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ぼくを取り巻く世界のできごと  作者: 銀月
5.西大陸からの旅

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5.海路

「おかあさん、熱は……?」

「触らないで。放っておいて」

 子供は不安げな表情を浮かべたまま、じっと顔を見つめる。

「あっちに行ってて」

「ごめんなさい」

 視線から目を逸らし、手を振ると子供は俯いて部屋を出て行く。

「……シスは、もう戻らないつもりなのね」

 窓の外には、夏を迎えた太陽が眩く輝いていた。


* * *


「エドゥアルド・ヴァレンホルストです」

「ターシスです。こちらはヴァリ」

 ヴァレンホルスト商会を訪ね、マンスフェルダーの紹介状を出すと、すぐに商会長との面会は叶った。商会長はまだ30を少し過ぎたくらいと思しき、一見柔和な印象の人間の男だ。

「マンスフェルダー卿からのたってのお願いとあれば、すぐに手配を致しましょう。ただ、東行きの船は客船などではなく、貨物が中心の商船ですから、乗り心地などは保証できませんが」

「ええ、僕もヴァリも傭兵ですから、乗り心地など二の次で問題ありません。食糧の保存や水の浄化もできますから、ただ向こうまで運んでもらうというのでなくても大丈夫です」

「魔法が使えると?」

 ターシスが頷くと、エドゥアルドは目を瞠り、それはたいへんありがたい、と言った。

「それなら、積み込む水を最低限にして船員の脚気防止用の食糧が増やせますな。働きに対する報酬も用意するので、ぜひお願いしたい」


「ねえ、ターシス、大丈夫なの?」

 商会を出るなり、ヴァリが心配そうに尋ねた。

「何が?」

「船酔い。魔法どころじゃなくなっちゃうんじゃないの?」

「一応、薬は用意しておくよ。シャスに処方してもらった分もあるし」

 ほんとうに大丈夫なのだろうか。以前ちらりと聞いた話を思い返し、一抹の不安がよぎったヴァリにじっと顔を見つめられて、ターシスは取り繕うようにへらりと笑った。

「とりあえず、船旅の準備をしないとね。持ち込める荷物の量は聞いたし、買い足さなきゃならないものがあるかを確認しよう。向こうの情勢も、できれば確認したいね」

 ここまではトントン拍子に来れたと思う。こちらで一番問題なのは東行きの船を見つけられるかどうかだったので、無事に海を渡りきることを別にすれば、あとは向こうに着いてからの問題だけだ。なるべく新しい情報を得られないか、港で一番最近来た東からの船を見つけて、東の情勢について聞いておいたほうがいいだろう。

「向こうからこっちへ渡るには、風の調子にもよるけど最短で20日ってところだから……聞けるとしたら、ひと月くらい前の話になるわね」

「そっちは君に任せていいかな。たぶん、僕ではあまり役立つ話を聞き出せそうにないと思うんだ」

「わかった。じゃ、買い物は、わたしの分もお願いね」

「ああ」

 ヴァリとターシスはそれぞれで用事を片付けることにして、二手に分かれたのだった。


「聞けた話は、ふた月近く前のことまでだったわ」

「どうだって?」

「本腰を入れた戦争までは行ってないけど、国境の小競り合いは激しくなってきているから、時間の問題みたい。今頃は、もう戦争になってるかもしれないって」

「なるほど」

 ヴァリの話に、ターシスは考え込む。

「ねえ、デルトがいるヴァルツフートがそれに参戦するっていう噂はないみたいだし、あそこは国境に険しい山があるからそうそう攻め込まれたりはないはずよ。だから、そんなに心配はいらないわ」

「なら、いいんだけど」

 西のいいところは、東のような本格的な戦争がないところだと、ヴァリは思う。種族への差別や偏見はきついと感じるけれど、しょっちゅう戦争が起こるのとどちらがいいだろうか。

「西と東、いいとこ取りができたらいいのにね」

「……エディトさんが、この国の魔族への偏見を無くしたいと話してたことがあるんだ」

 溜息とともについそんなことを零すと、ふと、思い出したように、ターシスが小さく口にした。

「もう何百年も、西大陸では魔族が隠れ住まなきゃいけないような状況が続いてるけど、それをなんとかしたいって」

「すごいこと、考えるのね」

 何百年も続いている偏見をどうにかしようなんて、ひとりの人間が何かしたところでどうにかなるほど簡単ではないと、ヴァリにだってすぐにわかる。それをどうにか?

「だから、魔族のこともあれこれ調べているんだと言ってたんだよ」

 たしかに、この国でおおっぴらに姿を晒す魔族を見たことはなかった。あれだけひとでごった返す王都でも、ユールのように姿を変えて、見つからないよう、目をつけられないよう、息を潜めるようにひっそりと暮らす魔族が幾人かいることに気づいたくらいだ。

「たしかに、西の偏見って、少し度が過ぎてるなとは思ったわ」

 ターシスは頷く。

「数百年前はここまでじゃなかったと、ユールさんも言っていた。だから、もしかしたら何かがあるんじゃないかと、エディトさんは、その何かが見つかって解決できたら状況は変わるかもしれないと考えてるみたいだよ」

「……そうだといいわね」

「まったくだ」

 きっと、それは途方もない道程になるんだろう。


 出航の日は朝から晴れて、穏やかな風が吹いていた。

「いい日和だ」

 船員のひとりが空を仰ぐのに釣られて、ターシスも晴れ渡った空へと目を向ける。

「薬は飲んだ?」

 急に横からヴァリに尋ねられて、ターシスは「そのこと、忘れてたのに」と、少し不安げな表情になって頷いた。


 船旅は順調に進み、ターシスも薬のおかげか船が大きくあまり揺れなかったおかげか、さほど船酔いに悩まされることもなかった。ヴァリも、西へ渡ってきた時のような船酔いにはならなかったようだ。

 最初の約束通り、食糧の保存の魔法の掛け直しや海水を汲み上げて浄化する作業も順調にこなせている。

 ──が。

「こりゃ、嵐が来るな」

 西大陸の最後の町を出航して5日目、夏も終わりに近づいてきたこの季節にはよくあるという大嵐の雲が、水平線に見え始めたらしい。

「船体とマストに、強化の魔法をかけておく。2、3日はもつはずだ」

「おう」

 本格的に嵐に巻き込まれる前にできる対策をすべてやるべく、船員たちは船上を走り回る。甲板の荷物をしっかりと縄で縛り、船倉の荷物もしっかりと固定して、嵐に備えるのだ。

 マストの上では、嵐を睨みつけるようにじっと雲を観察する船員が、大声で刻々と変わるようすを報告している。

 しばらく進むと、水平線にかすかに見えているだけだった黒い雲がどんどんと大きくなり、辺りも薄暗くなってきた。波のうねりが増し、風も強くなっていく。船は大きく舵を取って、嵐の右側へ回り込むルートへと進む。

 甲板の船員たちは、この揺れで投げ出されないようにと、ロープで身体を固定し始めた。ヴァリとターシスもそろそろ中に入れと促され、船室へと閉じこもる。

 波はますます荒くなり、船の揺れも大きくなっていく。どこかにしっかりと捕まっていないと、すぐにどこかに叩きつけられてしまうだろう。


「……狭いところにいると、この揺れは、やばいな」

「えっ」

 狭い船室の中で、壁に打ち付けられたベッドにしっかりと掴まりながら、じわじわと顔色が悪くなってきたターシスにヴァリはぎょっとする。

「だ、大丈夫?」

 ここでぶちまけてしまったらそれこそ大惨事だろう。おろおろとするヴァリを、ターシスは片手で押し留めた。

「ちょっと、上のほうに行ってくるよ」

「え、でも」

「外には出ないで、甲板近くの扉の辺りにいるから」

 ふらりと立ち上がり、激しく揺れる船内をよろめきつつもどうにか歩いていくターシスを見送った。本当に大丈夫だろうか。


 よろよろと甲板へ出る扉のそばまで上がったターシスは、そのまま階段に座り込んだ。わけのわからない方向に激しく揺さ振られ、今の気分は最悪で、これだから船旅は嫌なのだとターシスは考える。これまでは海も穏やかで、ようやく慣れてきたかと思ったところでこれだ。

 しかし嵐に文句を言うわけにもいかず、明かり取りの小窓の隙間から入り込む風で新鮮な空気を得ながら、じっと揺れに耐えていた。

「横波が来るぞおー!」

 大きく叫ぶ声が聞こえて、慌てて手摺に掴まったところで、船体が大きく揺れる。一瞬投げ出されそうになって、掴まる腕に思い切り力を込める……と、外から「落ちたぞ!」という声が聞こえた。

 ターシスは甲板への扉を開き、すぐそばにいた船員に、「落ちたって?」と尋ねる。船員は落ちたと声の上がったほうへと目をやったまま、「ひとり、右舷から落ちたらしい」とそれに答えた。

 見ると、右舷のほうで、船べりから下を覗き込んで騒ぐものが何人かいるようだ。

 ひとりか。この陸も見えない荒れた海に投げ出されたら、先行きは知れているだろう。なら、必要な魔法は……と考えていると、「ターシス」と呼ばれた。

「大丈夫? 何があったの?」

「ああ、ちょうどいい」

 ようすを見に来たヴァリだった。ターシスは探知の魔法を唱えつつ、ヴァリを手招く。

「ひとり落ちたらしいんだ。回収してくるから、ここで目印の灯りを頼むよ。なるべく明るく、大きめに」

「え、大丈夫なの?」

「たぶん」

 たぶん? と聞き返す間も無く、詠唱とともにターシスの姿が消えた。

「ああもう!」

 ヴァリは煌々と輝く魔法の灯りを灯すと、ターシスに向けて探知の魔法を唱えた。万一の場合、すぐにフォローができるようにと。

 ……それからすぐに、灯りの下にまたターシスが現れた。

「助かった。やっぱり見えるもの目掛けて移動するほうが楽だね。灯りがなかったら戻ってこれるかわからなかったよ」

 抱えていた男をおろすと、ぽかんとしていた船員が我に返り、慌てて状態を確かめる。その間にヴァリはロープを取り、ふたりの身体を手近な柱に繋げて固定した。


 嵐をどうにかやり過ごし、2日も経つと、海は再び完全な穏やかさを取り戻した。嵐で若干の積荷が流されたりはしたけれど、概ね軽微と言える被害だけで済んだ。嵐に傷めつけられた船体もとりあえずの処置を終えているし、嵐の名残の風も船を軽快に進ませている。この調子なら遅くてもあと5日もすれば東に着くだろう。ターシスはようやくほっと安堵の表情を見せていた。

「陸に着いたら、思いっきり水を浴びたい……」

「確かにね。どこもかしこもべたべただし、武具の塩も落とさないと錆びちゃうわ。服も全部きれいにしないと」

 甲板から海を眺めながら、なんとなく、船乗りたちのやり取りに耳を傾ける。

 海を渡る際、魔物に遭うことは滅多にないが、嵐に遭遇することは多い。特に、夏の終わりの嵐はひっきりなしに現れては去っていくものだ。今回、一度だけで済んだのは運が良いと言えるだろう。

「やっぱり、船旅は僕には合わないな」

「そう? でも、船酔いは大丈夫だったじゃない」

「まあ……たしかにそうなんだけど、飽きるよ、これは」

 どこまでも続く海原とまったく代わり映えのない景色を指してうんざりした顔のターシスに、ヴァリはついくすりと笑いながら、でも、出航当初の余裕のない雰囲気が消えてよかったと考えていた。

「そうは言っても、帰りも船になるんだから、諦めて」

「わかってるよ」


 それから4日後、順風にも恵まれて、船はシェアーネス王国の港町マルドンへと到着した。


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