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捨てられた水車番の令嬢ですが、忘れられた子守歌で国宝級の精霊を目覚めさせてしまいましたわ 〜無能と嘲笑った婚約者様、その水車小屋が国の心臓だったと知って泣き喚いても、もう遅くってよ?〜

作者: uta
掲載日:2026/08/21

「フィオナ、貴様との婚約は破棄する」


王太子ジェラルドの声が、社交界の華やかな大広間に響き渡った。


シャンデリアの光の下、彼は義妹セレーヌを腕に抱き、勝ち誇った笑みを浮かべている。


「魔力測定も最下位。社交もできず、あんな廃れた水車小屋にばかり籠もる女など、王太子妃にふさわしくない!」


扇の陰で、くすくすと嗤う令嬢たち。継母の冷たい視線。


わたくし――フィオナ・レイエンドは、その中央でひとり立っていた。


(あら。ずいぶんと大勢の前で、恥をかかせたいのね。……本当に、心の底から浅い子)


心の中で、そっと息をつく。


前世の記憶――現代日本で文化財修復技師として過労死同然に倒れた『藤野かなえ』の記憶を持つわたくしにとって、この程度の理不尽は、正直、慣れっこだった。


古いものは、いつだって誰かに軽んじられる。


「フィオナお姉さま」


セレーヌが、可憐に小首をかしげた。聖女の仮面を貼りつけた顔で。


「お姉さまには、泥だらけの水車小屋がお似合いですわ。わたくし、お姉さまが幸せになれる場所へ行かれること、心から祈っておりますの」


(――本当に、心の底から浅い子)


わたくしは、静かに一礼した。


喚かない。泣かない。取り乱さない。


それが、彼らにとって一番の誤算になることを、まだ誰も知らない。


「かしこまりました」


淡々と、令嬢らしく。


「では、わたくしが管理しておりました『第七水車小屋』の管理権も、そちらへお返しいたしますわね」


一瞬、広間が静まった。


そして、ジェラルドが吹き出す。


「はっ! あんな朽ちた小屋、こちらから願い下げだ! 好きに持っていくがいい!」


笑い声が、さざ波のように広がった。


わたくしは、もう一度深く頭を下げる。


(あら。本当に、いいのね? あれが――建国の始祖が最初に建てた『始原の水車』だと、この国で誰ひとり知らないなんて)


この国の魔力は、水車が回している。


そして、その全ての『本流』を――十年間、たったひとりで手入れしてきたのが、この『無能な水車小屋オタク』だということも。


どうぞ、存分にお笑いになって。


その笑いが、どんな悲鳴に変わるのか。


もう、そう遠くない話ですもの。



屋敷を追われるわたくしに、荷物などほとんどなかった。


宝石も、ドレスも、継母とセレーヌがとうに奪い尽くしている。


門の前で待っていたのは、ただひとり。


「お嬢様」


侍女のマレナだった。旅装を整え、迷いのない目でわたくしを見ている。


「どこへなりとお供いたします」


「マレナ……あなたまで、家を失うことになるのよ」


「あなた様が積み上げてこられたものを、私はこの目で見てまいりました」


彼女は、深く頭を下げた。


「泥だらけで帰るお嬢様のために、湯を用意し続けたのは、この私でございます。あの水車小屋が、あなた様にとって何なのか――言葉にせずとも、わかっておりますとも」


胸の奥が、じんと熱くなる。


(そう。あなただけは、ずっと)


「ありがとう、マレナ。……もう、我慢しなくていいのね」


わたくしは、辺境へ続く道を歩き出した。空は不思議なほど晴れていて。


背中に貼りついていた重たいものが、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。


婚約者への義理。伯爵令嬢としての体裁。無能と嗤われても耐えてきた、あの十年。


風が、銀灰色の髪を撫でていく。水仕事で荒れた手を、わたくしは陽にかざした。


この手が、朽ちた木組みを直してきた。この手が、泥をさらい、水路を蘇らせてきた。


地味で、報われなくて、誰にも知られない仕事。


前世で愛した、あの廃村の民家たちと同じ。


「今日から、わたくしはわたくしのために生きますわ」


声に出すと、涙がひとつ、こぼれた。


悲しみではなく――解放の涙だった。



その頃、王都では。


大聖女候補セレーヌが、輝かしい制度を発表していた。


「これより、国中の水車の魔力を、わたくしが一括管理いたしますわ! 古びて非効率な水車は、順次停止。魔力は全て、この王都へ集約!」


拍手喝采。


ジェラルドは満足げに頷いた。


「さすがはセレーヌだ。フィオナのような時代遅れの女とは、格が違う」


――だが。


彼らは、何も理解していなかった。


水車の律動が、なぜ土地ごとに異なるのか。


なぜ、古い水車ほど、繊細な調律を必要とするのか。


そして、その全ての『本流』を――誰が、支えていたのか。


最初の異変は、辺境から始まった。


古い水車が止められた領地から順に、土地が乾いていく。作物が枯れ、井戸が濁り。


そして――魔物除けの結界が、薄れていく。


「ま、魔物だ! 魔物が溢れてくるぞ――!」


辺境の村々から、悲鳴が上がり始めた。


セレーヌは、王都の宮殿で首をかしげるばかり。


「おかしいですわね……計算では、もっと効率が上がるはずでしたのに」


彼女は知らない。


国全体の魔力の均衡を保っていたのが、王都の壮麗な水車でも、大聖女の力でもなく――辺境の朽ちた小屋で、毎日泥をさらっていた、たったひとりの令嬢だったことを。


フィオナがいなくなった瞬間、糸が切れるように、この国は崩れ始めていた。


誰も、まだ気づかない。


読者である、あなただけが知っている。



辺境レイエンドの地は、変わり果てていた。


ひび割れた大地。枯れた麦畑。怯えて家に閉じこもる村人たち。


わたくしは、迷わず水車小屋へ向かった。


止まった水車。溜まった泥。だが――ここだけは、まだ死んでいない。


「大丈夫。すぐに直してあげますからね」


袖をまくり、泥に膝をつく。水路の石を、一つずつ積み直していく。


地道で、終わりの見えない作業。


そのとき、ふと視線を感じた。


遠くの丘の上。


黒い竜革の外套をまとった、長身の男が、大きな竜と共に佇んでいた。


黒髪に、古傷の残る精悍な横顔。氷のように無表情。


(あれは……竜騎士団長オルウェン・ヴァルド様。『氷の団長』と噂される、あの)


王家に疎まれ、この辺境へ左遷されたと聞いている。冷酷なる竜殺し、と。


だが、彼は何も言わなかった。


ただ、じっと。わたくしが石を積むのを、見守っていた。


翌日も。その翌日も。


そして、ある朝。


わたくしが崩れかけた水路に手こずっていると――いつの間にか、丘を降りてきた彼が、無言で隣にしゃがみ込んでいた。


大きな手で、重い石を、そっと正しい位置へ据える。


「……あの」


「……邪魔なら、言え」


短く、朴訥に。それだけ。


でも、彼の手つきは驚くほど丁寧で、水路の傾きを――まるで理解しているかのようだった。


(この方……水車の仕組みを、知っている?)


「オルウェン様は、なぜ、こんなことを」


彼は、しばし黙った。


そして、遠くで軋む水車の音に、ふと目を細めた。


「……この音が」


かすれた声。


「昔、母が。水車小屋のそばで、歌ってくれた。その音に、似ている」


それきり、彼はまた口を閉ざした。


冷酷と噂された男の横顔に、消えない寂しさが滲んでいて。


わたくしは、なぜだか――この人となら、と思った。


枯れゆく辺境で、言葉より先に石を積む、この不器用な人となら。



満月の夜。


わたくしは、ついに準備を終えた。


前世で採譜した廃村の民謡。この世界の、失われた古文書の断片。


二つを何年もかけて照合し、復元した――精霊を目覚めさせる、古語の子守歌。


「フィオナ様」


マレナが、静かに見守っている。オルウェンも、竜と共に小屋の外に佇んでいた。


わたくしは、朽ちかけた水車の前に立ち、そっと目を閉じた。


(藤野かなえとして、たくさんの忘れられたものを見送ってきた。だけど今度は――甦らせるの)


息を吸う。


そして、歌った。


前世と今生、二つの記憶が重なる、優しい旋律を。


――きしり。


止まっていた水車が、軋んだ。


――きしり、きしり。


ゆっくりと、百年ぶりに、回り始める。


水路に、光が満ちていく。青白い魔力の奔流が、大地の隅々へと駆け抜けていく。


そして、水面から。


光の少女が、姿を現した。


水色の髪。水しぶきのように揺らめく衣。七、八歳ほどの、幼い精霊。


大きな瞳に、涙をいっぱいに溜めて、彼女はわたくしを見上げた。


「……やっと」


震える、小さな声。


「やっと、来てくれた。ずっと、ずっと待ってたの。この歌を歌ってくれる人を――百年も」


彼女は、ぱしゃりと水を跳ねさせて、わたくしの胸に飛び込んできた。


「わたし、ミルナ。ずっと、ひとりぼっちだったの。寂しかったの。抱っこして。ねえ、抱っこして!」


わたくしは、その小さな体を、そっと抱きしめた。


「ええ。もう、ひとりじゃないわ。ミルナ」


背後で、微かな嗚咽が聞こえた。


振り返ると――オルウェンが。


『氷の団長』と呼ばれた男が、頬を伝う涙を、隠そうともせず立っていた。


「その歌を……」


彼は、震える声で言った。


「その歌を、これからも……隣で、聞かせてほしい」


満月の光の中、回り始めた水車が、優しい子守歌のように軋んでいた。



始原の水車が甦った瞬間、国の魔力循環の『本流』が復活した。


枯れた辺境に、水が戻る。魔力が満ちる。魔物が退いていく。


そして、王都では――セレーヌの偽りの管理制度が、音を立てて崩壊していた。


「なぜ……なぜですの!? わたくしの計算では――!」


制御を失った魔力が暴走し、王都の水車が次々と焼き切れる。魔物の氾濫は、止まらない。


そんな中、辺境へ――ひと組の馬車が、砂埃を上げて駆け込んできた。


「フィオナ! フィオナはどこだ!」


転げ落ちるように現れたのは、ジェラルドだった。


華やかだった衣は乱れ、顔は青ざめ、あの傲慢さは影も形もない。


その後ろから、セレーヌも縋りついてくる。


「お姉さま! お願いですわ、助けて――!」


わたくしは、水車小屋の前で、静かに彼らを見下ろした。


肩には、甘えん坊の精霊ミルナ。隣には、寡黙な竜騎士オルウェン。


「フィオナ! 頼む、戻ってきてくれ! 君しか、水車を――」


わたくしは、ゆっくりと小首をかしげた。


かつて、あの大広間で、彼らがわたくしにしたように。


「あら」


淡々と。令嬢らしく。


「無能な水車小屋オタクに、何の御用ですの?」


ジェラルドの顔が、凍りついた。


「そ、それは……あの時は、その」


「あんな朽ちた小屋、こちらから願い下げ――でしたわよね?」


わたくしは、微笑んだ。氷のように、静かに。


「ご安心くださいませ。願い下げていただいた小屋は、わたくしが大切に、お預かりしておりますわ。もう、あなた方のものではございませんの」


そのとき――ミルナが、わたくしの肩から、ふわりと宙に浮いた。


幼い姿に、建国精霊としての、厳かな威光をまとって。


「――裁定を、下します」


少女の声が、大気を震わせた。


「始原の水車が回った。ゆえに、建国の古の契約により。国家魔法の中枢権限を、真の調律者フィオナ・レイエンドへ、これより移譲する」


王家の紋章が、宙で砕け散った。


「そして、セレーヌ・レイエンド。あなたの『大聖女』の力は――精霊の名を騙った、僭称にすぎない」


「そ、そんな……!」


セレーヌの体から、まがい物の聖女の輝きが、剥がれ落ちていく。


「辺境を枯らし、民を魔物の脅威に晒した罪。その責は、あなた方が負いなさい」


ジェラルドが、地に崩れ落ちた。


「王位継承権が……消えて……そんな、そんな馬鹿な――!」


泣き喚く二人を、わたくしは静かに見つめた。


(わたくしは、何もしていない。ただ、忘れられたものを、大切にしてきただけ。断罪を下したのは、わたくしではなく――彼ら自身が切り捨てた、『古きもの』そのもの)


「ようやく」


背後で、マレナが涙を拭った。


「ようやく、世界が、お嬢様に追いつきましたね」



季節が、巡った。


辺境レイエンドの地は、かつての豊かさを取り戻していた。


黄金の麦畑。澄んだ水路。そして、休みなく回り続ける、始原の水車。


わたくしは今、この国の『水車聖女』と呼ばれている。


無能と嗤われた令嬢が、実は国の心臓を回していた――その真相は、マレナの語りによって、村から村へと伝わっていった。


「フィオナー! 見て見て、こっちの水路、ぜんぶ綺麗になったよ!」


ミルナが、水しぶきを跳ねさせて笑う。相変わらずの甘えん坊で、寂しがり屋で。


でも、この子がいてくれるから、旅の道は、いつも賑やかだ。


そう。旅。


わたくしは、決めていた。


この国には、まだたくさんの――忘れられた水車が眠っている。


止まったまま、誰にも顧みられず、廃屋と呼ばれている、かつての誇り高き技術たちが。


前世で見送るしかなかった、あの廃村の家々のように。


「今度は、一つ残らず、甦らせてあげるの」


荷馬車の支度を整えながら、わたくしは呟いた。


「準備は、いいか」


低い声。


振り返れば、オルウェンが、相棒の竜と共に立っていた。


護衛として――いえ、それだけではない。


あの満月の夜以来、彼はわたくしの隣を、離れなかった。


「無理は、するな。……お前の歌が、聞けなくなるのは、困る」


不器用に、目をそらしながら。それでも、確かに。


わたくしは、くすりと笑った。


「ふふ。ええ。これからも、隣で聞いていてくださいませね」


彼の頬が、わずかに赤らむ。氷の団長も、形無しだ。


荷馬車が、ゆっくりと動き出す。


肩にはミルナ。隣にはオルウェン。そして、証言者のマレナが微笑んで見送る。


遠い地平線の向こうに、次の廃村が――次の、眠れる水車が待っている。


わたくしは、風に髪をなびかせて、前を見据えた。


荒れた手が、誇らしい。地味な仕事が、愛おしい。


忘れられたものの価値を、誰よりも知る者として。


「さて」


わたくしは、そっと微笑んだ。


「次に眠っているのは――どの子守歌かしら?」

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