重要度の差
執筆者、雪村夏生。
「先生、原稿まだですかっ」
部屋の扉を開けた瞬間、そう叫ばずにはいられなかった。先生は身体を横に向けて、椅子の背もたれに寄りかかっていた。目は窓の外に向けられている。ちょうど桜の花が散り終えて、緑色の葉が枝にくっついていた。風に揺られてわさわさと動いている。だが木が全身で揺れるときに立てる音は僕の耳にまで届いてこなかった。部屋が締め切られているせいだ。しかもこの部屋は少しばかり蒸している。もともとさほど広くはない、書斎と呼ぶべき空間だ。左右にそびえ立つ本棚は、天井にまで達している。到底理解できなさそうな本の数々がひしめいているので、一度も読ませてもらったことはない。
「先生、原稿は……」
「吉田君、落ちつきたまえ。それより君に食べてもらいたいものがあるのだがね」
先生はようやく切れ長の目でこちらを見た。眼鏡のブリッジをつまむと、自分の顔から引きはがす。立ち上がった。こういう何気ない動きの中でさえ、先生の格の高さをうかがい知ることができた。落ちついていて余裕があって、優雅なのだ。
見とれていたけれど、時間がないことを思い出す。腕時計で確認する。十三時二十二分。締め切りは十六時。移動時間や簡単なチェック等を含めたら、お茶などしている場合ではない。そもそも先生は原稿ができ上がっているのだろうか。
先生が横をすぎた。慌てて振り返る。
「先生、どちらへっ」
立ち止まって肩越しに振り返る。
「きたまえ、吉田君」
案内されたのは、一階のリビングだった。こちらは必要最低限のものしか置いていない。部屋の真ん中を占めるテーブルと机。そこから見やすいようにテレビが一台。奥はキッチンになっている。
「適当に座りたまえ」
「いや先生、原稿の方は……」
二リットルペットボトルから、ガラスのマグカップに注がれていたお茶の流れが止まった。茶色い瞳が僕を射抜く。
「君は急いでいるのかね」
「ええ、まあ……」
原因はあなたにあるのですが、とは言えなかった。先生は締め切りをきっちりと守る人だ。だが今回に限っては、二週間近く遅れている。先生の担当する週間記事はなかなか人気だから、これ以上遅れられると売り上げに響く。こうして毎日のように原稿は、と訊きに訪れる日がこようとは思っていなかった。
先生はペットボトルを流し台に置いた。片手でキャップを閉める。マグカップに入っているお茶に口をつけた。
「食べていく時間がないのならば、手土産を持たせようかな」
先生は冷蔵庫の中から、箱を取り出した。こちらにやってきて、テーブルの上に置く。
「袋なんてものはうちにはないのでね。すまないがこのまま持っていってはくれないだろうか」
「はあ、わかりました」
鞄に入れてみようとしたが、残念ながらカバンよりも大きいらしい。机の上に戻した。
「さて、帰りたまえ」
なんだって。先生を見返す。
「いやいや先生、原稿の方は……」
「やめようと思ってね」
血の気が引いていくのが自分でもわかった。正直に言ってしまえば、うちの週刊誌は先生の記事ありきだ。先生が記事を書かなくなったら、読者はうちに見向きもしなくなるだろう。今はまだストックがあるからよいものの、それだってあと三週も掲載したらなくなってしまう。
「先生、いったいどうしてそんな急に……」
「継ごうと思ってね、我が家の職を」
先生がテーブルを挟んで目の前にやってきた。お茶の入ったグラスが先生の目の前に 置かれる。
「私の家は、しがない和菓子屋でね。地元ではそれなりに有名なのさ」
先生の元に原稿をもらいに行くようになって三年程度になるが、家柄について聞かされるのは初めてだった。
「実はつい一か月前に、父が倒れてしまってね。そのまま逝ってしまったよ。母も二年前から認知症で施設に入っている。今家業を継いでいるのは、妹夫婦なわけだ。けれど彼らに不安定な職をこのまま続けさせるのは、兄としてどうも収支が合わぬと考えたわけだ」
先生の人差し指が机上のかしわもちの箱に向けられる。
「私は昔から、家を継ぐために訓練されていてね。一通りの和菓子は作れるのだよ」
箱に目を落とす。からくさ模様の中に黒の行書体で「かしわもち」と書かれている。箱を浮かせて底を見てみる。商品名やら賞味期限などが書いてある。その中に「製造元」という欄があった。長野県。遠いとも近いとも言えぬところから上京してきたのか。
「お気の毒です。でも、和菓子屋との両立もできると思いますが」
首が横に振られた。
「それでは上級者になれるかもしれないが、玄人にはなれない。何かを徹底してやるには、なにかを犠牲にしなくてはならない。それが人生ってものだよ、吉田君」
先生は珍しく微笑んでいた。そういえば今まで関わってきて、先生が笑った姿を一度でも見たことがあっただろうか。
「帰りたまえ、吉田君。編集長には私から話しておこう。もう連載作家の私はいないのだ、とね」
ためらったが、結局「わかりました。ありがとうございます」と言って立ち上がって頭を下げた。かしわもち入っている箱を小脇に抱える。
「あのっ」
先生はグラスに口をつけていたが、飲む前に離した。「なんだい?」
「また、また先生の原稿が読みたいですっ。だから」
できることならばこれからもずっと、でも無理だ。
「もしやめても、遠くに行っても、また会ってくれますか?」
グラスの中身を見ていた。軽く振っている。
返事がひどく長く感じた。じっと待っていると、先生はいよいよグラスに口をつけた。まだ半分くらいは残っていたのに、一気に飲み干した。ふうっと息を吐き出した。
「そのときは、うちの宣伝の記事でも書こうかね」
グラスがテーブルに置かれた。置いたときの音が異様に大きく聞こえた。