閑話:南街道/ターシス
「おかあさん、お水もってきたよ」
「……いらない」
「でも、おかあさん」
「……いらないって言ってるの!」
おかあさんはぼくが差し出したカップを乱暴に振り払った。熱で弱り痩せ細った腕なのにその力は案外強くて、飛ばされたカップはごろごろと床を転がっていき、こぼれ散った水は辺りを濡らす。
「でも、お水を飲んで、何か食べないと、治らないよ」
「いいの、治らなくても」
おかあさんは「何もいらない」と言うと、また布団に潜り込んで、小さな小さな声でぶつぶつと呟いていた。
ぼくはこぼれた水を掃除しながら、食べるものを探してこなくちゃと考えた。
おかあさんが何か食べたいと思った時に食べられるものを。
* * *
アラベラに手を弾かれて以来、デルトはぴたりとアラベラの世話を焼くことを止めてしまった。
そして、あまり表情を出さなくなり、あまり話さなくなっていた。
デルトは泣き方をよくわかってないみたいだ、と以前シャスが言っていた。
村で子供たちと遊んでいるときは年相応に見えても、妙に淡々としているのは、無意識にいろんなものを抑え込んでしまっているからではないのかと。本来、あの子はもっと感情が豊かな子供のはずなんじゃないかと。
その時は何を言ってるのかと思ったが、こうなって初めてようやくわかった気がした。
アラベラたちと行動を共にするようになって、随分と喜怒哀楽も顔に出るようになっていたのに。
「ねえ、ターシス。デルトのことだけど、あまりいい状態じゃないと思うの。なんとかならないかな?」
その日の夜、宿で夕食を取った後エヴィに引き止められ、案の定、デルトのことを心配された。しかし、なんとかと言われても……僕は溜息を吐いて、首を振る。
「どうすればいいのか、皆目見当が付かない」
「……何かない? 何も?」
「僕がデルトと一緒に生活し始めて、まだ2年と少しなんだ。僕はそこまでデルトのことを知らないんだよ。
……それに、僕はデルトに信用されていない」
「え? でも父親でしょ?」
「10年、妻子を捨て置いたのでも名乗っていいなら、たしかに父親だけどね」
「……ターシスまでやけっぱちになってどうするの」
エヴィが眉を顰めて睨み付ける。
「でも、どうしていいかわからないなら、正面から行くしかないと思うんだけど」
「ここにアロイスがいてくれたらな……」
思わずまた溜息を吐くと、エヴィに呆れた顔で背中をバシッと叩かれた。
「何言ってるのよ。ターシスが父親なんだから、ターシスがやるべきことでしょ? アロイスさんって、義理なんでしょ?」
「僕はそういうのがどうも苦手なんだ。アロイスは上手いんだけどね」
「でも、他人の私が何かするのはもっと無理よ。やっぱりターシスじゃないと──お父さんなんだから、がんばって。アラベラも心配してるの」
部屋に戻ると、ろくに灯りもつけないまま、デルトはぼうっとベッドに座っていた。
「デルト、少し話をしよう」
「話すことなんて何もないよ」
「いいから……外に行こうか」
デルトの腕を掴んで魔法を唱え、宿のある村から少し離れた森の中に転移する。デルトは、いったい何をする気なのかという顔で目を眇めていた。
僕はデルトに笑いかけて、さらに魔法を唱え……僕らにかかっていた姿変えの魔法を解いてしまった。さすがにデルトも驚き瞠目する。
「姿変えを解いたのは久しぶりだ。肩が軽くなった気がするな」
「急に何してるんだよ。誰かに見られたらどうするんだ」
「大丈夫だ」
声を荒げるデルトを抑えて、手早く探知の魔法を唱える。
「うん、誰もいないよ……デルトは角の形もリーゼに似たんだな。そっくりだ」
デルトは「何言ってるんだ」と、鼻白んだ顔でぷいと目を逸らしてしまった。
「で、何があったんだ?」
本題に入ってもデルトはこちらを見ようともせず、不貞腐れたような声でぶっきらぼうに答える。
「何も、ないよ」
「今じゃなくて……あの山の家で、リーゼと、何があったんだ?」
「何も……」
「何かあったからそんなに苦しそうな顔をしてるんだろう? ここには僕とお前の2人だけだ。誰も聞いてない。だから、吐き出してしまうんだ。僕を罵るのでも構わないから、言ってしまえ」
デルトは俯いてじっと黙り込んでしまう。
時折、何か言いたげに口を開こうとするが、言葉にならないらしい。
「大丈夫だよ。お前が何を言っても僕はちゃんとここにいるし、どこへも行かない。お前が呑み込んでたもの、最後まで全部聞くよ」
怯えたような目で僕を見上げ、またすぐに俯いてしまうデルトの背に手を伸ばし、優しく摩りながら、口を噤むデルトから言葉が出て来るのをじっと待った。
「おかあさんは……病気になってから……お水も飲まなくなって……」
ゆっくり、今まで奥底に沈めたままだった言葉を、少しずつ吐き出すのを待つ。
「何もいらないって、言うんだ。よわってるのに」
カタカタと震えだしたデルトの手を、しっかりと握った。
「でも、ずっと呼ぶんだ」
また、上着の胸のあたりをぐっと握りこみ、デルトは大きく息を吐いた。
「ぼくを見ないんだ。ぼくを見てくれない。“シスはどこ”って、そればかりで、ぼくを見ない。見ないんだ」
再び顔を上げたデルトは、目を見開いたまま、涙をあふれさせていた。
「ぼくを見ないで、“死にたい”って言うんだよ。おとうさんがいないから。ぼくじゃだめなんだ」
まるで小さい子供のように、けれど声を殺して、デルトは泣き出していた。
「ぼくがいてもやくにたたないんだ。だめなんだ。おとうさんじゃないから。だから、おかあさんはしんじゃったんだ」
「……デルトは、もっと僕を責めていい。リーゼが死んだのはお前のせいじゃない。デルトは僕やリーゼを、もっと責めていいんだよ。自分だけで抱え込むな」
デルトはぶんぶんと頭を振る。
「だって、ぼくはだめだから、だから、おかあさんはぼくを見ないし、死にたいっていうんだよ。なのに、おとうさんはいないんだ」
「なら、帰らなかった僕と、死にたいと言ったリーゼが悪い。デルトは何も悪くない。僕もリーゼも自分の我を通すのでいっぱいだっただけだ。お前を顧みなかったのは、お前が悪いからじゃない」
僕はデルトの背中を摩りながらデルトの頭を抱え込む。デルトは、小さい子供のように縋り付いて、どうしてを繰り返した。
「どうして……どうして、いないんだ。おそいよ。どうしてもっとはやくかえってこないんだよ。どうして」
「……ごめんよ」
「なんで今頃なんだよ。もうおかあさんはいないのに。なんで、どうしてなんだよ」
「本当に、ごめん」
「おとうさんがかえってきたのに、おかあさんはもういないんだよ。いないんだ」
僕がいるのに、リーゼがいない。デルトはそれだけをただ繰り返して泣く。断片的な言葉から、リーゼはあまりこの子を顧みなかったのかもしれないと考える。
しゃくりあげるデルトの背中を撫でながら、ひたすら言い聞かせるように繰り返した。
「お前は何一つ悪くないんだ。僕とリーゼの勝手に、お前を巻き込んでしまってごめんよ。お前はずっと寂しかったんだな。本当にごめん。間に合わなくてごめん。ひとりにしてごめん」
「やだ。どうせ、おとうさんはまたいっちゃうんだ。おかあさんはいないから、ぼくはひとりでまたなきゃいけないんだ」
まるで幼い子供のように舌足らずなしゃべり方になってしまっているデルトの言葉を聞きながら、もしかしたら、この子が歳の割にしっかりしているなんていうのは僕の錯覚で、山の家に住んでいた時からずっと、幼いまま成長できずにいたのかもしれないとすら考えてしまう。
「もう、お前を寂しがらせないから。僕はちゃんとお前のことを見ているし、ちゃんとここにいる……僕の名前にかけて誓おう、ヴェンデルベルト。僕の名前“アナスターシウス”にかけて、誓う。だから、もうお前は絶対ひとりにはならない。
……もう、泣くんじゃない。お前が寂しいのは、お前のせいじゃないんだから。僕とリーゼが……おとうさんとおかあさんが、全面的に悪い。お前は巻き込まれただけだ」
僕とリーゼが、アロイスとシャスのような夫婦になれていれば、デルトがこんなに思い詰めることはなかったんだろう。けれど、それは叶わず、デルトに全ての皺寄せを負わせることになってしまった。
僕は、本当に何もわかっていなかった。200年も生きているのに、アロイスにはやっぱり敵わない。
お前は魔族で寿命だけは長いけれど、ただ生きているだけで成長できるほど世の中は甘くないという、お師さんの言葉が今ならわかる。
僕もリーゼも、何もわかっていなかったんだろう。そりゃ、シャスに4番目の息子だと言われたりするわけだ。
まさに、子供が子供を作ってしまった結果が、これか。
「お父さんはここにいるから、もうひとりで待たなくていいんだ」
もうひとりでまつのはいやだと泣き続けるデルトの背中を摩りながら、繰り返しそう言い聞かせる。
これまで、どうしてデルトは僕を信用してくれないのかと考えていたけれど、こんな父親じゃ信用しろというほうが無理だなと、自嘲してしまう。
ひとしきり泣いて、泣き疲れたのかうとうとし始めたデルトと自分にもう一度姿変えの魔法をかけて、部屋へ戻った。
さすがにもう自分と変わらない体格の男の子を抱え上げて寝かせるのは骨が折れる。こういうのは、もう10年は早く済ませておくべきだったな。
「明日の朝になったら、きっと顔がぱんぱんに腫れてるぞ」
手桶に汲んだ水で布を絞り、顔を冷やしてやりながら、苦笑する。
あの日、どうしてふと山の家に帰ってみようなんて思いついたんだろうとずっと疑問だったけれど、この子に呼ばれたのかもしれないな。
翌朝、散々泣いたことでバツが悪いのか、腫れが残って浮腫んだ顔が恥ずかしいのか、不貞腐れた顔でおはようと言うデルトに、つい笑ってしまった。
「もう少し冷やしたほうがいいな。その顔、アラベラには見られたくないだろ? 朝食は持ってきてやるから、部屋で食べよう」
憮然としたまま頷くデルトに待つよう言って、朝食を取りに階下へ降りると、エヴィとアラベラは既に食べ始めていた。
「どう?」
それだけを聞いてくるエヴィに頷いて、肩を竦める。
「ちょっとかっこ悪いことになってて、そのまま出て来ると男の子の沽券にかかわるからね、僕らは部屋で食べるよ」
エヴィは、そんなことだと思った、とぷっと吹き出した。それから、どういうことかと目で訴えるアラベラに、「デルトはもう大丈夫だってさ」と言う。それでも怪訝な顔を崩さないアラベラに、僕も「心配かけたね。大丈夫だよ」と言ってから、朝食を持って部屋へと上がった。
「あのね、デルト」
向かいで朝食を取るデルトに、僕はふと思い出して、口を開いた。
「僕は、リーゼの“名前”を知らないんだ」
「え?」
デルトはさすがに驚いたのか、ぽかんとした顔を上げる。
「リーゼも、僕の“名前”を知らなかったはずだ。教えてないから」
「……どうして?」
「僕らはその程度の関係だったってことだよ」
デルトは、驚いた顔のまま固まっていた。無理もない。魔族は、普通伴侶ができれば、その相手に自分の“名前”を明かすものだから。
「リーゼは……たぶんだけど、たまたま僕が一番近くにいたから、僕に寄りかかって依存した。僕は別になんでもよかった。
──酷い親だね。だから、お前が生まれてその先を考えて、僕は怖くなったんだよ。怖くなった挙句、全部放り出して逃げた。その先はお前が知ってる通りだ。
だから、お前は僕やリーゼをもっと責めていい。お前に酷いものを背負わせたのは、間違いなく僕とリーゼなんだから」
デルトは視線を下げて、またもそもそと朝食を食べ始める。しばらく無言で食べた後、ぽつりと呟いた。
「でも、ぼくは、今、生まれてよかったって思ってるよ」
「……やっぱりデルトはいい子だな」
その言葉が心底嬉しくて、僕は破顔する。頭をくしゃくしゃとかき混ぜると、デルトはまた憮然とした顔に戻って、「もう、小さい子みたいするのやめろよ」と言った。





