8.山越え
誰かに呼ばれたような気がして、空を見上げた。
秋の訪れた空に夏のような強い青さはないが、澄み渡った高い青の中に、今の季節を示す特徴的な雲がいくつも浮かんでいる。
「どうした?」
「……いや、なんでもない」
自分を呼ぶ声が聞こえたと感じたのは、気のせいだったらしい。馬に揺られながら、また視線を前へと戻した。
* * *
クラインリッシュの情勢は、どんどん悪くなっていくようだった。
“戦奴隷が解放された”という噂は本当で、その解放された元奴隷たちまでが解放の手段を手に、クラインリッシュの奴隷を解放して回っているという。
「もう、この戦争がどうなるのかさっぱりわからないけど、間違いなく、クラインリッシュは長く荒れるか潰れるかするわよ」
「だろうね」
今では、周辺の国々が虎視眈々とクラインリッシュを狙っているような状態だ。たとえ自分たちに使えないにしても、クラインリッシュの持つ支配の魔法を施す魔法設備は魅力的だし、研究して解析すれば使えるようになるのではないかとすら考えてもいるだろう。ヴァルツフートだって、このチャンスを逃すようなことはしないんじゃないだろうか。もうシェアーネスとクラインリッシュ2国の争いには留まらず、東大陸全土を巻き込んだ戦争へと発展するのではないか。
「とにかく……戦いに巻き込まれないように、できるだけ急いでヴァルツフートに入れるように、祈りながら行きましょう」
キナ臭い場所と山をようやく迂回して東方へと入った頃には、春が近くまでやってきていた。あとは東方諸国を抜けて、もうひとつ山地を越えればヴァルツフートだ。
「ここはだいぶ東側だから、まだそれほど殺気立ってはいないみたいね」
「ああ」
東方諸国の中でも比較的大きめの国ハイルバート王国の町、シアラウにいる。大きめとは言っても、西の王都から北の山までを含むくらいの大きさだろう。
シアラウはこの国の王都にあたるが、大きさで言えばマンスフェルダーの町くらいだろうか。町の北側の小さな山にある、小ぢんまりとした城が王の城だ。
この町について2日経つが、王都だというのに武装した騎士や兵士はあまり見かけず、戦争もどこか遠くでの出来事のように語られているところをみると、この国には、西へ打って出ようという気はあまりないのかもしれない。
「この先にあまり大きな町はないわ。だから、ヴァルツフートへの山越えに必要なものをある程度揃えなきゃならないけど……」
「どれくらいの山を越えることになるんだ?」
「ええと、夏でも頂の雪が解けきらないくらいの高さよ。峠道もあるにはあるけど、結構な難所だったはず。あまり山を越えようって考える人自体が少ないわ。小さな集落は探せばあるかもしれないけど、ってところかしら」
ターシスが難しい顔で考え込む。
「魔物も多そうだね」
「そうね、こっちに構わず襲ってくるやつもいるんじゃないかしら。険しいだけに、飛竜や、ことによると竜がいる可能性もあるわね」
「……少し本格的に準備したほうがいいね。天幕も必要かな」
ふたりで顔を突き合わせ、超える山に合わせて必要なものをリストアップする。これで十分かを確認してから買い物の分担を決めて町に出ると、商店の固まっている地区へと向かった。
「山でも越えるの?」
あれこれと買い物を済ませていると、突然話しかけられた。そちらを振り向くと、まだ若い獣人が佇んでいた。
「あのさ、もしあんたがヴァルツフート目指して竜背山脈越えようって考えてるなら、俺も同行させてもらえないかな」
「なぜ僕がヴァルツフートへ行くと?」
訝しげな表情でターシスが問うと、彼はちょっと困ったように目を逸らす。
「ええと……あんた、魔族だろ? ずいぶん本格的に山越えの装備を整えてるみたいだから、もしかして、クラインリッシュを避けてヴァルツフートへ行こうとしてるのかなと思ったんだ。
俺も、最近いい噂を聞かないんで、ヴァルツフート経由で俺の氏族のところに戻りたいんだけど、あの山を越えるのはひとりじゃさすがに厳しいんで、誰かいないかと探してるとこで……」
「なるほど」
「えっと、俺の氏族は、移ってなければヴァルツフートとクラインリッシュの国境の、南西寄りの山の中にいるはずなんだよ。物騒になってるから、もう少しヴァルツフートのほうに移ってるかもだけど」
疑われていると感じてか、獣人が早口になる。ターシスには、特に嘘を吐いているようには感じられなかったが……。
「僕ひとりじゃなくて、同行者がいるんだ。彼女の了承が得られれば、同行は構わない」
その言葉に、幾分かほっとしたように、獣人の表情が緩む。
「ひとつ確認しておきたいけど、山越えの経験は?」
「竜背山脈なら、南側のさほど険しくないところなら何度か。俺の氏族は山の中に住むから、山歩きなら慣れてる」
彼は見たところ狼系の獣人だし、たしかに山の中に好んで住むというから、体力的にも問題はないだろう。
「……わかった。とりあえず、いったん宿に戻ろう。僕の同行者と顔合わせをするといい」
「ありがたい! 俺はエイナルって言うんだ」
「僕はターシスだ」
宿に戻ると、既にヴァリが待っていた。
「ターシス、おかえりなさい。……そっちは?」
ターシスの後ろの獣人を見て、ヴァリは首を傾げる。
「彼はエイナル。彼も竜背山脈を越えてヴァルツフートへ行きたいから、同行させてくれと言うんだ」
ターシスの言葉に合わせてぺこりと頭を下げるエイナルに、
「……相当険しい場所を越えることになるけど、大丈夫?」
「俺の氏族は、竜背山脈の南西側に住んでるんだ。東側は越えたことはないけど、南西側なら何度か行き来してるし、山歩きも慣れてる。だから同行させてくれないか」
ヴァリは首を傾げながらじっと彼を見つめる。
「……私は構わないわよ。たぶん、私よりずっと、エイナルのほうが山歩きに慣れてるんじゃないかしら。
私はヴァリよ。よろしくね」
「ありがとう、こちらこそよろしく頼む」
季節は夏に向かうとはいえ、竜背山脈の中でも東側はかなり険しく厳しい山越えとなるという。
もう一度、今度はエイナルを交えて準備と打ち合わせをやり直さなきゃならないだろう。
「……エイナルには、竜背山脈でよく出る魔物について聞きたい。ほかに、あの山特有の何かがあるかとか……」
獣人はこくりと頷いて、自分の知る竜背山脈のことを説明した。
盛夏を迎える頃、ようやく竜背山脈のいちばん高い場所にあるという集落を後にした。集落に住む者たちからは無茶じゃないかと言われたが、それでも山越えをするものは皆無ではないし、越えないわけにはいかないのだ。
「山越えする者が通るってルートは教えてもらったけど、やっぱり谷やら崖やらもあるようだね。短距離の転移魔法でなんとか越えようとは思ってるけど、それでもほぼ手探りかな」
「だろうな。俺も、こっちの山越えルートを知ってればよかったんだけど」
まだ比較的歩きやすい斜面を登りながら、ターシスとエイナルの会話を聞く。
「あとは高山病か。体調を崩したら、もったいなくても絶対に一度降りなきゃまずいけど、こればっかりは体質と運だからなあ」
「ああ……俺はたぶん大丈夫だと思うけど、あんたは?」
「あっちはこんなに険しい山なんて、辺境の中の辺境だったから、さすがにね」
有翼人や高山に住む山羊系の獣人たちならともかく、そうでない場合、種族に関わらず一定以上の高山に登ると体調を崩す者がいる。そのまま登り続ければ生命にも関わるのだが、治すためには山を降りる以外の方法がない。
「あっち?」
「ああ、僕は西大陸の出身なんだよ」
「西大陸?」
ぽかんとするエイナルに頷いて、ターシスは考え込むように腕を組んだ。
「そう……ともかく、時間をかけて高さに慣らしながら進めばいいというから、最初は少しゆっくり進むことにしよう。どうせ、焦ったって道は手探りで探すしかないんだし」
たしかに、この山には安全な街道なんてないのだ。あるとしたら、山羊が作った獣道くらいだろう。
「西から来て初見で竜背山脈越えるのかよ、魔族が……なあ、西の魔族って、こんなやつばっかなのか?」
「たぶん彼くらいだと思うわ。さすがに」
驚くエイナルに、ヴァリは肩を竦めてみせたのだった。
それから、なるべく越えやすい箇所を選びながら進み……どうにか竜背山脈をヴァルツフート側の麓まで降りた頃には、秋を迎えようとしていた。





