのぉ。和尚は全財産をはたいてこの寺を開いたそうじゃ」
そんな説明を聞きつつ寺にある一室に入ると、和尚は押し入れを開けガサゴソと何やら探し物をしだした。そして、これじゃこれじゃと言いながら古びた木箱を取り出した。
「これはあんたが来たら渡すように伝えられたものじゃ。儂が見るわけにゃいかんからな。一人でゆっくり見ていきなさい。持って帰ってもらって構わんからの。どれ、茶でも淹れてこよう」
茶を持ってくると和尚は寺を開いた男の話をしてくれた。和尚の祖父がこの寺に引き取られた孤児だったという。その祖父から聞いたという話だ。
何でも、寺を開いた男には出家する前、妻がいたという。だが妻は男の元を去ってしまった。何だ、逃げられてしまったのか、と笑う人々に和尚はこう答えた。あの女性は普通の女性ではなかった。住む世界が違った。いずれ自分は愛しい妻を置いて先に黄泉の旅路につく運命。仕方がなかったのだ、と。
「身分違いであったのか、よほど年が離れでもしておったのか。和尚はそう言っていたそうじゃよ。そしてその巻物に恋しい妻の姿を描いたそうじゃ。そうそう、いつも空ばっかり見上げておったので空見和尚と言われておったそうじゃよ」
和尚はそう言い残して部屋を後にした。
(もしや……)
和尚の話を聞いて胸がざわざわとした。渡された木箱をそっと開けると中には巻物が入っている。
(もしや、もしや……)
そっと巻物に触れてみる。
(妻の姿……。人の姿か、それとも飛び去った鶴の姿か……)
話を聞くうちに、その空見和尚が佐吉であるとなぜか確信していた。おそるおそる巻物を開いていく。そしてそこに描かれた絵を見て言葉を失った。
そこに描かれていたのは、人の姿でも、鶴の姿でもなかった。現れたのは、緋色の翼を広げた巨大な大鳥。
(なぜ……!お前様、知って……私の正体を知って……)
あのときお前様は、私はお前の正体を知っている、だから行くなと言ってくれていたのか……。ふと巻物の入っていた木箱に目を遣ると何かを書き記した古びた紙が折りたたまれて入っているのが見えた。開いてみると中にはこんなことが書かれていた。
子供の頃、野犬に追いかけられ山を逃げ惑っていたことがある。そのとき、大きな大きな緋色の大鳥様が現れて私の帯を掴んで飛び去り、野犬どもから助けてくれた。その大鳥様はしばらく上空を舞うと私をそっと村の近くに下ろしまた飛び去ってしまった。あのとき空から見た景色、そして大鳥様が翼を広げたときに漂っていた何とも言えぬ良い香りを私ははっきりと覚えている。
もう一度大鳥様に会いたい。ずっとそう思っていた。
だから私はあの冬の夜、訪ねてきたのが大鳥様だとすぐにわかった。その瞳、そして何より体から漂う香気。
嬉しかった。
でも正体に気付いていることを悟ればきっと飛び去ってしまう。そう思い気付かぬふりをして過ごした。本当はまた大鳥様と共に空を舞ってみたい、そう思いながら。
もし……。
もし叶うのであれば……。
生まれ変わって鳥となり、共にあの大空へ――。
私は不意に思い出した。
(あのときの……!)
そう、気まぐれで人間の子を助けてやったことがあった。助けられた子は、大鳥様ありがとうと言っていつまでも手を振っていた。あれが、あのときの子が佐吉であったのだ。私が見られるのを恐れたあの大鳥の姿こそ、本当に彼が見たかったものだったのだ。知らず知らずのうちに涙が溢れてきた。
涙をぬぐい再び絵に目を落とす。すると隅に何やら文字が書いてあった。
――縁。
その文字を目にした瞬間、私は雷に打たれたかのような衝撃を受けた。あぁ……、そうだ、これが私の真の名。私の名は縁。ようやく真の名を取り戻すことができた。いつかどこかで落としてしまった真の名。心にぽっかり空いた穴がようやく塞がった。ありがとう。お前様……。
くるくるくるくる……。
我が紡ぐは赤い糸。絡まりてほどかれて……。そしてまた結ばれる。
縁を結ぶ――赤い糸。
気付けば夕暮れ時。その日はとても美しい夕焼けであった。和尚が空を見上げていると、バサバサッという鳥の羽ばたきが聞こえてきた。はっとして音のする方を見ると大きな大きな緋色の鳥が飛び去っていく。足には何やら巻物のようなものを掴んでいた。驚いていると、その大鳥の方へ一直線に向かっていく鶴の姿が見えた。
(あんな大きな緋色の鳥、見たことがない。それにもう一羽もこんな時期に見かけるのは珍しい、真名鶴じゃ)
やがて二羽の鳥は寄り添って飛びはじめた。その美しい光景を和尚はじっと見つめていた。
部屋に戻ってみると巻物と女の姿はそこにはなく、ただ大きな緋色の羽が一枚残されているのみであった。