「地味な魔導具いじりに用はない」と婚約破棄されたので、王都の通信網の夜間保守をやめて隣国へ行きます
「地味な魔導具いじりしかできない女に、侯爵家の妻は務まらない」
広間には、演奏が途切れたあとの静けさが残っていた。
次の踊りを待っていた人々が振り向いた。給仕も足を止めたので、エステルは杯を自分で卓へ置いた。
「エステル・ハーゲン。今夜をもって、君との婚約を破棄する」
彼の隣には、淡い金のドレスを着たフローラがいた。肩に灯した小さな光が、髪飾りの宝石を照らしている。
エステルは灰色の裾を確かめた。第二塔で引っかけた箇所は、馬車の中で縫ってある。点検が長引き、髪も星のピン一本で留めてきた。
「その格好を見れば分かる。君には侯爵家の妻としての自覚がない」
扇の陰で、ささやきが続いた。
「また塔ですって」
「毎晩、夜中に出歩いて」
扇の陰の声も、五年聞けば慣れてしまう。今は窓から入ってくる冷気の方が気にかかった。
これだけ冷えるなら、第五塔の三番が下がる。
ギルベルトがフローラの手を取り、客たちへ向き直った。
「彼女はこの国の未来を考えている。光網計画を、皆も聞いているだろう。鳴晶石の調律なんて面倒なものは、もういらなくなる」
フローラの掌に、金色の文字が浮いた。
『ごきげんよう』。
文字は小さな花びらのように広間を渡り、向こうの壁に届いた。拍手が起きる。雨も風もない部屋の中で、光は一つも欠けなかった。
霧の夜は、どうするのだろう。
秋の王都では、川から上がる霧が低い塔を包んでしまう。散った光を次の塔で拾い直す方法があるなら、見てみたかった。
仕様書は、あるのかしら。
エステルは尋ねかけて、やめた。
この場で質問しても、婚約を破棄された腹いせに聞こえるだけだ。自分は計画の相談を受けたことさえなかった。
「承知しました」
エステルは裾をつまんだ。
「では、引き継ぎを済ませて、三日後に通信局の夜勤も辞めます」
「好きにするといい。あんなもの、誰にでもできる」
五年間、と言いかけた。
ここで認めてもらえても、今夜の塔に代わりの人が上ってくれるわけではない。
頭を下げて、広間を出た。
背中で楽団が次の曲を始めた。
◇
「第三塔へやってちょうだい」
御者は少しためらってから、扉を閉めた。
馬車の中で手袋を抜く。人差し指の付け根に、調律具の輪の跡が残っていた。
十五歳のとき、父について通信局へ行った帰りに、塔の音を聞いた。
石の棚に近づくにつれ、細い響きが重なったり離れたりした。指を伸ばすと、奥からハンスに叱られた。
「触るなよ」
翌日も、その翌日も通った。三日目にようやく触らせてもらえた石は、思っていたより温かかった。
半年かけて一基を任された。ハンスが膝を悪くして塔を退くと、受け持ちは七つになった。
ギルベルトと婚約してからは、技師ではなく、長官の婚約者が手伝っているのだと言われた。
給金はほとんど出なかった。仕事の報告には長官の名が載った。それでも鳴文がきちんと届けばよいと思っていた。
第三塔の窓は暗かった。
エステルは鍵を開け、入り口の灯明に火を移した。階段を上っていくと、最上階で黒猫が待っていた。
「遅くなって、ごめんね」
ノアは裾へ頭を押しつけ、先に部屋へ入った。
エステルは棚の灯りをともした。四十八本の鳴晶石が、棚の上できらめいた。
◇
三晩のうちに、七つの塔をいつもどおり回り、引き継ぎ書を書いた。
最後の夜も、第五塔の三番から低い音が来た。
エステルは第三塔の窓辺へ杯を置き、携帯灯を取った。
珈琲は隣国からの輸入品で高い。帰ってくるまでに冷めるのは惜しかったが、飲み終わるのを待つわけにもいかなかった。
「今夜で最後なの」
ノアに言うと、猫は椅子の上へ飛び乗った。聞いていないのか、聞いても仕方がないと思っているのか。
外は冷え、石畳が夜露に濡れていた。
第五塔では、北の窓の隙間から風が入っていた。
布を挟んで塞ぎ、三番の石へ指を添える。表面の澄んだ音の奥に、低いうなりがあった。
輪を根元へはめ、半目盛り上げる。待ってもまだ低いので、あと四分の一動かした。
音が揃った。
同じ音に合わせた鳴晶石は、離れていても文字を送り合える。中継塔を渡って届くその文字が、鳴文だ。
寒さや湿り気で音がずれれば、文が遅れ、文字が欠ける。使う人が少ない夜に、揃え直す必要があった。
帰り道、夜回りの衛兵が灯りを上げた。
「今夜もご苦労さん」
「ありがとうございます」
今夜が最後だと言うと、彼はああ、と短く答えた。
「じゃあ、その灯りを見かけるのも最後か。暗い道が減った気がしてたんだがな」
塔の仕事を説明したことはなかった。
エステルは少しだけ立ち止まり、彼が路地へ消えるまで見送った。
戻った第三塔で、冷えた珈琲を飲んだ。日誌へ数値と窓の布のことを書き、引き継ぎ書にも同じ箇所を加える。
三十二頁になった。
最初は、灯りの場所から書いた。
塔の鍵。石の番号。目盛りを読む向き。どこまで知っている人が受け取るか分からなかったので、二行目にはこう置いた。
『この引き継ぎ書は、読む人が何も知らないことを前提に書いています』
石の癖も並べた。十七番は雨の前に高くなる。四十一番は満月の夜に音が下がる。
満月で下がる理由は分からない。そう書いて、見回る回数を添えた。
三頁目の中央には、もう一度インクを含ませて書いた。
『この網は、毎晩の調律がないと、およそ三日で遅れはじめます』
乾いてから同じ文字をなぞった。
原本と写しを照らし合わせる。予備の石は第三塔の地下、右から二番目の箱。鍵はハンスが持っている。十九頁には、違う相手へ届いたときの止め方。
書き落としがないか、もう一巡確かめた。
国境中継線の石が光った。
『今夜は冷えますね。猫は元気ですか』
◇
その人の名前を、エステルは知らなかった。
三年前、秋の終わりに山を越す線が通じず、互いの値を確かめたのが始まりだった。
『そちらを一目盛り上げてもらえますか。真ん中で会いましょう』
向こうからそう提案され、半信半疑で輪を回すと、二つの音が重なった。
三晩悩んだことが嘘のようだと送ったら、『こちらは五晩です』と返ってきた。
エステルは誰もいない塔で笑った。
初めは数値だけだった。
ひと月ほどして、冷えますね、と一言加わった。膝から猫が下りないと返して以来、毎晩のように猫の具合を聞かれるようになった。
丁寧で、時々とぼけた返事が来る。その人も山の向こうで起きていると思うと、眠い夜にも最後の確認へ行けた。
五年の夜勤の、後の三年にはそういう楽しみがあった。
エステルはノアを膝へ抱き上げて返した。
『元気です。書き物の邪魔をされています』
『どかせないのですね』
『ええ。今夜は、特に』
少し迷ってから、続けた。
『今夜で最後の夜勤です。三年間、ありがとうございました』
返事まで、いつもより間があった。
『どちらかへ移られるのですか』
婚約が解消され、通信局の手伝いも終えることになったと伝えた。
誰にでもできる仕事だと言われたことまで、書いてしまった。
それは余計だったと、送ってから思う。
返事が途切れた。
エステルは調律具をしまい、また出して拭いた。こんな話をされても、向こうも困るだろう。
もう一度礼だけ送ろうとしたとき、石が鳴った。
『誰にでもできる仕事だとは思いません。あの秋から三年、一度も国境線が乱れなかったのは、そちらで合わせ続けてくださったからです』
布を持つ手が止まった。
こちらが半目盛り動かせば、向こうで気づく人だった。調子の悪い夜に、届くまでどれだけ合わせ直したか、お互いに知っていた。
だから、お世辞として受け流すことができなかった。
『では、うちに来ませんか。うちの網はつぎはぎだらけで、腕のいい技師が足りません』
ラウエン魔導通信院だと、次の文にあった。台座の図を取り寄せたことのある院だった。
『夜勤の方には珈琲を出します』
『珈琲で技師をお誘いになるんですか』
『足りませんか』
笑ってしまった。
足りないどころか、ずいぶん心が動いていた。
『猫も一緒にどうぞ』
ノアの耳に触れると、ゆっくりこちらを向いた。
隣国で働くことなど考えたこともなかった。父に何と言おう。
それでも、断る理由は出てこなかった。
『お返事は、引き継ぎを終えてから』
承知しました、と返ってきた。
エステルは最後に各塔の響きを確かめ、日誌の末尾へ『異常なし』と書いた。
インクが乾いても、すぐには閉じられなかった。
◇
翌朝、ギルベルトは三十二頁をまとめてめくり、厚いな、と言った。
机には光網の図面が広げられている。フローラが引き継ぎ書の表紙を見て、すぐに図へ目を戻した。
「止まったときの手順まで要るのか。網は一度も止まったことがないだろう」
「はい。止まらないように、毎晩調律していましたから」
「まあいい。あとで読む」
引き出しが閉まった。
「三頁目だけでも、先にご確認ください」
答えはなかった。
エステルは退職の書面を机へ置き、受け取りの印をもらった。これで、局での立場も終わった。
廊下にはトビアスがいた。
見習いの彼だけが、夜の塔へ仕事を見に来ていた。いつも後ろで息を殺して立っていたから、振り向いて驚くことが何度もあった。
「これを、持っていて」
写しを渡すと、彼は抱えていた書類を落としかけた。
「僕なんかで、いいんでしょうか」
「全部読めとは言わないわ。でも、三頁目だけは必ず読んで」
「はい。あの、石の音もまだ、よく分からなくて」
「だから、手順があるの。順番を飛ばさない人に持っていてほしいのよ」
彼は表紙の端を押さえ、深く頭を下げた。
エステルは、裏の倉庫へ向かった。
ハンスは棚の台座に油を引いていた。
ラウエンから誘われたと話すと、すぐにうなずいた。
「行ってこい。ここは、お前の腕を使い潰すだけだ」
「でも、トビアスさん一人では」
「あの坊主のことは、わしが見ておく」
腰で鍵束が鳴った。予備の石の鍵だ。
エステルがそれを見ると、ハンスは笑った。
「なくさんよ」
「右から二番目の箱です」
「しまったのは、わしだ」
いつものやり取りになったので、ようやく礼が言えた。
頭を下げていると、向こうでも書けよ、と声がした。
「直らんかった晩ほど、ちゃんと書くんだぞ」
「はい」
家では父が待っていた。
婚約を破棄されたことを詫びると、お前の謝ることではない、とすぐに返された。
「私があの縁談を断っていればよかった。侯爵家から声がかかったと、そればかりでな」
父は冷めた茶の縁を見ていた。
「書斎から第三塔が見えるんだ。夜中に目が覚めると、灯りがついている。ああ、今夜も働いているのかと思っていた」
エステルは顔を上げた。
父は塔の仕事を娘の変わった趣味だと思っているのだと、ずっと考えていた。
「誰も褒めてくれない仕事を、お前は毎晩していたんだな」
何と答えてよいか分からず、少しずつラウエンの話をした。
父は院の名と道筋を尋ね、向こうで待ってくれる人がいると聞くと、ようやく茶を飲んだ。
「行きなさい。お前の仕事を、ちゃんと見てくれる所へ」
その夜、屋敷の鳴晶石で『伺います』と送った。
返事は待っていたかと思うほど早かった。
『お待ちしています。国境の関所に迎えを出します』
正式な受け入れの文には、住まいと給金のことが書いてあった。父と確かめてから、荷造りをした。
作業外套と調律具。局の棚に残した原簿とは別に、国境線の値を控えた私物の日誌が三冊。
着替えを入れようとすると、鞄の口から黒い耳が覗いた。
「第三塔にいたでしょう、あなた」
ノアは畳んだ外套を踏み直し、腰を下ろした。
エステルは鞄をもう一つ出した。
◇
二日かけて峠を越えた。
窓から見上げた国境中継塔は、思っていたより小さかった。あの塔を、三年分の短い言葉が通ったのだ。
関所の迎えは、毛布を敷いた猫の籠まで用意していた。院長から、くれぐれも丁重にと申しつかっているらしい。
ラウエンブルクでは、珈琲がヴァルトリアの半分以下の値段で売られていた。袖に煤をつけた女性が二人、店先で飲んでいる。
工具箱を持ったエステルを見ても、誰も珍しがらなかった。
通信院の玄関で、副院長のマルタが待っていた。
「エステルさんね。待ってたわ、本当に待ってたの」
背中を叩かれ、旅でこわばっていた体が前へ出た。
マルタは籠を覗き、「ノアも、よく来たわね」と声をかけた。
「この子の名まで、ご存じなんですか」
「みんな知ってるわよ。山の向こうの夜勤さんと、その猫のこと」
「うちの網は五十年ものなの。継ぎ足しばかりで、前の主任が辞めてから、全部分かる者がいないのよ」
「日誌はありますか」
「山ほど。だから整理から頼みたいわ」
最上階の扉が開いた。
エステルはまず棚を見た。十二番の余韻が短い。二十番は高い。古い石と新しい石の響きが、うまく重なっていない。
「はじめまして、と言うのも妙ですね」
声がして、棚の前に青年がいることに気づいた。
銀灰色の髪に、袖口の擦れた外套。思っていたより若い。彼は少し笑い、クラウスです、と名乗った。
「毎晩、猫は元気かと聞いていた者です」
初めて聞く声なのに、その言い回しには覚えがあった。
マルタが籠を開けると、ノアは青年の靴へ近づいた。差し出された指に、ためらいなく頬をこする。
「思っていたより黒いな」
しゃがむ動きまで、きれいだった。
エステルが名乗ろうとしたところで、マルタが息をついた。
「院長――いえ、王弟殿下。ご身分くらい、先に名乗っておきなさいな」
工具箱を落とさなかったのが不思議だった。
エステルは床へ置き、旅の服のまま正式な礼をした。
「失礼をいたしました」
「顔を上げてください。黙っていたのはこちらです」
王族に、猫が魚を盗んだ話をしていた。左右の違う手袋で出かけた話まで。思い出すほど、顔が上がらなかった。
「名乗ったら、来てくれなかったかもしれないので」
クラウスの声は、少し申し訳なさそうだった。
「ここでは院長と技師です。間違っていたら、指摘してください」
「夜中に勝手に石をいじって、よく叱られるのよ」
マルタが添えた。クラウスは反論しなかった。
エステルは笑ってしまった。
クラウスがこちらを見た。
「ようやく笑ってくれた」
クラウスは国境線の日誌を持ってきた。
開くと、エステルが送った値が三年分、一つずつ書き写されていた。春の増水の夜も、峠が凍った朝もある。
「こちらで直すときにも要りますから」
当たり前のことのように言われ、エステルは持参した日誌を出した。
クラウスは同じ日を並べて、うなずいた。
「やはり、あなたの字だ」
「鳴文では、筆跡は見えませんよね」
「字は見えなくても、書き方で人が分かります。直す前の値を先に書く。駄目だったことも、試した順に残す」
彼の指が小さな但し書きで止まった。
「これに何度も助けられました」
エステルは帳面の角を揃えた。
令嬢らしい字だと言われたことはある。仕事の記録を指して褒められたのは、初めてだった。
部屋は居住棟の日当たりのよい角にあった。
窓には日中眠るための厚い幕。棚には珈琲の缶が三つ。床の籠には、ノアがもう収まっていた。
クラウスは戸口で、新しい帳面を差し出した。
「あなたの席の日誌です。好きな書き方で書いてください」
自分の席。
エステルは白い表紙を指で撫でた。
「どうして、ここまで」
「三年分、ずっと会ってみたかったので」
礼を言う声が、思うように出なかった。
クラウスが去ったあと、エステルは帳面に自分の名を書いた。
◇
王都で初めに遅れたのは、王宮から騎士団への交代の知らせだった。
エステルの最後の夜勤から三日目。
トビアスが報告を持っていくと、ギルベルトは茶を置いて言った。
「たまたまだろう。石だって、機嫌の悪い日はある」
五日目には、商業ギルドの大旦那が玄関の扉を壁へぶつけた。
「うちが注文したのは、百袋だ!」
農場が受け取った紙には、小麦一万袋、とあった。北の農場は近隣へ使いを出して集めかけたという。
いずれ光網になれば解決する、と長官に言われても、大旦那は帰らなかった。
「いずれとはいつだ。その間の損は、誰が払う!」
トビアスは控えを取り、裏の倉庫へ行った。
ハンスに何日たったと聞かれ、五日だと答えた。引き継ぎ書をどこまで読んだか問われて、一頁目まで、と小さく言った。
仕事が増えて読む暇がなかった。それも本当だったが、知らないことを一人で確かめるのが怖かった。
「今、開け」
三頁目には、太い文字があった。
『この網は、毎晩の調律がないと、およそ三日で遅れはじめます』
トビアスは自分の受信記録を取り出した。
ちょうど三日だった。
それから二晩、彼は引き継ぎ書を読んだ。ハンスについて石の番号と値を確かめたが、輪を動かすところまでは進めなかった。七つの塔に積もったずれは、そのままだった。
試運転の前に網を止めて確かめたいと届け出たが、返事は来なかった。
七日目、王宮前の広場でフローラが光を放った。
金色の球が塔から塔へ渡る。第三塔に届いたとき、窓が青く光った。
受信用の石が一斉に鳴りはじめた。
『ギルベルト様へ。今夜も星がきれいですね。あなたの瞳のほうが、ずっときれいですけれど』
門の脇の騎士が、隣を見た。隣は動かなかった。
招待されていた帳場の老人は眼鏡を拭き、かけ直した。フローラの頬は赤く、ギルベルトの顔は青くなった。
トビアスは唇を噛んで、受信の時刻を書いた。
「一斉の知らせは、三十部写す決まりですが」
王宮の書記官が尋ねた。
ギルベルトが写さなくていいと叫ぶと、すでに取りかかっております、と返った。
夕方、騎士団長が連絡の支障と混線について正式な苦情を上げた。
ギルベルトは王宮に呼ばれ、夜になっても戻らなかった。
トビアスは一人で第三塔へ上った。
寒さで指が動きにくかった。十九頁の手順に従い、六本の連絡用の石を止める。留め金は二度落としたが、書いてあったとおり布を敷いていたので、すぐに拾えた。
一本の値を書く。半目盛り動かす。待つ。
まだ駄目だと思ったとき、音が細く澄んだ。
トビアスはもう一度触れた。
確かに違った。
階段で杖が鳴った。
予備の石の鍵を持ったハンスが、戸口へ入ってきた。
「わしは手を出さん。お前がやれ。ただ、見ててやる」
トビアスはうなずき、次の番号を書いた。
数字は震えていたが、読むことができた。ハンスに確かめてもらい、国境へ通じる一本をつなぎ直した。
◇
国境線の濁りが強まった夜、エステルはラウエン側の石を合わせ直した。
音を受け取る幅を少し狭くし、乱れがこちらへ広がらないようにする。狭めすぎると正常な文まで落ちるので、一本ずつ確かめながら動かした。
王都のどの石から直せばよいか、分かる。
手が覚えていた。第五塔へ向かう夜道の水たまりまで思い浮かんだ。
王都へ戻って直したい。けれど、ここを離れるつもりはなかった。
「わたしは、こちらの仕事をします」
隣のクラウスに言うと、彼は試験の文を送るための石を寄せてくれた。
山の向こうで一度、音が静まった。誰かが連絡用の石を止めたらしい。やがて一本だけ、澄んだ響きが戻ってきた。
その線を通って、私信が届いた。
『エステル、戻ってこい。今なら婚約を戻してやってもいい。 ギルベルト』
エステルは一度読み、少し離れて窓の方を向いているクラウスを見た。
返す文は、すぐに決まった。
『引き継ぎ書の三頁目に、全部書いてありますよ』
送って、手を離した。
返事を待たず、夜の確認へ戻った。
◇
通信局の長官室で、ギルベルトは引き出しを開けた。
招待状の束の下に、受け取ったままの冊子があった。
三頁目。
毎晩の調律。
およそ三日。
同じところを何度も読んだ。
机の上には、王宮からの新しい呼び出しが置かれていた。
◇
夜半を過ぎ、ラウエンの塔は静かになった。
エステルは、まだ手をつけていない台座を一つ外した。溝の奥へ刷毛を入れると、固まった埃が黒い塊になって落ちた。
拭いて戻し、石へ触れる。
響きが長く残った。
「今、何をしたんですか」
クラウスが覗き込んだ。
「溝を掃除しました。第五塔でも同じことがあったんです。あのときは、気づくまでひと月かかりました」
「二年ほど悩まされていた音です」
彼は石に触れ、余韻が消えるまで待った。
エステルは傍らで、外した部品を片づけた。今夜の値を残せば、明日の担当が比べられる。台座の向きも書いておこう。
「やはり、来てもらってよかった」
真っすぐに言われ、留め金を一つ取り落とした。
机の上だったので転がるだけで済んだ。拾おうとしたクラウスの指と自分の指が近づき、エステルは先に手を引っ込めた。
「珈琲を、淹れます」
返事を待たずに流しへ行った。
二杯分の豆を惜しまず淹れることに、まだ慣れない。
湯を注ぐあいだに耳の熱さが引くと思ったのに、振り返ると、クラウスが二人分の椅子を寄せていた。
「夜勤の方には珈琲を出す、と伺っていますので」
「今日は私がいただく番なんですね」
「院長のお約束ですから」
受け取る彼が笑った。
エステルも少し笑い、隣の椅子へ腰を下ろした。
ノアはもう、部屋から運んだ寝籠で眠っている。
窓の向こうは暗かった。明日確かめたい石も、読みたい日誌もたくさんある。今夜は、どこまで仕事をしたかを話せる相手が隣にいた。
エステルは日誌を開いた。
最後の欄へ、いつもの四文字を書く。
『異常なし』
今夜は、字が少し揺れていた。
(了)
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
夜のあいだに誰かが直しているから、朝になっても何事もなく動いている。そういう仕事を書いてみたくて、このお話になりました。
少しでも楽しんでいただけたら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆から評価をいただけるとうれしいです。感想も、一言からお待ちしています。




