桜餅(上)
登場人物
鹿の子‐小御門家の側室。かまどの嫁。
久助‐小御門家の当主に仕える式の神。
クラマ‐鹿の子にちょっかい出す半妖。
桜餅
春の上生菓子
桶に水をため、桜の葉を半刻ほど入れておき、塩抜きする。
練っておいたこし餡をまるめ、あん玉にする。
砂糖水を作り、ほんのり桜色になるくらいに、赤紫蘇で染める。
釜に道明寺粉を入れ、その中に色付けした砂糖水を入れる。
火を強くして、木べらでかき混ぜ続ける。
沸騰して、よう炊いたら火を止め、ふたをして一刻蒸らす。
冷めた餅を均等に分ける。
餅を手のひらに薄く延ばし、あん玉をのせて生地をまるめる。
塩抜きしておいた桜の葉に包んで出来上がり。
*
八重桜の散り終わる頃。
桜のない境内に、ちらほらと厚ぼったい花びらが落ちた。
「おや。この花は」
久助が道しるべを辿れば、そこは拝殿。
簾の奥に鮮やかな藍染めの褐衣をみつけ、足が速まる。
久助は砂利が沈む音を抑えながらそっと近付き、女のようにしっとり、青年の肩を叩いた。
「わぁあっ、ああ、久助さん」
振り返った青年は、久助のこの世と思えぬ美顔に、飛び上がって驚いた。
その眩しさは何年通っても、慣れないものだ。
久助もまた、青年の肩を叩くのを毎年楽しみにしていた。髪を逆立て飛び上がる様子は、腹這いのかえるに似ていて面白い。
一頻り堪能した久助は、いつもと違う調子で話しかけた。
「失礼ながら、今年はいらっしゃらないのではないかと思っていました」
「普通は、そうかもしれないね。お役目は離れたんだし。……でも、僕の気持ちは変わらないよ」
「おやおや、奥方様が妬いてしまいそうなことを」
「久助さんたら、やめてよ」
そう言って、複雑な笑みを浮かべる青年の名は、颯太。
今年の夏に十六歳を迎える颯太は少年のうぶさを残した、可愛らしい顔立ちをしている。
もとは庄屋の息子さんだが、奉公先の貴族家に気に入られ、去年晴れて婿入りした、えらい出世もんだ。
「今や亭主たるお人が、衣裳は舎人のままですか」
久助が颯太のつんつるてんの袖をひく。
「その方が、いいかなって」
颯太は照れ笑いの中に幸福感をにじませ、宜しくお願いしますと深々、お辞儀をして去っていった。
久助はその足でかまどへ急いだ。
かまどでは今日も白い顔を真っ黒にして、小さい小豆があくせく働いている。
炊いている飴にもっていかれそうなほどの細腕。
その腕が止まったのを見届け、久助はかまどの嫁に話しかけた。
「鹿の子さん、ごくろうさまです」
「あら、久助さん。こんにちは」
額の汗を拭い、おでこも煤汚れ。
そんなこと気にもせず、鹿の子はにっこりと笑った。
久助も素知らぬふり。無表情で願い出る。
「鹿の子さん、明日の御饌菓子についてご相談が」
「明日?」
「明日の朝は必ず、桜餅を御出ししてください」
「必ず、ですか」
そういえば、と鹿の子が納戸へ目をやる。
晩春にもう一度作るかもしれないからと久助に言われ、粉も小豆も残してあるのを思い出した。
「はいな。承知致しました」
そうときたら早速あんこを練らなと、襷を締め直す。
用が済んだ久助は去り際に、ひとつ忠告をこぼした。
「蓋、あいてますよ」
この寸の間に、ひたひたにあった釜の飴がもう半分もない。
あちゃあ、という鹿の子の嘆き声を聴き入れながら、久助は渡り殿を渡っていった。
*
久助が言ってくれたお陰で、夕拝の分の御饌飴はなんとか確保できた。
鹿の子はやれやれ、と笊いっぱいの小豆をかまどへ運び入れ、釜へぶちまける。
鹿の子が首を傾げたのは、小豆がとろとろと煮え出した頃だった。
「あれ?」
砂糖水の色染めに、一瞬目を離しただけ。
鍋底をこすろうと木べらの柄を掴もうとするが、すかすか空をきるばかり。釜に目を戻せば、突っ込んでいた木べらがなくなっているではないか。
「おかしいなぁ。どっかに置き忘れたやろか」
焦げたらあかん、鹿の子は新しい木べらを突っ込み一混ぜ。それから、さっきの木べらを探した。
一畳一間のかまどの何処にもない。
「おかしいなぁ。……あれっ」
釜に突っ込んだ新しい木べらがない。
「ぇええ?」
また新しい木べらを釜に突っ込み、一混ぜ。さっきの木べらを探す。釜の木べらがなくなる。探す。なくす。
どんくさい鹿の子は、かまどの木べらが最後のひとつになるまで繰り返した。
もうなくされへん、今度はしっかり掴んで辺りを見回し、思い切り息を吸い込んだ。
「誰か知りませんが、木べらで家でも建てるつもりですかっ」
大きな声で問いかけても、誰も返事はしない、家鳴りもしない、しん、としたかまど。
鹿の子はまぁいいや、気をつけようとかまどへ向き直る。
いちいち怪奇に付き合っていたら、かまどの嫁などやってられないのだ。
次に首を傾げたのは、煮えた小豆を漉し器に移した時だった。
小豆がまあるいまんま、桶に流れ落ちていく。
漉し器を夕陽にかざせば、
「あれまぁ」
今朝までしっかり、網はってた漉し器にぽっかり穴があいているではないか。もうひとつあったなぁと、木べらを持ったまま新しい漉し器を探す。
小振りやけど、まぁいいか。
漉し器に小豆を移せば、あれまぁ。
「これも、穴あいてる!」
仕方なしに、穴あいたままの漉し器で濾していく。
穴が気になるから、いつもより増して辛抱強く。道具に穴があいたとお義母様に言うたら、こっぴどく叱られんねやろなぁと、肩を落としながら。
やっとこさ濾し終えた頃には、とっぷりと日が暮れていた。
濾した餡は、水で締めなあかん。
ふぅ、と一息。
桜の葉っぱは塩抜けたやろかと、桶を覗けば──。
「へ」
葉っぱが木べらに化けていた。
「ぇええええっ」
水桶に沈むは、小豆がこびりついた木べら。
問題は葉っぱが何処に消えたか。
葉っぱがなくては桜餅とはいえない。
「どないしよ」
そこへクラマがやってきた。
クラマは頭を抱えてあぐねる鹿の子を素通り、御饌飴が入った茶碗を探した。
御出し台に乗ったそれをしめしめと掴みあげ、縁に口をつける。
すると端目に見過ごせん、艶やかな春霞の着物が映った。
「なんや、お前」
うっすらと霧を纏ったような羽衣美人が、クラマの顔を覗き込んでいた。
しかしよくみれば歳は十四、五といったところか、クラマと変わらぬようで、おぼこい垢抜けなさをもっている。
着物の袖も裾も寸余り、垂れ流して着ているが、土間の土には汚れていない。
周りにふよふよと木霊が泳ぐものだから、クラマは眉にしわを寄せた。
「春が、かまどに何の用や」
クラマが尋ねるその間も、かまどの嫁が一畳一間のかまどを「葉っぱ、葉っぱ」走り回るものだから、よくない用やというのは、察しがつく。
女はだんまり、扇子に隠れて俯くばかり。
クラマは業を煮やし、茶碗の飴をかっ込んだ。
「鹿の子!」
「は、はいなっ」
突然、クラマが目の前に現れ、鹿の子はびっくりするも何時ものこと。何をそんなに慌てているのか尋ねられ、木べらが沈む水桶をみせた。
頭の回らないクラマは、水に浮く小豆がもったいないなぁと涎を垂らす。
「葉っぱが木べらに化けたんですよ」
「葉っぱが、木べらに?」
「葉っぱがないと明日の御饌に、桜餅だされへんのです。どないしよ」
なんと、明日の御饌は桜餅。
鹿の子の作る桜餅を思い出し、クラマは狐目をとろんと下げた。
期待したところで、それがだされへんと言う。
これは大事だ、クラマは女へきっ、と向き直った。
「返せ」
「…………」
「今すぐ出せっ!」
「……うるさい」
「ぁあ?」
「……半妖あがりが、えらそうに」
「なんやてぇ?」
「……国の外じゃ、なんにもできないくせに」
「言うたなぁ、佐保。こうなったら」
両手を構え、にじり寄る。
「……力ずくや!」
それから、かまどはてんやわんやの大騒ぎ。
笊に桶、茶碗に箸。鉄蓋から包丁まで飛ぶ始末。
鹿の子がクラマを止めようにも、もう消えて見えない。悩む間にも炭が散らかり、盆が格子窓の外へ逃げる。
餡が汚れちゃ、それこそ大事。
鹿の子はあんこの入った桶を抱えて納戸に駆け込み、一人のんびりと餡とぎを続けた。
一刻は経っただろうか。水と混ぜた餡が沈み、上澄みが透き通る頃。
そろそろ、こし餡炊けるかな。
がらり、戸を引けばかまどは足の踏み場もない大惨事。
なんと、おおきな釜までかまどを離れ、土まみれ。
鹿の子はぷっつん、堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減に、しぃや!」
鹿の子のはんにゃ顔にびっくり、屋根家鳴りが足を滑らせ、小鬼は小石みたいに固まった。取っ組み合いしていた二人は手を足を休め、同時にこくり。御出し台の上に正座した。
「こんな狭いかまどで何ですか? 喧嘩するなら他所でしてください。クラマもクラマやけど、見えんもう一人。どこのどちらさんで? ご挨拶もなしに葉っぱくすねて、道具壊して。よっぽどの理由がないと許しまへんで!」
ぺし、ぺし木べらを指すが方角は明後日。
お尻向けてぷりぷり怒るものだから、女はぷっと笑ってしまった。
「この娘、なぁに? 可愛い。それに、私が見えないなんてさ」
人間に見えるように、羽衣をとったのに。
死期が近いのかと憐れむ女へ、クラマは苦虫を噛み潰し、
「……そういう、身体やねん」
土間に転がった釜を覗いた。クラマは縁に残った飴を掬い舐めとると、鹿の子の肩をとんとん叩く。
勢いよく振り返った鹿の子であったが、クラマの神妙な顔つきに、はんにゃを下げた。
「なぁに?」
「わしの隣に居るのは、佐保姫という。お前に桜餅を作ってもらっては困るらしい」
クラマは茶碗を投げ合いながら聞き取った、女の事情を鹿の子へ語り始めた。