☆4☆
ミルク色の霧が、もの凄い早さで後ろに流れていく。耳元で風がゴウゴウと唸り、息も出来ない。それにしても、かなりの早さで長いこと飛んでいるのに相変わらず何も見えないなぁ。
「ねえ桃猫、あとどのくらい時間が掛かるの? あんた、本当に解って飛んでるんでしょうね?」
首を回した桃猫は、あたしを見て金色の目を細める。風に煽られた髭は、顔に貼り付いてブルブルと震えていた。
「もうじき、第三階層を抜ける頃だニャぁ。ステージのある最下層第五階から第三階までは雲の中だから辺りは見えニャいが、二階層からは雲の上だ、素敵な景色が拝めるぜ」
ニヤニヤと耳まで裂けた口を歪め、桃猫は嫌らしい笑い方をした。
「気になるわね、意味深なその笑い方は何? ちょっと、桃猫、教えなさいよっ!」
首を拳で叩いたけど、桃猫は知らん顔で二度と振り向かない。すると、桃猫に乗ってから一言も話さなかったシロンがポツリと呟いた。
「相変わらず呑気だな」
「呑気……って、どういう意味よ」
身体ごと向き直って座り直したあたしは、シロンに額を突きつける。一瞬、タジタジとなったシロンは大きく息をつき、気を取り直してからあたしを睨み返した。
「あのなぁ、雲が晴れると言うことは、他のチームから姿が丸見えになるって事なんだぜ? つまり、頂上に立つための戦いが始まるんだ」
そうでした。あたしってば桃猫と契約できたことで、すっかり勝った気になっていたみたい。本当は、これからが正念場なのよね。
三十組のチームのうち、何組とご対面できるかしら。『魔獣』を手に入れられないままリタイアするチームもあるだろう。あたし達は思ったより早く『桃猫ロセウム』と契約できたから、トップグループを期待できる。
「そう言えば桃猫、さっき聞きそびれたけどアンタが桃色になった理由教えてよ」
聞こえないふりを決め込んで、桃猫は返事をしない。だけどその耳がピクリと反応したのをあたしは見逃さなかった。顔に貼り付いて後ろに流れていた髭を、思い切り引っ張る。「話してくれないと、真の姿を取り戻す方法が解らないじゃない。契約なんだから、教えて貰わないと困るわ」
「……ニャぁ、別に俺はこのままでも」
「嘘おっしゃい! いいわ、だったらサーチして自分で探すから。契約したからにはあたし達に義務があるんだもの」
あたしは目を閉じて、もう一度桃猫の内面に進入を試みる。
「まてまてまてっ! はニャすから、やめてくれ!」
あら、どうやらサーチされてはまずいことがあるのね。どこまで話してくれるか解らないけど、取り敢えず話を聞くことにした。
「確かに俺は『時の賢者シグルス』様と契約し、神の名を騙った殺戮を止めるために働いていた。そして役目を果たし、契約通り望みを叶えてもらったのさ」
「ふぅん、どんな望みだったの?」
「人間の姿にニャることだ」
「人間!」
桃猫は首を回し、にたりと笑った。
「金髪碧眼の、美青年にしてもらったのさ。まあ、そこまでは良かった」
しわを寄せた鼻を、桃猫は忌々しそうにフンと鳴らす。
「実は人間の女と恋仲にニャってね……」
「あら素敵、そうかぁ……種族を超えた恋に『時の賢者シグルス』様がお怒りになったのね」
種族を超えた悲恋、あたしはうっとりため息をつく。
「いや、それが違うんだニャ」
「え?」
「一人の女と愛を貫くニャら『時の賢者シグルス』様も仕方ニャいと仰ったんだが、如何せん俺はモテてねぇ……十人・二十人・三十人と、取っ替え引っ替え女をコマ……ぐぎゃっ!」
手綱よろしく、あたしはエンブレムの付いた革ベルトを締め上げた。まったく、そういうのを女の敵って言うのよ!
だけど、桃猫に掛けられた呪いを解いて真の姿を取り戻すには、やはりシロンが『時の賢者』にならなきゃ駄目って事よねぇ。まあいいか、契約上では前向きに努力すればいいわけだし。
「雲から出るぞ、用心しろ」
注意を促すシロンの声。あたしは気を引き締めて、桃猫にしがみついた。
ミルク色の雲が、だんだん薄くなっていく。レースのカーテンを一枚一枚引いていくように、色を増す綺麗な緑。その緑のフレームに切り取られた紺碧の空!
「すっごーいっ!」
眼前に広がる壮大な眺めに、あたしは思わず感嘆の声をあげた。
インディブルーの天蓋の下、波濤のように幾層もの雲が重なりあっている。その彼方はどこまで続いているのか見当も付かないほど遙かで、長く見つめていると気が遠くなりそうになった。
その中に、雄壮なる姿でそそり立つ巨木『イグドラシル(世界樹)』。幹の太さは大きな街が一つ入りそうなくらいあって、縦横無尽に伸びる枝は一本でミシシッピー河をせき止めてしまえるくらいだ。小枝の先に茂る緑さえ、迷い込んだら出られなくなる深い森のよう。
森羅万象が足下にひれ伏す、『イグドラシル(世界樹)』。雲の下に広がる裾野は、どれだけの大きさがあるのだろう。地上で世界一の巨峰さえ、根本の小石ほどしかないだろうな。
冷たく澄んだ大気の中、天上から注ぐ太陽の光はそれほど眩しいとは感じなかった。全身が清々しい空気に洗われて、細胞一つ一つにその光がしみこんでくる。魂が永遠にとらわれる陶酔感、良い気持ち……。
「落ちるぞ、馬鹿!」
ハッと我に返ると、シロンがあたしの腕を掴んでいた。神々しい眺めに意識を奪われて、桃猫の背から落ちそうになっていたらしい。
「ありがと……でも馬鹿は酷いと思うんだけど」
「『魔獣』に乗っている限り安全だけど、落ちたら命はないんだぜ? 俺たちは飛ぶことが出来ないからな」
確かにそうだ、シロンの言葉で現実に引き戻されたあたしは鳥肌が立った。この競技で去年、死者が出たと聞いている。
「今のところ俺たちはトップグループだ、三階層を抜けて来た敵は三チーム……いや、いま二チームに減った」
シロンはサーチで他のチームの存在を感じ取ったようだけど、その言葉が終わらないうちに頭上から、かすかな悲鳴が聞こえてきた。見上げると、候補生の誰かがすごい勢いで落下してくる。
「桃猫っ! あの子を助けてっ!」
「あいよっ!」
上を目指していた桃猫はくるりと方向転換すると、落ちてくる候補生の下に駆けつけた。物理魔法で落下速度を落とし、シロンが受け止めた候補生は『ひろいっ子』チームの男の子、ロウだった。短く刈り上げたアンバーブラウンの髪と小柄な体格で少し幼く見えるけど、ロウは『ひろいっ子』の中でシロンと成績を張り合うくらい優秀な候補生だ。
「ロウ、ロウ、大丈夫?」
見ると肩口は刀傷でパックリと裂け、ひどい出血。シロンがロウのスカーフを外し、傷を縛って止血した。
「僕は……大丈夫、それよりイータが……」
「えっ、イータは? イータはどこにいるのっ!」
おっとりしてて、のんびり屋さんのイータ。同じ『ひろいっ子』同士、仲良しのイータ。彼女が危険なのだろうか? あたしは思わずシロンを見た。シロンは険しい顔で頷くと、桃猫に叫ぶ。
「ロセウム! 二時の方向、全力だ!」
「了解っ!」
力強い返事を返し桃猫は、これまでない早さで斜め上空に跳躍した。一足、二足、宙を蹴り、二百メートルほど上方の堂々とした枝の上に着地する。すると、そこには……。
「ライハルト!」
どう猛な目つきの『魔獣・黒色狼』を従えたライハルトがサーベルを振り上げ、『魔獣・灰色イタチ』に隠れるようにして踞るイータに斬りつけようとしているではないか。
「あんた、なにしてんのよ! イータを殺す気なのっ!」
あたし達に気がついたライハルトは動きを止めると、嘲るような笑みを浮かべた。
「いいところに来たねぇ、君たち。まとめて片付ける方が、僕も手間が省けるよ」
「な……に? それ、どういうこと?」
『シグルスの銀杯』で見せたライハルトの残忍さが脳裏によみがえり、あたしの背筋に冷たいものが駆け上る。あのときシロンを傷つけたライハルトは、既に殺すつもりでいたのだろうか? そんな、馬鹿な。そんな、どうして?
「目障りなんだよ、君たちは。下賤な生まれのくせに、僕たちに張り合おうなんてするから立場を解らせてあげないとね。『シグルスの銀杯』もクリスマススターも、正統な血筋を引くものだけが手にすることの出来る栄誉だ」
ライハルトは余裕を見せるように栗色の巻き毛を絡ませた左手を掻き上げながら、切っ先をあたし達に向け構えをとった。賢者一族の証である黒いローブが舞い上がり、その姿は魔族のような禍々しさだ。
どうかしている、何とかしてライハルトを止められないかしら……。
黒色狼の後方で、ライハルトのパートナーであるクラリッサが心配そうにこちらを見ていた。だけど、あたしの視線に気付いて顔を背ける。ライハルトを止める気はないようだった。
「大丈夫だ、心配ない」
その時あたしの肩に、シロンの温かい手が置かれた。なぜだろう、とたんに不安や恐怖が薄れて、信頼と安心感につつまれる。シロンがライハルトを止めてくれると、あたしは素直に信じることが出来た。
桃猫から飛び降りたシロンはライハルトの前に立つと、いつもの優美な所作でサーベルを構えた。競技用ではない、刃のあるサーベルだ。双方無傷では、いられないかもしれない……。
ライハルトは眉根を寄せ、見下す視線をシロンに投げた。
「ふん、『シグルスの銀杯』では思わぬ不覚をとったけど、今度はそうはいかないよ。あの時、君に反撃する力がまだあるとは思わなかった。母親を卑しめる言葉は、戦意を奪うどころか触発してしまったようだね」
「残念だったな、貴様の卑怯な手に乗らなくて」
そうか、『シグルスの銀杯』でシロンが反撃できたのは、お母様を馬鹿にされたからなのね。何が賢者一族よ、ライハルトの方がよほど厭らしい卑怯者じゃない。
素早く繰り出されるライハルトのサーベルが、シロンのローブを切り裂いた。後方に跳んだシロンはローブを脱ぎ捨て、キスをするようにサーベルを顔の前に構えると、静かに微笑む。
「貴様には、二度と負けない」
言うやいなや、シロンのサーベルが風を斬った。緩く結んだ長い黒髪が舞い、シロンはダンスのステップを踏む。右に、左に、斜めに、閃くサーベルはライハルトを追いつめ、金属の擦れ合う澄んだ音を響かせた。だけど上背のある分、ライハルトの方がリーチが長い。徐々に体勢は、競技の時のようにシロンが圧される形になった。シロンのローブを胸に抱え、あたしは祈る。
「負けないで、シロン!」
守りの甘くなったシロンに向かって、ライハルトがひときわ大きく振りかぶった時。紙一重の差で身体をひねり、シロンはライハルトの背後に回り込んだ。そして素晴らしい早さでサーベルを繰り出し、ライハルトをじりじりと後退させる。
いくら大きな枝とはいえ、その足場には限度があった。枝の緩いカーブは、ある地点でその場にあるものを重力に委ねることになる。
「あっ!」
カーブの臨界点で、ライハルトが体勢を崩した。その気を逃さずシロンは、ライハルトの持つサーベルの柄に近い部分を打ち据える。回転しながら宙を舞ったサーベルは、音を立てて『イグドラシル(世界樹)』の樹皮に突き刺さった。
今度こそ勝負がついたようね、シロンの勝ちだわ。
シロンを睨むライハルトの目は、燃えるような憎しみの色を湛えていた。だけどフイと顔をそらして黒色狼の所まで戻ると、突然、側にいたクラリッサの頬を殴ったのだ。
「なんて事するのよ! 八つ当たりもいいとこだわっ!」
頭に来たあたしは、ライハルトに詰め寄ろうとした。するとクラリッサはライハルトの前に立ち、赤く腫れた頬も構わずあたしに挑みかかる。
「余計なお世話よ、あなたには関係ないわ!」
その勢いに気圧されて、あたしは身をひいた。確かに他所のチームに干渉する権利はないかもしれない、だけどライハルトの行動はあまりに理不尽だ。
「あいつらは放っておけよ、先を急ぐぞ」
シロンは黒色狼に近付くと、ライハルトを無視して首に付けてあるエンブレムの革ベルトに手をかけた。脅すように低く唸った黒色狼は、桃猫が例の破鐘を坂から転がしたような鳴き声で一括した途端におとなしくなる。シロンが外したエンブレムは、あたしがポーチにしまっておいた。
エンブレムを外されたチームは、もう競技に参加できない。これはもう、あたし達の優勝は決まったようなもの……あれ? 何か忘れてるような気がするぞ。
「シロン……三階層を抜けたチームは、あたし達の『桃色猫』とライハルトの『黒色狼』、ロウの『灰色イタチ』だけ?」
「もう一組いる、たぶんオーギュの『青色一角獣』だ」
……当然と言えば当然でした。オーギュ様なら、もう頂上まで到達しているに違いない。今回も成績を挽回できなかったなぁ。
「ただ、おかしな事に移動する気配がない。近くにいるのは確かなんだけど」
「えっ、それってどういう事?」
「解らない……だけどまだ、チャンスがあるって事だ。とにかく他のチームが上がってくる前に、頂上を目指そう」
「う、うんっ」
あたしは慌ててイータの所に駆け寄り、無事かどうかを確かめた。怯えてはいたけど怪我もないし、『灰色イタチ』も元気そうだ。ロウは学園まで自力で帰ると言うので『灰色イタチ』に任せることにした。思ったよりも傷は浅いみたい、良かった。ライハルトの追撃が少し心配だったけど、行き過ぎた行動はこれ以上とらないだろうとシロンが言うから大丈夫かな。
あたしは桃猫にまたがると、元気に声をかける。
「行こう、桃猫。もうちょっと頑張ってね!」
「任せろ!」
にたりと笑って大きく伸びをした桃猫から、あたしは危うく落っこちそうになった。




