2.落下しているというよりは、地面に吸い寄せられているという感覚
過去編 1
落下しているというよりは、地面に吸い寄せられているという感覚。恐怖とはまた違う、未知の感覚に肌があわ立つのを感じ、思わず目を閉じた。
スローになる景色と、自分の下にある空気に体を押される感覚に、自由落下とはこういうものかと、意味のない考えが頭に浮かぶ。
……やっぱり、空っぽだったな。
何もかもに諦めたふりをしながら、そんな時ぐらい、なにか特別な出来事が起こるんじゃないかと期待していた自分に気がついて自嘲する。
すさまじい風切音と暗闇の中で、一瞬、自分がさらされている空気が変化した気配を感じた。
それが、この世界での人生の始まりだった。
***
「そこで寝転んでいるのはお勧めできない」
……ん?
女性の声にしては少し低く、抑揚のない声に思わず顔を向ける。背後からの光を透かす金髪と、整った彫りの深い顔立ちが、彼女が同郷の人間ではないと告げている。
……昼?どうなってる?
驚くべきことに、ビルから飛び降りてみれば、いつのまにか昼間になり、無傷で地面に寝そべっていた。あまりの突拍子もない出来事に、パニックになることもできず、声をかけてくれた女性のほうを呆然と見てしまう。
やっぱり耳だよな……あれ。
金髪の間から左右に突き出す肌色の物体は耳としか思えないが、同時に、これまで見たどんな耳とも、その形状は違っていた。例えるなら、自分が知る耳の縮尺を、4倍か5倍ほど横方向に伸ばしたような形。人のそれより、明らかに尖ったその先端は、直径7、8センチぐらいの円を二重にした形のイヤリングの重さでやや下に下がり、彼女の頭の動きに合わせて揺れている。
「そこで寝ているのはお勧めできない、あなたが狂人じゃないのなら」
一言目とまったく変わらない抑揚で言葉が続けられる。
顔についた土を払いながら、体のどこにも痛みや不具合を感じないことを確認する。
何とか頭を切りかえて、異常な点を洗い出してみる。怪我も痛みもない体、雲ひとつない空と明るい日差し、自分が手をつく舗装されていない通りと、そのサイドに立つ西部劇に出てくるような木造2階建ての家屋。勿論、どの要素にも合理的な説明を加えることは不可能なように思えた。
「あなたは、あなたの世界からこの世界にやってきた」
彼女の意味不明の言動に、混乱に拍車がかかる。
「死にてぇのか、ばかやろう!」
彼女に質問を返そうとしたところで、背後からがなるような声が聞こえた。振り返れば、馬車の御者台に座る男が苛立った視線をこちらに向けている。
馬車か……馬車ね……
次々と続く出来事に、もはや、その意味を考えることする億劫になってきた。ふらふらと立ち上がり、通りの脇によける。ひづめが土を叩く音を超えてなお響く舌打ちの音に、反射的に頭を下げ、馬車を見送る。
荷車には木箱やずた袋といった物資のほかに、帯剣した5人の男女が座っていた。動きやすそうな革製の鎧?かなにかを着た後部に座る長髪の女が、苦笑しながら、スマンとばかりに手を挙げる。
呆然としたまま、馬車を見送り、そのまま彼女に視線を戻す。
彼女は、自分と同じ側に場所をよけている以外は、さっきと変わらない無表情でそこにいた。
「お勧めできないと言った」
相変わらずの無表情だが、心なしか、憮然としているような気配を感じ、あわてて「すいません」と謝る。
「……まぁいい」
どこか、理不尽なものは感じるが、下手をして、彼女が歩き去ってしまうのは恐ろしい。
「ここ……どこです?」
「ここは夜の国」
正気を疑われても不思議ではない質問に、彼女は表情を変えずに答えた。『夜の国』というのは俗称かなにかなんだろうか。空が開けて乾燥した暖かな空気と、明るい日差しが射すこの街の雰囲気とはいかにも不似合いだが、彼女が冗談を言っている様子はない。
「ついてくるといい、この場所よりはいいはず」
切れ長の目を流すようにして、自分たちを取り巻く野次馬を見渡し、彼女は言う。
「ああ、はい……」
彼女がどこへ連れて行こうとしているのかわからないにしろ、ここでさらし者になっているよりは、ましなように思えた。正直なところ、まったく何をしていいかもわからない状況で、やるべきことを与えてくれた彼女が、女神のように見えていた。
「ありがとう、よかったら持ちますよ」
「……あなたは気が利く」
彼女が前に抱える麻袋を受け取る。イメージしていたよりずいぶん重く、あわてて袋の中をのぞいた。
「ハム?あとチーズかな?」
袋の中には、枝肉のままのハムとハードタイプを4分の1ぐらいにカットしたと思われるチーズが入っていた。このタイプのチーズは、水分を限界まで落とし、硬く密度の高いチーズだから、冗談抜きで見た目より、断然重い。
「正解、知識もある」
妙な褒められかたに首を傾げつつも、ずんずんと前を歩く彼女に続く。
***
「それでここは……?」
「私の家、私たちのお店」
2ブロックほど歩いた後、通りに面した2階建ての木造の建物に彼女は入った。建物の入り口は、やはり西部劇で見るような、腰の高さの開き戸がついている。
部屋の中はとても静かで、いくらかひんやりとしていた。なるほど彼女の言うとおり、部屋の中は居住空間というには、あまりにもがらんどうで120平米ぐらいの広さがあり、大きめカウンターと簡素なテーブルと椅子が並んでいる。
「ここで働けばいい、あなたなら構わない」
そのあまりにも唐突な申し出に思わず絶句した。
「あなたに行く場所があるとは思えない」
核心を突く一言にぐうの音も出ない。
「あなたのような人は珍しくない、でも、あなたのような人は初めて」
一気に抽象的になった話にぽかんと口が開いてしまう。ふと見ると彼女は、自分の話は終わったとばかりに袋から袋の中身を取り出していた。
「……オーケー、まずは話し合いましょう」
どこまでもマイペースな彼女に圧倒されながら、僕はかろうじてそう言った。
***
「なるほど……ここは本当に夜の国で、ナクトという街なんですね」
「……嘘をつく理由がない」
「疑ったわけじゃないんです、珍しい名前だと思っただけ」
「この世界じゃ珍しくない、光の国、風の国、火の国、水の国」
『この世界』という言い方に驚かされる。つまり彼女はこの世界とは別の世界があることを前提としているということだ。
「この世界には、時々、あなたのような人が現れる」
彼女はひどく察しもいいようだ。
この世界には、認知されているだけで数年に一度、別の世界から来た人間がふと現れる。これまでの事例を聞けば、それは明らかに地球人と思われる人間もいれば、明らかに違うと思われる人間?もいた。彼女がさっき言っていたことの前半分がようやく理解できた。
「帰れるか聞かないの?」
虚をつかれた思いで彼女のほうを見る。
帰る?帰ってそれで……?
今、この状況が夢でないと仮定して、自分がどうしたいかについて考える。
「この世界で生きるにはどうしたらいいでしょうね?」
「……ふむ」
彼女は出会ってから初めて、少し考えるようなそぶりをした。
「働いて、糧を得て、よく眠る」
それはとてもシンプルな答えだった。
「ここで働けばいい」
彼女は再びその言葉を口にした。