4.「ここが私たちのお店、ここで働けばいい」
過去編 2
「ここが私たちのお店、ここで働けばいい」
抑揚のない声で、こちらの目をまっすぐ見つめながら彼女は言った。
「私“たち”っていうのは?」
「私と……お母さんのお店」
そう言いながら彼女は笑った。それは彼女と出会ってからはじめて見た明確な表情の変化だった。自然で、引き込まれるような穏やかで優しい笑み。この控えめに言って小汚いばかりの店に、どのような由来があるのかは分からないが、その店の存在が彼女にとってどれほど大切なものなのかは充分に理解できた。
「店か、なるほど……」
彼女に見惚れていたことが気恥ずかしく、取り繕うように、そうつぶやいてみせる。
「今から、準備」
それはそうだろう。確かにこの場所は、椅子もテーブルもそろっているが、埃が積もっているし、ガラスも曇ってしまっている。
「掃除からですかね……」
「……そうかもしれない」
なぜそこで疑問形になる……
受け答えに若干の不安を感じるが、とはいえ、なにを始めるにしろ彼女の同意なしで話を進めるわけにもいかない。
これが夢か、あるいはあり得ない現実かはまだ判断がつかないが、どちらにしろ、腹が減っている。どうやら、この世界でも、糧を得るには対価としての労働が必要だという、せちがらいルールは共通しているらしい。
「まずほこりを落としましょう、はたきか何かはあります?」
「……はたき?」
「……雑巾とか箒とかは」
「……ない」
天を仰ぎそうになるのを押しとどめ、努めて冷静に話しかける。
「ここは以前、営業してたんでしょ?じゃあ、掃除道具がないなんてことはないですよ、きっと、物置とかは?」
「……おお!こっち」
感心したような声を上げ、彼女がきびすを返して歩き出す。
(大丈夫かよ……)
小さくため息をつきながら、彼女の背中を追う。
「そういえば名前を教えてもらっていいですか?」
これからどうなるにしろ、呼び方がないのは面倒だ。
「私は、カプリース......カプリース・ミナリエ」
振り返り、こちらの目をまっすぐに見つめながら、彼女は言った。その姿は何故かはわからないが、どこか誇らしげで、堂々としていた。
まず間違いなく、これまでに出会った誰よりも美しいと断言できる非現実的な美しさを持った少女に正面から見つめられ、居心地の悪い思いをしながらそれでも目をそらさないようにする。
「カプリースさん、僕は双紙豊といいます」
「......ウ、タカ?」
彼女の柳眉がぐっとゆがんで、自信のなさそうな声が出る。
「ユ・タ・カ......ユタカ」
「ウ・タ・カ?」
「「......」」
互いに今一歩、歩みよれず、なんとも気まずい沈黙が流れた。彼女の言葉は異国人とは思えないほどなめらかだが、名前の部分になると途端に外国人が日本式の名前を呼ぶ時のような拙い感じが顔を出す。それはまるで、文章を機械式翻訳にかけた時、翻訳に対応していない単語が妙な形で文章に残ってしまうような、そんな不自然さだった。
「あなたの名前は呼びづらい」
「......そう言われましても」
「カプリースと、そう呼んでいい、後、そんなにかしこまる必要はない」
「......わかった、 僕もウタカでいいさ」
彼女の目がこころなしかジト目になってきたのを見て、あわててそう答える。
カプリースか、聞いたことがあるようなないような……それより言葉が通じる理由がわかんないな。
彼女の言葉は名前の発音を除いて、完璧な日本語に聞こえるが、そんな都合のいいことがあるのだろうか。
「ねえ、ここの言葉って……」
「ん?」
「……いや、つまり僕らが話すことができるのって……」
そこまで言って、自分の言葉に息を呑む。より正確に言えば、自分の口から発せられる言葉が、日本語の音韻体系とはまったく異なるものであることに気がついて。
恐ろしいのは自分が何の意識もなく、自然とこの未知の言語を話しているということだ。日本語を話すときに、いちいち、一つ一つの単語を思いおこすことがないように、聞いたことがないはずの音韻を持った単語が、正確な意味を伴い、思考と連動して自然に口から飛び出てくる。
……めちゃくちゃ気持ち悪いな、これ。
「……?」
彼女が不思議そうな顔をしている。目の前の相手が突然、意味不明な質問をして、一人で考え込んでしまったのだから、それは自然な反応だろう。
「い、いや……気にしないで」
こんなことを言ったところで理解を得られるとは思えない。あわててこの話を終わらせる。
「……そう」
彼女はこちらの目をしばらく見つめた後、何事もなかったかのように振り返って歩き出した。
***
ギッという音がして、木製の扉が押し開かれる。店に入って左手に開けたスペースの奥、バーカウンターのような形になっているこの場所の裏側に据え付けられたこの扉が、この店のバックヤードへの入り口らしい。しばらく誰も入っていなかったのか、扉を開けただけで、少し埃のにおいがした。
ここは……?厨房か。
細長い8畳ほどの空間には、中央に木製の細長い料理台が置かれており、奥側の壁には簡素な流しと、大き目の水がめが置かれていた。
それで、あれは……はぁ?
厨房内をさまよっていた視線が、教学とともに1点で固定される。
銀色の大きな扉に、でかい図体。その明らかに場違いな代物に唖然とさせられる。
それは冷蔵庫だった。昔、日本でも使われたてたとかいう、氷を室内に入れて冷やすような代物ではなく、現代的なステンレス製の業務用冷蔵庫。
しかも動いてるなこれ……どうなってんだ?
近寄って手を当てれば、扉はひんやりとしていて、わずかに振動している。この部屋に響く通低音はコンプレッサーにつながったモーターによるものだろう。
「えっと……これは? 」
「レイゾウコ」
「……」
いやまぁそうなんだけどさ……
明らかに場違いなそれを前に、心なしか自慢げな顔を浮かべた彼女のほうを見る。
「これ、君の?」
「違う、お母さんの」
「使い方を知ってる?」
「……冷やす?」
はぁ……
「開けてもいいかい?」
「……どうぞ」
妙な胸騒ぎを感じながら、銀色の取っ手に手をかける。
こんなに冷蔵庫を開けるのに緊張したのは人生で初めてだ。
喉が鳴るのを自覚しながら手に力を入れる。ガチャという聞き覚えのある音が部屋に響く。
冷蔵庫を開けると中から強烈な光が差し込む……わけもなく、ただがらんとした空間が広がっていた。
空か……ん?
顔を突っ込んで中を見てみれば、ちょうど、へその位置ぐらいの高さにある棚に紙でできた封筒がおいてあることに気がついた。
「これは?」
「......わからない」
彼女の返事は相変わらず、そっけない。だが、その言葉には、明確な悲しさが宿っていた。
「ずっとおいてある、私には読むことができない……」
「……そうか、見てもいいかい?」
「かまわない」
既に封が開けられた封筒を拾う。彼女が、やや早足で近づいてきて、封筒に目をおろす。
『また、会えたね』
その手紙には、日本語で、ただそう書かれていた。達筆というわけではないが、どこか、味のある優しげな字。しばらく、ぼうっとしてそれを眺めていた。
「読める……の?」
恐れと期待を含んだ声色で、彼女が問いかけてくる。
「また、会えたね……そう書いてある」
そう言って彼女の方を見る。
「そう……」
不自然な間があいた後、彼女はつぶやくようにそう言った。いつのまにか、その瞳には大きな涙が浮かんでいた。
「どうして?」
「わからない……でもずっとそれが知りたかった」
彼女はしばらく泣いていた。
冷蔵庫のこと、彼女の母親がこの場所にいないこと、なぜ、店を再開しようと思ったのかということ。聞きたいことは山ほどあるが、一つだけわかるのは、彼女がここにいいない誰かを思って泣くことができる人間だということだ。
彼女が俺をだますようなことはおそらくないだろう。詳しいことは後で聞けばいい。何より、彼女との縁を切りたくはなかった。
「よし、じゃあ始めてみようか」
彼女が落ち着くのを待って、俺はそう言った。