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「地味な魔導具いじりに用はない」と婚約破棄されたので、王都の通信網の夜間保守をやめて隣国へ行きます

作者: 星守りんか
掲載日:2026/10/08

「地味な魔導具(まどうぐ)いじりしかできない女に、侯爵家(こうしゃくけ)の妻は務まらない」


 広間には、演奏が途切れたあとの静けさが残っていた。

 次の踊りを待っていた人々が振り向いた。給仕(きゅうじ)も足を止めたので、エステルは杯を自分で卓へ置いた。


「エステル・ハーゲン。今夜をもって、君との婚約を破棄する」


 彼の隣には、淡い金のドレスを着たフローラがいた。肩に灯した小さな光が、髪飾りの宝石を照らしている。

 エステルは灰色の裾(すそ)を確かめた。第二塔で引っかけた箇所は、馬車の中で縫ってある。点検が長引き、髪も星のピン一本で留めてきた。


「その格好を見れば分かる。君には侯爵家の妻としての自覚がない」

 扇の陰で、ささやきが続いた。


「また塔ですって」

「毎晩、夜中に出歩いて」


 扇の陰の声も、五年聞けば慣れてしまう。今は窓から入ってくる冷気の方が気にかかった。

 これだけ冷えるなら、第五塔の三番が下がる。


 ギルベルトがフローラの手を取り、客たちへ向き直った。


「彼女はこの国の未来を考えている。光網計画(こうもうけいかく)を、皆も聞いているだろう。鳴晶石(めいしょうせき)の調律(ちょうりつ)なんて面倒なものは、もういらなくなる」


 フローラの掌(てのひら)に、金色の文字が浮いた。

 『ごきげんよう』。

 文字は小さな花びらのように広間を渡り、向こうの壁に届いた。拍手が起きる。雨も風もない部屋の中で、光は一つも欠けなかった。


 霧の夜は、どうするのだろう。

 秋の王都では、川から上がる霧が低い塔を包んでしまう。散った光を次の塔で拾い直す方法があるなら、見てみたかった。


 仕様書は、あるのかしら。


 エステルは尋ねかけて、やめた。

 この場で質問しても、婚約を破棄された腹いせに聞こえるだけだ。自分は計画の相談を受けたことさえなかった。


「承知しました」


 エステルは裾をつまんだ。


「では、引き継ぎを済ませて、三日後に通信局の夜勤も辞めます」

「好きにするといい。あんなもの、誰にでもできる」


 五年間、と言いかけた。

 ここで認めてもらえても、今夜の塔に代わりの人が上ってくれるわけではない。


 頭を下げて、広間を出た。

 背中で楽団が次の曲を始めた。


 ◇


「第三塔へやってちょうだい」


 御者(ぎょしゃ)は少しためらってから、扉を閉めた。

 馬車の中で手袋を抜く。人差し指の付け根に、調律具の輪の跡が残っていた。


 十五歳のとき、父について通信局へ行った帰りに、塔の音を聞いた。

 石の棚に近づくにつれ、細い響きが重なったり離れたりした。指を伸ばすと、奥からハンスに叱られた。


「触るなよ」


 翌日も、その翌日も通った。三日目にようやく触らせてもらえた石は、思っていたより温かかった。

 半年かけて一基を任された。ハンスが膝(ひざ)を悪くして塔を退くと、受け持ちは七つになった。


 ギルベルトと婚約してからは、技師ではなく、長官の婚約者が手伝っているのだと言われた。

 給金はほとんど出なかった。仕事の報告には長官の名が載った。それでも鳴文(めいぶん)がきちんと届けばよいと思っていた。


 第三塔の窓は暗かった。

 エステルは鍵を開け、入り口の灯明に火を移した。階段を上っていくと、最上階で黒猫が待っていた。


「遅くなって、ごめんね」


 ノアは裾へ頭を押しつけ、先に部屋へ入った。

 エステルは棚の灯りをともした。四十八本の鳴晶石が、棚の上できらめいた。


 ◇


 三晩のうちに、七つの塔をいつもどおり回り、引き継ぎ書を書いた。

 最後の夜も、第五塔の三番から低い音が来た。


 エステルは第三塔の窓辺へ杯を置き、携帯灯を取った。

 珈琲(コーヒー)は隣国からの輸入品で高い。帰ってくるまでに冷めるのは惜しかったが、飲み終わるのを待つわけにもいかなかった。


「今夜で最後なの」


 ノアに言うと、猫は椅子の上へ飛び乗った。聞いていないのか、聞いても仕方がないと思っているのか。

 外は冷え、石畳が夜露に濡れていた。


 第五塔では、北の窓の隙間から風が入っていた。

 布を挟んで塞ぎ、三番の石へ指を添える。表面の澄んだ音の奥に、低いうなりがあった。

 輪を根元へはめ、半目盛り上げる。待ってもまだ低いので、あと四分の一動かした。

 音が揃った。


 同じ音に合わせた鳴晶石は、離れていても文字を送り合える。中継塔(ちゅうけいとう)を渡って届くその文字が、鳴文だ。

 寒さや湿り気で音がずれれば、文が遅れ、文字が欠ける。使う人が少ない夜に、揃え直す必要があった。


 帰り道、夜回りの衛兵が灯りを上げた。


「今夜もご苦労さん」

「ありがとうございます」


 今夜が最後だと言うと、彼はああ、と短く答えた。


「じゃあ、その灯りを見かけるのも最後か。暗い道が減った気がしてたんだがな」


 塔の仕事を説明したことはなかった。

 エステルは少しだけ立ち止まり、彼が路地へ消えるまで見送った。


 戻った第三塔で、冷えた珈琲を飲んだ。日誌へ数値と窓の布のことを書き、引き継ぎ書にも同じ箇所を加える。

 三十二頁(さんじゅうにページ)になった。


 最初は、灯りの場所から書いた。

 塔の鍵。石の番号。目盛りを読む向き。どこまで知っている人が受け取るか分からなかったので、二行目にはこう置いた。


『この引き継ぎ書は、読む人が何も知らないことを前提に書いています』


 石の癖も並べた。十七番は雨の前に高くなる。四十一番は満月の夜に音が下がる。

 満月で下がる理由は分からない。そう書いて、見回る回数を添えた。


 三頁目の中央には、もう一度インクを含ませて書いた。


『この網は、毎晩の調律がないと、およそ三日で遅れはじめます』


 乾いてから同じ文字をなぞった。

 原本と写しを照らし合わせる。予備の石は第三塔の地下、右から二番目の箱。鍵はハンスが持っている。十九頁には、違う相手へ届いたときの止め方。

 書き落としがないか、もう一巡確かめた。


 国境中継線(こっきょうちゅうけいせん)の石が光った。


『今夜は冷えますね。猫は元気ですか』


 ◇


 その人の名前を、エステルは知らなかった。

 三年前、秋の終わりに山を越す線が通じず、互いの値を確かめたのが始まりだった。


『そちらを一目盛り上げてもらえますか。真ん中で会いましょう』


 向こうからそう提案され、半信半疑で輪を回すと、二つの音が重なった。

 三晩悩んだことが嘘のようだと送ったら、『こちらは五晩です』と返ってきた。

 エステルは誰もいない塔で笑った。


 初めは数値だけだった。

 ひと月ほどして、冷えますね、と一言加わった。膝から猫が下りないと返して以来、毎晩のように猫の具合を聞かれるようになった。


 丁寧で、時々とぼけた返事が来る。その人も山の向こうで起きていると思うと、眠い夜にも最後の確認へ行けた。

 五年の夜勤の、後の三年にはそういう楽しみがあった。


 エステルはノアを膝へ抱き上げて返した。


『元気です。書き物の邪魔をされています』

『どかせないのですね』

『ええ。今夜は、特に』


 少し迷ってから、続けた。


『今夜で最後の夜勤です。三年間、ありがとうございました』


 返事まで、いつもより間があった。


『どちらかへ移られるのですか』


 婚約が解消され、通信局の手伝いも終えることになったと伝えた。

 誰にでもできる仕事だと言われたことまで、書いてしまった。

 それは余計だったと、送ってから思う。


 返事が途切れた。

 エステルは調律具をしまい、また出して拭(ふ)いた。こんな話をされても、向こうも困るだろう。

 もう一度礼だけ送ろうとしたとき、石が鳴った。


『誰にでもできる仕事だとは思いません。あの秋から三年、一度も国境線が乱れなかったのは、そちらで合わせ続けてくださったからです』


 布を持つ手が止まった。

 こちらが半目盛り動かせば、向こうで気づく人だった。調子の悪い夜に、届くまでどれだけ合わせ直したか、お互いに知っていた。

 だから、お世辞として受け流すことができなかった。


『では、うちに来ませんか。うちの網はつぎはぎだらけで、腕のいい技師が足りません』


 ラウエン魔導通信院(まどうつうしんいん)だと、次の文にあった。台座の図を取り寄せたことのある院だった。


『夜勤の方には珈琲を出します』

『珈琲で技師をお誘いになるんですか』

『足りませんか』


 笑ってしまった。

 足りないどころか、ずいぶん心が動いていた。


『猫も一緒にどうぞ』


 ノアの耳に触れると、ゆっくりこちらを向いた。

 隣国で働くことなど考えたこともなかった。父に何と言おう。

 それでも、断る理由は出てこなかった。


『お返事は、引き継ぎを終えてから』


 承知しました、と返ってきた。

 エステルは最後に各塔の響きを確かめ、日誌の末尾へ『異常なし』と書いた。

 インクが乾いても、すぐには閉じられなかった。


 ◇


 翌朝、ギルベルトは三十二頁をまとめてめくり、厚いな、と言った。

 机には光網の図面が広げられている。フローラが引き継ぎ書の表紙を見て、すぐに図へ目を戻した。


「止まったときの手順まで要るのか。網は一度も止まったことがないだろう」

「はい。止まらないように、毎晩調律していましたから」

「まあいい。あとで読む」


 引き出しが閉まった。


「三頁目だけでも、先にご確認ください」


 答えはなかった。

 エステルは退職の書面を机へ置き、受け取りの印をもらった。これで、局での立場も終わった。


 廊下にはトビアスがいた。

 見習いの彼だけが、夜の塔へ仕事を見に来ていた。いつも後ろで息を殺して立っていたから、振り向いて驚くことが何度もあった。


「これを、持っていて」


 写しを渡すと、彼は抱えていた書類を落としかけた。


「僕なんかで、いいんでしょうか」

「全部読めとは言わないわ。でも、三頁目だけは必ず読んで」

「はい。あの、石の音もまだ、よく分からなくて」

「だから、手順があるの。順番を飛ばさない人に持っていてほしいのよ」


 彼は表紙の端を押さえ、深く頭を下げた。

 エステルは、裏の倉庫へ向かった。


 ハンスは棚の台座に油を引いていた。

 ラウエンから誘われたと話すと、すぐにうなずいた。


「行ってこい。ここは、お前の腕を使い潰すだけだ」

「でも、トビアスさん一人では」

「あの坊主のことは、わしが見ておく」


 腰で鍵束が鳴った。予備の石の鍵だ。

 エステルがそれを見ると、ハンスは笑った。


「なくさんよ」

「右から二番目の箱です」

「しまったのは、わしだ」


 いつものやり取りになったので、ようやく礼が言えた。

 頭を下げていると、向こうでも書けよ、と声がした。


「直らんかった晩ほど、ちゃんと書くんだぞ」

「はい」


 家では父が待っていた。

 婚約を破棄されたことを詫びると、お前の謝ることではない、とすぐに返された。


「私があの縁談を断っていればよかった。侯爵家から声がかかったと、そればかりでな」


 父は冷めた茶の縁を見ていた。


「書斎から第三塔が見えるんだ。夜中に目が覚めると、灯りがついている。ああ、今夜も働いているのかと思っていた」


 エステルは顔を上げた。

 父は塔の仕事を娘の変わった趣味だと思っているのだと、ずっと考えていた。


「誰も褒めてくれない仕事を、お前は毎晩していたんだな」


 何と答えてよいか分からず、少しずつラウエンの話をした。

 父は院の名と道筋を尋ね、向こうで待ってくれる人がいると聞くと、ようやく茶を飲んだ。


「行きなさい。お前の仕事を、ちゃんと見てくれる所へ」


 その夜、屋敷の鳴晶石で『伺います』と送った。

 返事は待っていたかと思うほど早かった。


『お待ちしています。国境の関所に迎えを出します』


 正式な受け入れの文には、住まいと給金のことが書いてあった。父と確かめてから、荷造りをした。

 作業外套(さぎょうがいとう)と調律具。局の棚に残した原簿(げんぼ)とは別に、国境線の値を控えた私物の日誌が三冊。

 着替えを入れようとすると、鞄(かばん)の口から黒い耳が覗(のぞ)いた。


「第三塔にいたでしょう、あなた」


 ノアは畳んだ外套を踏み直し、腰を下ろした。

 エステルは鞄をもう一つ出した。


 ◇


 二日かけて峠を越えた。

 窓から見上げた国境中継塔は、思っていたより小さかった。あの塔を、三年分の短い言葉が通ったのだ。


 関所の迎えは、毛布を敷いた猫の籠(かご)まで用意していた。院長から、くれぐれも丁重(ていちょう)にと申しつかっているらしい。


 ラウエンブルクでは、珈琲がヴァルトリアの半分以下の値段で売られていた。袖に煤(すす)をつけた女性が二人、店先で飲んでいる。

 工具箱を持ったエステルを見ても、誰も珍しがらなかった。


 通信院の玄関で、副院長のマルタが待っていた。


「エステルさんね。待ってたわ、本当に待ってたの」


 背中を叩かれ、旅でこわばっていた体が前へ出た。

 マルタは籠を覗き、「ノアも、よく来たわね」と声をかけた。


「この子の名まで、ご存じなんですか」

「みんな知ってるわよ。山の向こうの夜勤さんと、その猫のこと」


「うちの網は五十年ものなの。継ぎ足しばかりで、前の主任が辞めてから、全部分かる者がいないのよ」

「日誌はありますか」

「山ほど。だから整理から頼みたいわ」


 最上階の扉が開いた。

 エステルはまず棚を見た。十二番の余韻(よいん)が短い。二十番は高い。古い石と新しい石の響きが、うまく重なっていない。


「はじめまして、と言うのも妙ですね」


 声がして、棚の前に青年がいることに気づいた。

 銀灰色の髪に、袖口の擦れた外套。思っていたより若い。彼は少し笑い、クラウスです、と名乗った。


「毎晩、猫は元気かと聞いていた者です」


 初めて聞く声なのに、その言い回しには覚えがあった。

 マルタが籠を開けると、ノアは青年の靴へ近づいた。差し出された指に、ためらいなく頬(ほお)をこする。


「思っていたより黒いな」


 しゃがむ動きまで、きれいだった。

 エステルが名乗ろうとしたところで、マルタが息をついた。


「院長――いえ、王弟殿下(おうていでんか)。ご身分くらい、先に名乗っておきなさいな」


 工具箱を落とさなかったのが不思議だった。

 エステルは床へ置き、旅の服のまま正式な礼をした。


「失礼をいたしました」

「顔を上げてください。黙っていたのはこちらです」


 王族に、猫が魚を盗んだ話をしていた。左右の違う手袋で出かけた話まで。思い出すほど、顔が上がらなかった。


「名乗ったら、来てくれなかったかもしれないので」


 クラウスの声は、少し申し訳なさそうだった。


「ここでは院長と技師です。間違っていたら、指摘してください」

「夜中に勝手に石をいじって、よく叱られるのよ」


 マルタが添えた。クラウスは反論しなかった。


 エステルは笑ってしまった。

 クラウスがこちらを見た。


「ようやく笑ってくれた」


 クラウスは国境線の日誌を持ってきた。

 開くと、エステルが送った値が三年分、一つずつ書き写されていた。春の増水の夜も、峠が凍った朝もある。


「こちらで直すときにも要りますから」


 当たり前のことのように言われ、エステルは持参した日誌を出した。

 クラウスは同じ日を並べて、うなずいた。


「やはり、あなたの字だ」

「鳴文では、筆跡は見えませんよね」

「字は見えなくても、書き方で人が分かります。直す前の値を先に書く。駄目だったことも、試した順に残す」


 彼の指が小さな但し書きで止まった。


「これに何度も助けられました」


 エステルは帳面の角を揃えた。

 令嬢(れいじょう)らしい字だと言われたことはある。仕事の記録を指して褒められたのは、初めてだった。


 部屋は居住棟の日当たりのよい角にあった。

 窓には日中眠るための厚い幕。棚には珈琲の缶が三つ。床の籠には、ノアがもう収まっていた。

 クラウスは戸口で、新しい帳面を差し出した。


「あなたの席の日誌です。好きな書き方で書いてください」


 自分の席。

 エステルは白い表紙を指で撫(な)でた。


「どうして、ここまで」

「三年分、ずっと会ってみたかったので」


 礼を言う声が、思うように出なかった。

 クラウスが去ったあと、エステルは帳面に自分の名を書いた。


 ◇


 王都で初めに遅れたのは、王宮から騎士団への交代の知らせだった。

 エステルの最後の夜勤から三日目。

 トビアスが報告を持っていくと、ギルベルトは茶を置いて言った。


「たまたまだろう。石だって、機嫌の悪い日はある」


 五日目には、商業ギルドの大旦那(おおだんな)が玄関の扉を壁へぶつけた。


「うちが注文したのは、百袋だ!」


 農場が受け取った紙には、小麦一万袋、とあった。北の農場は近隣へ使いを出して集めかけたという。

 いずれ光網になれば解決する、と長官に言われても、大旦那は帰らなかった。


「いずれとはいつだ。その間の損は、誰が払う!」


 トビアスは控えを取り、裏の倉庫へ行った。

 ハンスに何日たったと聞かれ、五日だと答えた。引き継ぎ書をどこまで読んだか問われて、一頁目まで、と小さく言った。

 仕事が増えて読む暇がなかった。それも本当だったが、知らないことを一人で確かめるのが怖かった。


「今、開け」


 三頁目には、太い文字があった。


『この網は、毎晩の調律がないと、およそ三日で遅れはじめます』


 トビアスは自分の受信記録を取り出した。

 ちょうど三日だった。


 それから二晩、彼は引き継ぎ書を読んだ。ハンスについて石の番号と値を確かめたが、輪を動かすところまでは進めなかった。七つの塔に積もったずれは、そのままだった。

 試運転の前に網を止めて確かめたいと届け出たが、返事は来なかった。


 七日目、王宮前の広場でフローラが光を放った。

 金色の球が塔から塔へ渡る。第三塔に届いたとき、窓が青く光った。

 受信用の石が一斉に鳴りはじめた。


『ギルベルト様へ。今夜も星がきれいですね。あなたの瞳のほうが、ずっときれいですけれど』


 門の脇の騎士が、隣を見た。隣は動かなかった。

 招待されていた帳場の老人は眼鏡を拭き、かけ直した。フローラの頬は赤く、ギルベルトの顔は青くなった。

 トビアスは唇を噛んで、受信の時刻を書いた。


「一斉の知らせは、三十部写す決まりですが」


 王宮の書記官が尋ねた。

 ギルベルトが写さなくていいと叫ぶと、すでに取りかかっております、と返った。


 夕方、騎士団長が連絡の支障と混線について正式な苦情を上げた。

 ギルベルトは王宮に呼ばれ、夜になっても戻らなかった。


 トビアスは一人で第三塔へ上った。

 寒さで指が動きにくかった。十九頁の手順に従い、六本の連絡用の石を止める。留め金は二度落としたが、書いてあったとおり布を敷いていたので、すぐに拾えた。

 一本の値を書く。半目盛り動かす。待つ。

 まだ駄目だと思ったとき、音が細く澄んだ。


 トビアスはもう一度触れた。

 確かに違った。


 階段で杖が鳴った。

 予備の石の鍵を持ったハンスが、戸口へ入ってきた。


「わしは手を出さん。お前がやれ。ただ、見ててやる」


 トビアスはうなずき、次の番号を書いた。

 数字は震えていたが、読むことができた。ハンスに確かめてもらい、国境へ通じる一本をつなぎ直した。


 ◇


 国境線の濁りが強まった夜、エステルはラウエン側の石を合わせ直した。

 音を受け取る幅を少し狭くし、乱れがこちらへ広がらないようにする。狭めすぎると正常な文まで落ちるので、一本ずつ確かめながら動かした。


 王都のどの石から直せばよいか、分かる。

 手が覚えていた。第五塔へ向かう夜道の水たまりまで思い浮かんだ。

 王都へ戻って直したい。けれど、ここを離れるつもりはなかった。


「わたしは、こちらの仕事をします」


 隣のクラウスに言うと、彼は試験の文を送るための石を寄せてくれた。

 山の向こうで一度、音が静まった。誰かが連絡用の石を止めたらしい。やがて一本だけ、澄んだ響きが戻ってきた。


 その線を通って、私信が届いた。


『エステル、戻ってこい。今なら婚約を戻してやってもいい。 ギルベルト』


 エステルは一度読み、少し離れて窓の方を向いているクラウスを見た。

 返す文は、すぐに決まった。


『引き継ぎ書の三頁目に、全部書いてありますよ』


 送って、手を離した。

 返事を待たず、夜の確認へ戻った。


 ◇


 通信局の長官室で、ギルベルトは引き出しを開けた。

 招待状の束の下に、受け取ったままの冊子があった。


 三頁目。

 毎晩の調律。

 およそ三日。


 同じところを何度も読んだ。

 机の上には、王宮からの新しい呼び出しが置かれていた。


 ◇


 夜半を過ぎ、ラウエンの塔は静かになった。

 エステルは、まだ手をつけていない台座を一つ外した。溝の奥へ刷毛(はけ)を入れると、固まった埃(ほこり)が黒い塊になって落ちた。

 拭いて戻し、石へ触れる。

 響きが長く残った。


「今、何をしたんですか」


 クラウスが覗き込んだ。


「溝を掃除しました。第五塔でも同じことがあったんです。あのときは、気づくまでひと月かかりました」

「二年ほど悩まされていた音です」


 彼は石に触れ、余韻が消えるまで待った。

 エステルは傍(かたわ)らで、外した部品を片づけた。今夜の値を残せば、明日の担当が比べられる。台座の向きも書いておこう。


「やはり、来てもらってよかった」


 真っすぐに言われ、留め金を一つ取り落とした。

 机の上だったので転がるだけで済んだ。拾おうとしたクラウスの指と自分の指が近づき、エステルは先に手を引っ込めた。


「珈琲を、淹(い)れます」


 返事を待たずに流しへ行った。

 二杯分の豆を惜しまず淹れることに、まだ慣れない。

 湯を注ぐあいだに耳の熱さが引くと思ったのに、振り返ると、クラウスが二人分の椅子を寄せていた。


「夜勤の方には珈琲を出す、と伺っていますので」

「今日は私がいただく番なんですね」

「院長のお約束ですから」


 受け取る彼が笑った。

 エステルも少し笑い、隣の椅子へ腰を下ろした。


 ノアはもう、部屋から運んだ寝籠で眠っている。

 窓の向こうは暗かった。明日確かめたい石も、読みたい日誌もたくさんある。今夜は、どこまで仕事をしたかを話せる相手が隣にいた。


 エステルは日誌を開いた。

 最後の欄へ、いつもの四文字を書く。


『異常なし』


 今夜は、字が少し揺れていた。


(了)



最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


夜のあいだに誰かが直しているから、朝になっても何事もなく動いている。そういう仕事を書いてみたくて、このお話になりました。


少しでも楽しんでいただけたら、ブックマークや下の☆☆☆☆☆から評価をいただけるとうれしいです。感想も、一言からお待ちしています。

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