はびこれ 人間菌
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
う〜ん、今日は久しぶりの雨降りだねえ。乾ききった地面に潤いが戻るくらいだったらいいけど、さすがに今回は降りすぎなんじゃない? 全か無か、とでもいえばいいのか……どうせやるなら徹底的に、の精神は素晴らしいけど、TPOをわきまえて欲しいもんだ。
ほれほれ、道路なんかすっかり水が溜まっちゃっているじゃない。あれで走って来た車に水を引っかけられるとか、冗談じゃないよね。子供のころは濡れることこそ最重要だったけど、自分で洗濯をするようになると、汚れとかがどうもなあ。
――あ、いや、それ以上にやばいことがあったわ。濡れることに関して。冷えるのは何も、服や上半身ばかりじゃないってね。
――靴の中に雨がしみ込んだのか?
それだけなら日常茶飯事だろ。俺が体験したのは、足下に広がる非日常の話さ。
どうせ外には出ないんだ。時間つぶしになるといいがな。
俺の実家は、国道を一本曲がって少し歩いたところにある一軒家。延々と並んでいる家のうちの一つだ。乗用車二台がどうにかすれ違えるくらいの幅があり、家の敷地ギリギリには側溝がいくつか。
俺の家を出てすぐのところには、幅広のグレーチングがセットされている。あの金網越しに聞こえる水音は、小さい頃から聞き慣れている。幼稚園ぐらいまでの間は特に気にすることはなかったんだが、小学生にあがってしばらく立つ頃に、事件が起こった。
その日、俺は親が留守なのをいいことに、家に鍵をかけると跳ねるようにして、道路に降り立った。
小遣いをもらったばかりで、愛用の小銭入れはずっしりと重い。いつものアイス以外に、スナック菓子のひとつやふたつくらいは買えそうだ。そんなことを考えていたと思う。
だが着地と同時に、安心さえ覚えるズボンのポケットの膨らみが、ずるりとまろび出た。カンと金属に触れ合う音、ポチャッという水音が、足下深くから聞こえてきた。
一瞬で事態を把握したよ。俺のポケットに入っていたのは、お腹を膨らませた小銭入れだけだったのだから。
金網の底は、昼間だというのにとても暗く、どれだけ深いかも分からない。けれどもあれは俺の全財産。みすみす放っておくなど、考えもつかなかった。中に飛び込んででも、回収しなくては。
俺は、目の粗いグレーチングの格子の間に指を入れる。両手で力いっぱい持ち上げようとしたところ、網全体がぐらついた。予想以上に手際よく進みそうだ。
けれど、次の瞬間には思わず動きを止めちまったよ。足音が聞こえたからだ。
前からでも、後ろからでもない。その音は、下から。
じゃぶじゃぶと、水をかきわけながら、どんどん大きくなってくる。そしてちょうど俺の真下まで来たと思うや。
金網の間を縫って、ふわりと俺の目の前まで飛び上がって来たもの。それはかすかに緑色をした藻を張り付けた俺の小銭入れ。
俺はとっさに網から手を離して、小銭入れをキャッチ。勢いあまってしりもちをついちまった。信じられない思いでいっぱいだった俺は、しばらく動けなかったよ。
ただ、地面についた尻のずっと下の方で、あの水をかきわける音が、じょじょに国道方面へ消えていくのを、ぼんやりと聞くばかりだった。
翌日の俺は、学校にいる間、ずっと心ここにあらず。ぼんやりと窓の外を眺めながら、昨日のあの出来事を、ずっと思い返していた。排水溝の下に潜む、謎の生命体。会ってみたいような、ちょっと怖いような。その姿形はいかなるものなのだろうかと――。
「早くプリント配ってよ。今日だけで何度言わせんの」
ふと後ろの声からで、我に返る俺。机の上には担任の先生発行の「学級だより」が。
今日は、数日後にこの辺りを直撃するという、史上有数の規模の台風について……。
「だからあ、早くしろ!」
後頭部に痛いくらいの衝撃。デコピンの要領で、中指を弾いてきたんだろう。観念して、振り向きながらプリントを渡す。
すぐ後ろの席は、入学当初からずっと同じクラスになっている女子だ。昔は男と見まごうようなショートヘアーだったが、今やミディアムまで伸ばしていて、だいぶ印象が変わってきている。
そして、プリントを受け取ったそいつは、聞き捨てならない一言をつぶやいた。
「まったく、昨日助けてあげたのに、お礼もしないし、今日は今日で迷惑の塊。腹が立つなあ」
後半はともかく、前半はなんだ。
昨日の学校で、少なくとも俺はこいつに助けてもらった覚えはない。俺自身が助かったことといえば、小銭入れをめぐった、あの一件のみ。
何か知っているのか。俺は問いただそうとしたが、彼女はそっと口に指を当てて、教壇を指さす。見ると、先生が俺をにらみつけていて、黙って姿勢を正さざるを得なかった。
ホームルームが終わると、俺よりも彼女の方が先に動いた。
「ついてきて欲しいところがある。あんたには貸しがあるんだから、逃げないでよ」と、腕を引っ張ってぐいぐい引きずっていく。
そうして連れられていったのは、学校から徒歩十分程度。とある企業の第三倉庫の裏手にある側溝だった。俺の家の前にあるグレーチングと同じ形のものだ。
「あんたには、あたしのやっていることを手伝ってもらう。ちょっとした『お清め』みたいなもんよ」
彼女はランドセルの中からバールを取り出すと、グレーチングの格子に引っかけて持ち上げて、ひょいと飛び降りた。
ほどなく水気を帯びた着地音。彼女の体の沈み具合からして、深さはせいぜい一メートルに足らないくらいだろうか。
手招きする彼女。貸しがある以上、断るわけにもいかず、俺も中へと降りる。
今日の靴は布靴で、着地と同時に早くも水が沁みる。更に目の前がゆるい坂道になっているのは分かったが、数メートル先は明かりの届かない真っ暗闇だ。心なしか、傷んだ生ごみの臭いが漂ってくる。
彼女はすでに外したグレーチングを元に戻しており、「滑りやすいから気をつけて」と前置いて、先行し始めた。
彼女は明かりも無しに、ずんずんと前へ進む。俺は困惑しつつも、必死にそれについていった。
すでに靴の中は洪水。一歩一歩踏み出すたびに、靴下が嫌な音を立て、足が冷える。たまらず、「長靴……いや、せめてビニール袋くらいつけさせてくれてもいいじゃんよ」と文句を言ったところ、あっさり却下された。
「こうやってね、直に染み出さなきゃ意味ないんだよ。『人間菌』で消毒しているんだから」
わけがわからない。
俺の疑問に、彼女は歩みを止めずに答え始めた。
「ここは側溝の中。下水道と言った方がロマンあるかしら? でね、陽の光の当たらないところわね。いるのよ」
「いるって、何がだよ?」
俺が言い終わるや、ずっと奥の右手の方で、大きな石が水たまりに投げ込まれたような音がした。バラバラと打ちあがった無数の水しぶきが、水面を叩く音も聞こえる。
俺たち以外に、何かがいる。しかもかなり大きい何かが。
「あらら……ちょっと元気が良すぎねえ。お仕置きしなきゃ」と、彼女は向きを変えて、音のした方へ歩き出す。
「え、行くの? まじで? これ以上、変な目に会いたくないんだけど。ぶっちゃけ帰りたいんだけど」
「じゃ、帰れば? 帰り道が分かるんだったらね」
辺りを見回しても、変わり映えしない壁ばかり。目印になりそうなものはない。もう俺にはどこをどう歩いてきたかが分からなかった。
結局、俺は彼女についてまわった。同じような水音がするたび、彼女は怖じずにその音がした方へ向かう。
やがて音の出所と思しき場所に着くと、その場で俺の手を取って、ぐるぐると回ったり、一筆書きで幾何学模様を描くようにステップを踏んだりした。
その最中に、彼女は人間菌についての話をしてくれたよ。
あらゆる動物がそうであるように、人間もまた体内に独自の菌を持っているんだ。耐性のない生物がひとかすりしただけで、死に至ってしまうほど強力な。
だからそいつらは、人に接することのない地下に息づいている。害獣たる人間を駆除する機会。それを虎視眈々と待ちながら。
「だから先手を取るの。まだ彼らの爪も牙も揃わないうちに、人間菌をばらまいて、繁殖するのを防ぐんだ。そうしなければ、私たちが殺されちゃう。おじいちゃんからそう聞いて、私もお父さんもお母さんも、時間を見つけて続けているの」
さんざんに歩き回った後、俺たちが入って来たところから出た時には、もう太陽が西の山の向こうに沈もうとしていた。
わずかに残る陽の光が、藻をところどころにかぶった俺たちの姿を映し出し、久々に外の空気を吸ったことで、バカになっていた鼻が、ふたたび下水の臭いに反応し始めたのを感じたよ。
俺は彼女が持参している臭い消しのスプレーとウェットティッシュを分けてもらい、できる限り不潔をぬぐっていく。
彼女は別れ際に告げた。
「学級だよりにあったように、もうすぐ雨が来るわ。今日の人間菌で、少しはましになっていればいいのだけど」と。
やがて予報の通りにやってきた雨は、記録的な豪雨になった。学校ではほとんどの児童が親の迎えを待って帰宅し、緊急の用事を除いて外出しないように注意が呼びかけられた。
俺もすでに二階の自分の部屋で待機。窓越しに外を眺めていたよ。もっとも雨よりも、家の前のグレーチングにばかり目がいっていたけれど。
がぼがぼと、噴水のように雨水を溢れ出させる側溝。目を凝らすと小銭入れにくっついた藻らしきものも、ちょろちょろと漏れ出してくる。俺はそのうちグレーチングを吹っ飛ばして、あの水音の主が出てくるんじゃないかと気が気じゃなかったが……ついにその姿は見られなかったよ。
雨が上がった後、あちらこちらに残った水たまりは、子供たちの遊び場にさえなった。彼女も変わりなく学校に通い続けていたが、あれ以降、俺は側溝を見かけるたびに、つい聞き耳を立てちまう。
そのほとんどが水のせせらぎばかりだが、時折、水をかき分ける音が聞こえるよ。
明らかに人より大きい、と感じるものさえな。