女一の宮と三位の中将の悲恋
「今はただ、思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな」
――左京大夫道政
今はもう、あなたの事をぼくは、思い切ります。僕たちの恋は禁じられた恋、許されぬ思い
ただ、最後に人づてではなく、ぼくの口からお伝えしたい。
諦めきれぬが、あきらめなければならない、この僕たちの想いを……
――庭に桜の花が舞う季節、王朝の宮中に不思議な噂が、御所の高欄から吹き込む春風に乗り、さぁと広がった。
「伊勢からお帰りになられた斎宮様に、三位の中将様が、お通いになられている」
その噂を耳にし、一の宮様にお仕えをしている乳母の相模は息を飲んだ。
一体、誰の目に触れたというのか。お仕えする女房で、この事を知っているものは、自分と場を密かに抜ける為に、姫宮さまの身代わりとなる女房、その二人だけのはず。
あれほど迄に気をつけていても、こうも容易く噂になるとは、九重とは何と恐ろしい、相模は姫宮様の御所へと取り急ぎむかう。
伊勢からお戻りになられた、一年前のあの日、今日と同じように、桜の花が舞う時を思いだしながら……
――父親である帝が、政治的立場と健康的理由で、譲位なされたと同時に、斎宮の任を解かれて、帰京された女一の宮当子内親王、
御年十五を迎えられていた姫宮は、匂やか《におやか》な美少女におそだちになられていた。
上皇も、皇后の宮も大変お喜びになり、これまで、離れて暮らしていた事もあり、並々ならず、この姫宮をいとしくお思いになっている。
……「ねぇ、相模、私は伊勢に帰りたくてよ、ここは騒がしくて」
今迄神様にお仕えし、清らかな暮らしを過ごされること五年、人少ない暮らしから宮中へと戻り、
若き姫宮は、煩雑な世界に、うつうつとした思いを抱えて、日々を過ごしていた。
「じきに、おなれになられますよ」
相模の言葉に扇を広げ、うれいに満ちた顔を隠すと、そっとため息を漏らす姫宮。
その様子を目にし、何か良いお慰めをとは思う相模だが、何分姫宮の身分の高さが遮りとなり、
気楽に高欄へといざり出て、満開に咲き誇る桜の花を、直に見ることさえ出来ない。
奥まった御簾の向こう側で、ひっそりと過ごさられる毎日。
ため息の数だけ、宮様の心も暗く、深く沈んで行く。
――そんなある春の夜、姫宮の耳へと届く龍笛の雅やかな音色。
心を動かされた彼女は、夜の時間の為に、高欄と室内の境に、下げられた御簾の隙間から、外を垣間見る。
淡く白い光を含んでいるかの様な、満開の桜の木のしたで、表は白、裏は赤『桜重ね』の直衣を着こんだ青年が、
舞い散る花弁に、心を奪われたかの様に夢見心地な表情で、笛を奏でていた。
垣間見るなど、はしたなき事を、と姫宮は室内へと戻り、続く笛の音色をゆるりと楽しむ。
やがて、それが終わると相模に言い付け、彼を高欄の元へと呼び寄せると、下人に手折らせた、庭に咲き誇る桜の小枝を褒美として与えた。
そして相模を通じて、明日も笛を奏でるようにと、言葉を伝える。
そして彼は次の夜も、また次の夜も、憂いを持つ姫宮様の為に、心を込めて笛を奏でた。
……春は、芳しい花の香に乗るような、夏は、涼やかな蛍の光を友とし、秋は、茜さす夕暮れの色を音色に取り込み、冬は、白い世界に響く様に。
一人の姫宮の為に、彼の心を捧げるかの様に奏でる。
やがて、何時しか姫宮は彼の想いに気がつく。思いの丈を込めて、彼女に届ける澄んだ笛の音色。
無垢な姫宮が知る、初めての恋心、慣れぬ宮中、堅苦しい日々の中で、唯一心慰める彼の存在。
皇女は原則として、生涯独身で終えられるか、天皇が相手を選び降嫁せしめられるか、
どちらにせよ、ご身分がら決して心の赴くままに行動はお出来になられない。
ましてや、自由恋愛など言語道断、許されない若い二人の恋路。
だからこそ、気づいてしまった姫宮の想いは止まらない。
自分に対して、決して逆らう事が出来ぬ相模に、密かに逢瀬の時を作るよう命じる。
夜の闇に乗じ、誰の目にも、耳にも、悟られぬ様に、逢瀬を重ねる一の宮と三位の中将。
のはず。それがどこからか漏れ、何時のまにやら、皇后の宮の耳にも届いている、
相模は姫宮様の元へと参じる。既に上皇の元へも、噂が届いていたらしく、御所にたどり着いた時には、
その場で、相模は乳母の身分を取り上げられ、姫宮のお側に、寄ることさえもかなわなかった。
―――「さかき葉の ゆふしてかげの そのかみに 押し返しても 似たる頃かな」
貴方が、神に仕えてらした頃榊の葉の木綿四手に清らかにまもられ、そして今も守り人に守られ、近づけないのですね。
内親王の道ならぬ逢瀬に立腹した、上皇は相模を遠ざけると、姫宮のお側近くに監視の人間をお付けになり、二人の中を引き裂かれた。
彼は愛しい高貴な恋人を想い、恋にやつれ、乱れ、風の便りに託けてわずかに、先の文を贈る。
姫宮もまた、悲しみも、悩みも、彼に劣らない。返歌をしようにも監視の目があり、身動きが取れぬ日々。
そして姫宮の嘆き、悲しむ様子を人づてに教えてもらうと、自らの心に終止符をうつ、
愛しい御方を、これ以上苦しめたくない彼は、別れの歌をしたためる。もう、二度と逢えぬ高貴な恋人に……
「みちのくの おだえの橋や これならむ 踏みみ踏まずみ 心惑はす」
陸奥の緒絶えの橋とは、こういう事なのですね。踏み渡ったり、踏み渡らなかったり、(文を頂けたり、頂けなかったり)心は想いに乱れている。
「今はただ、思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな」
この二種の歌を、月の無い闇夜をつき、姫宮の御所へと密かに近づき高欄に結びつけた。
―――二人の短く、そして儚い、淡雪の様な幸せな時が終わった。
その後、姫宮は、父院のお怒りも解けず深い嘆きの中、その年の秋に落飾され、尼とならされた。
そして尼となられた、一の宮内親王は若くしてこの世を去り、深く姫宮を想っていた三位の中将は、姫がこの世から去りし後は、全てにおいて自暴自棄となり、
「荒の三位」と人々に言われる位の奔放な、素行不良青年となってしまったのは、いたしかたの無いことかもしれない。
「終」