南の猛虎
孫堅次は、二人と状況がかなり異なる。
彼は、先述の宗田颯志、尾藤龍仁に比べ、一回りも年上だ。
2181年時点で、颯志は16歳で龍仁は18歳。堅次は27歳である。
颯志が神奈川県の城外で暴動を鎮圧し、龍仁が茨城県の城内で高校生をしていたとき。堅次は熊本県の県庁舎で、働いていた。
もう十年前の、堅次が高校生の頃。2181年が一つの転換点とするならば、2171年も同様に歴史の転換点であった。2170年前後に暴動が頻発するようになり、いくつかの鎮圧による推挙の前例ができた。
堅次もまた、暴動を鎮圧して今の立場を得た男だった。その戦いでは、親族と友人たちをかき集め、百人の暴徒を六十人で鎮圧した。首都である東京からは、それ程高い評価を受けなかったが、現地熊本で彼は英雄となった。今の評価体制はまだできていなかったが、当時からあったとすれば、国に推挙されただろう。それ程の状況であった。
百人は、別の百人と合流する直前であったのだ。油断していた熊本の防御態勢では、致命的なダメージを負わされただろう。膨張しつつあった暴徒は、堅次の勢力に吸収された。
そこで堅次は、熊本での地位と力を得た。
彼は虎のように恐ろしい顔に似合わず、県庁舎では着実に仕事をこなしていった。暴動が起きれば、それまでの仲間と加わり続ける部下を動員して、鎮圧していった。時間が経てば経つほどに、役所内でも民衆の間でも、人心を得た。
県のトップに立ってもおかしくはない状況であったが、二つの経歴が足を引っ張った。堅次は城内高校に入れず、城外の高等程度学校の卒業生であった。
さらに出身は沖縄県であり、鎮圧時は鹿児島県民であったのだ。
民衆は堅次を英雄として見たが、よそ者の英雄を県の指導者としては見なかった。
所内の仲間は、軍事の危機や仕事の修羅場を超えるための超人的な助っ人としか、見ていなかった。
それは、堅次の不幸であったのだろうか。彼の表情からは、何を考えているか察すことはできない。いつも虎のような顔で、暴徒と書面に向き合っていた。
だが、より広い視点で視れば。そう悪い状況でないことが、わかる。県の仕事でも暴徒鎮圧でも、堅次は八面六臂の活躍であった。仕事上の修羅場も暴徒による危機も、孫に任せておけば大丈夫だと、誰もが思っていた。
つまり学生が暴徒鎮圧に参加するには堅次の下に付くしかなく、重い仕事をするためには堅次の部下として、仕事をもらうしかなかった。十年が経った2181年――、熊本以南の人材は、孫堅次の下にしかいなかった。
九州は昔から、福岡と熊本の二極集中であった。
誰も今の時点では考えていないが、もし一度乱世になったなら、民衆は力を持つ堅次を指導者と仰ぐだろう。その時堅次は、九州の力の二分の一を掴む。
そしてそれらを的確に掌握する将は、文武ともに、すでに堅次の掌中にあった。古来、数よりも質の方が、得難いものだ。そして機が来れば(・・・・・)数も揃うことは、目に見えている。
つまり彼も、尾藤龍仁と同様に準備を終えていた。さらに言えば、龍仁とは蓄えた力が、桁外れに違っていた。
それを堅次が知っているのか。虎の面を付けたように仏頂面の彼の表情からは、読み取れない。ただ、彼は今年6歳になる息子の英才教育に熱心だ。その対象は、武術、孫氏、四書五経、経営学、行政学、会計学……などなどと、多岐にわたる。
堅次は何を見ているのか。また堅次には、何が見えているのか。
堅次の無表情が崩れるまでには、もう少しだけ、時が必要だ。