捨てられた水車番の令嬢ですが、忘れられた子守歌で国宝級の精霊を目覚めさせてしまいましたわ 〜無能と嘲笑った婚約者様、その水車小屋が国の心臓だったと知って泣き喚いても、もう遅くってよ?〜
「フィオナ、貴様との婚約は破棄する」
王太子ジェラルドの声が、社交界の華やかな大広間に響き渡った。
シャンデリアの光の下、彼は義妹セレーヌを腕に抱き、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「魔力測定も最下位。社交もできず、あんな廃れた水車小屋にばかり籠もる女など、王太子妃にふさわしくない!」
扇の陰で、くすくすと嗤う令嬢たち。継母の冷たい視線。
わたくし――フィオナ・レイエンドは、その中央でひとり立っていた。
(あら。ずいぶんと大勢の前で、恥をかかせたいのね。……本当に、心の底から浅い子)
心の中で、そっと息をつく。
前世の記憶――現代日本で文化財修復技師として過労死同然に倒れた『藤野かなえ』の記憶を持つわたくしにとって、この程度の理不尽は、正直、慣れっこだった。
古いものは、いつだって誰かに軽んじられる。
「フィオナお姉さま」
セレーヌが、可憐に小首をかしげた。聖女の仮面を貼りつけた顔で。
「お姉さまには、泥だらけの水車小屋がお似合いですわ。わたくし、お姉さまが幸せになれる場所へ行かれること、心から祈っておりますの」
(――本当に、心の底から浅い子)
わたくしは、静かに一礼した。
喚かない。泣かない。取り乱さない。
それが、彼らにとって一番の誤算になることを、まだ誰も知らない。
「かしこまりました」
淡々と、令嬢らしく。
「では、わたくしが管理しておりました『第七水車小屋』の管理権も、そちらへお返しいたしますわね」
一瞬、広間が静まった。
そして、ジェラルドが吹き出す。
「はっ! あんな朽ちた小屋、こちらから願い下げだ! 好きに持っていくがいい!」
笑い声が、さざ波のように広がった。
わたくしは、もう一度深く頭を下げる。
(あら。本当に、いいのね? あれが――建国の始祖が最初に建てた『始原の水車』だと、この国で誰ひとり知らないなんて)
この国の魔力は、水車が回している。
そして、その全ての『本流』を――十年間、たったひとりで手入れしてきたのが、この『無能な水車小屋オタク』だということも。
どうぞ、存分にお笑いになって。
その笑いが、どんな悲鳴に変わるのか。
もう、そう遠くない話ですもの。
◇
屋敷を追われるわたくしに、荷物などほとんどなかった。
宝石も、ドレスも、継母とセレーヌがとうに奪い尽くしている。
門の前で待っていたのは、ただひとり。
「お嬢様」
侍女のマレナだった。旅装を整え、迷いのない目でわたくしを見ている。
「どこへなりとお供いたします」
「マレナ……あなたまで、家を失うことになるのよ」
「あなた様が積み上げてこられたものを、私はこの目で見てまいりました」
彼女は、深く頭を下げた。
「泥だらけで帰るお嬢様のために、湯を用意し続けたのは、この私でございます。あの水車小屋が、あなた様にとって何なのか――言葉にせずとも、わかっておりますとも」
胸の奥が、じんと熱くなる。
(そう。あなただけは、ずっと)
「ありがとう、マレナ。……もう、我慢しなくていいのね」
わたくしは、辺境へ続く道を歩き出した。空は不思議なほど晴れていて。
背中に貼りついていた重たいものが、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。
婚約者への義理。伯爵令嬢としての体裁。無能と嗤われても耐えてきた、あの十年。
風が、銀灰色の髪を撫でていく。水仕事で荒れた手を、わたくしは陽にかざした。
この手が、朽ちた木組みを直してきた。この手が、泥をさらい、水路を蘇らせてきた。
地味で、報われなくて、誰にも知られない仕事。
前世で愛した、あの廃村の民家たちと同じ。
「今日から、わたくしはわたくしのために生きますわ」
声に出すと、涙がひとつ、こぼれた。
悲しみではなく――解放の涙だった。
◇
その頃、王都では。
大聖女候補セレーヌが、輝かしい制度を発表していた。
「これより、国中の水車の魔力を、わたくしが一括管理いたしますわ! 古びて非効率な水車は、順次停止。魔力は全て、この王都へ集約!」
拍手喝采。
ジェラルドは満足げに頷いた。
「さすがはセレーヌだ。フィオナのような時代遅れの女とは、格が違う」
――だが。
彼らは、何も理解していなかった。
水車の律動が、なぜ土地ごとに異なるのか。
なぜ、古い水車ほど、繊細な調律を必要とするのか。
そして、その全ての『本流』を――誰が、支えていたのか。
最初の異変は、辺境から始まった。
古い水車が止められた領地から順に、土地が乾いていく。作物が枯れ、井戸が濁り。
そして――魔物除けの結界が、薄れていく。
「ま、魔物だ! 魔物が溢れてくるぞ――!」
辺境の村々から、悲鳴が上がり始めた。
セレーヌは、王都の宮殿で首をかしげるばかり。
「おかしいですわね……計算では、もっと効率が上がるはずでしたのに」
彼女は知らない。
国全体の魔力の均衡を保っていたのが、王都の壮麗な水車でも、大聖女の力でもなく――辺境の朽ちた小屋で、毎日泥をさらっていた、たったひとりの令嬢だったことを。
フィオナがいなくなった瞬間、糸が切れるように、この国は崩れ始めていた。
誰も、まだ気づかない。
読者である、あなただけが知っている。
◇
辺境レイエンドの地は、変わり果てていた。
ひび割れた大地。枯れた麦畑。怯えて家に閉じこもる村人たち。
わたくしは、迷わず水車小屋へ向かった。
止まった水車。溜まった泥。だが――ここだけは、まだ死んでいない。
「大丈夫。すぐに直してあげますからね」
袖をまくり、泥に膝をつく。水路の石を、一つずつ積み直していく。
地道で、終わりの見えない作業。
そのとき、ふと視線を感じた。
遠くの丘の上。
黒い竜革の外套をまとった、長身の男が、大きな竜と共に佇んでいた。
黒髪に、古傷の残る精悍な横顔。氷のように無表情。
(あれは……竜騎士団長オルウェン・ヴァルド様。『氷の団長』と噂される、あの)
王家に疎まれ、この辺境へ左遷されたと聞いている。冷酷なる竜殺し、と。
だが、彼は何も言わなかった。
ただ、じっと。わたくしが石を積むのを、見守っていた。
翌日も。その翌日も。
そして、ある朝。
わたくしが崩れかけた水路に手こずっていると――いつの間にか、丘を降りてきた彼が、無言で隣にしゃがみ込んでいた。
大きな手で、重い石を、そっと正しい位置へ据える。
「……あの」
「……邪魔なら、言え」
短く、朴訥に。それだけ。
でも、彼の手つきは驚くほど丁寧で、水路の傾きを――まるで理解しているかのようだった。
(この方……水車の仕組みを、知っている?)
「オルウェン様は、なぜ、こんなことを」
彼は、しばし黙った。
そして、遠くで軋む水車の音に、ふと目を細めた。
「……この音が」
かすれた声。
「昔、母が。水車小屋のそばで、歌ってくれた。その音に、似ている」
それきり、彼はまた口を閉ざした。
冷酷と噂された男の横顔に、消えない寂しさが滲んでいて。
わたくしは、なぜだか――この人となら、と思った。
枯れゆく辺境で、言葉より先に石を積む、この不器用な人となら。
◇
満月の夜。
わたくしは、ついに準備を終えた。
前世で採譜した廃村の民謡。この世界の、失われた古文書の断片。
二つを何年もかけて照合し、復元した――精霊を目覚めさせる、古語の子守歌。
「フィオナ様」
マレナが、静かに見守っている。オルウェンも、竜と共に小屋の外に佇んでいた。
わたくしは、朽ちかけた水車の前に立ち、そっと目を閉じた。
(藤野かなえとして、たくさんの忘れられたものを見送ってきた。だけど今度は――甦らせるの)
息を吸う。
そして、歌った。
前世と今生、二つの記憶が重なる、優しい旋律を。
――きしり。
止まっていた水車が、軋んだ。
――きしり、きしり。
ゆっくりと、百年ぶりに、回り始める。
水路に、光が満ちていく。青白い魔力の奔流が、大地の隅々へと駆け抜けていく。
そして、水面から。
光の少女が、姿を現した。
水色の髪。水しぶきのように揺らめく衣。七、八歳ほどの、幼い精霊。
大きな瞳に、涙をいっぱいに溜めて、彼女はわたくしを見上げた。
「……やっと」
震える、小さな声。
「やっと、来てくれた。ずっと、ずっと待ってたの。この歌を歌ってくれる人を――百年も」
彼女は、ぱしゃりと水を跳ねさせて、わたくしの胸に飛び込んできた。
「わたし、ミルナ。ずっと、ひとりぼっちだったの。寂しかったの。抱っこして。ねえ、抱っこして!」
わたくしは、その小さな体を、そっと抱きしめた。
「ええ。もう、ひとりじゃないわ。ミルナ」
背後で、微かな嗚咽が聞こえた。
振り返ると――オルウェンが。
『氷の団長』と呼ばれた男が、頬を伝う涙を、隠そうともせず立っていた。
「その歌を……」
彼は、震える声で言った。
「その歌を、これからも……隣で、聞かせてほしい」
満月の光の中、回り始めた水車が、優しい子守歌のように軋んでいた。
◇
始原の水車が甦った瞬間、国の魔力循環の『本流』が復活した。
枯れた辺境に、水が戻る。魔力が満ちる。魔物が退いていく。
そして、王都では――セレーヌの偽りの管理制度が、音を立てて崩壊していた。
「なぜ……なぜですの!? わたくしの計算では――!」
制御を失った魔力が暴走し、王都の水車が次々と焼き切れる。魔物の氾濫は、止まらない。
そんな中、辺境へ――ひと組の馬車が、砂埃を上げて駆け込んできた。
「フィオナ! フィオナはどこだ!」
転げ落ちるように現れたのは、ジェラルドだった。
華やかだった衣は乱れ、顔は青ざめ、あの傲慢さは影も形もない。
その後ろから、セレーヌも縋りついてくる。
「お姉さま! お願いですわ、助けて――!」
わたくしは、水車小屋の前で、静かに彼らを見下ろした。
肩には、甘えん坊の精霊ミルナ。隣には、寡黙な竜騎士オルウェン。
「フィオナ! 頼む、戻ってきてくれ! 君しか、水車を――」
わたくしは、ゆっくりと小首をかしげた。
かつて、あの大広間で、彼らがわたくしにしたように。
「あら」
淡々と。令嬢らしく。
「無能な水車小屋オタクに、何の御用ですの?」
ジェラルドの顔が、凍りついた。
「そ、それは……あの時は、その」
「あんな朽ちた小屋、こちらから願い下げ――でしたわよね?」
わたくしは、微笑んだ。氷のように、静かに。
「ご安心くださいませ。願い下げていただいた小屋は、わたくしが大切に、お預かりしておりますわ。もう、あなた方のものではございませんの」
そのとき――ミルナが、わたくしの肩から、ふわりと宙に浮いた。
幼い姿に、建国精霊としての、厳かな威光をまとって。
「――裁定を、下します」
少女の声が、大気を震わせた。
「始原の水車が回った。ゆえに、建国の古の契約により。国家魔法の中枢権限を、真の調律者フィオナ・レイエンドへ、これより移譲する」
王家の紋章が、宙で砕け散った。
「そして、セレーヌ・レイエンド。あなたの『大聖女』の力は――精霊の名を騙った、僭称にすぎない」
「そ、そんな……!」
セレーヌの体から、まがい物の聖女の輝きが、剥がれ落ちていく。
「辺境を枯らし、民を魔物の脅威に晒した罪。その責は、あなた方が負いなさい」
ジェラルドが、地に崩れ落ちた。
「王位継承権が……消えて……そんな、そんな馬鹿な――!」
泣き喚く二人を、わたくしは静かに見つめた。
(わたくしは、何もしていない。ただ、忘れられたものを、大切にしてきただけ。断罪を下したのは、わたくしではなく――彼ら自身が切り捨てた、『古きもの』そのもの)
「ようやく」
背後で、マレナが涙を拭った。
「ようやく、世界が、お嬢様に追いつきましたね」
◇
季節が、巡った。
辺境レイエンドの地は、かつての豊かさを取り戻していた。
黄金の麦畑。澄んだ水路。そして、休みなく回り続ける、始原の水車。
わたくしは今、この国の『水車聖女』と呼ばれている。
無能と嗤われた令嬢が、実は国の心臓を回していた――その真相は、マレナの語りによって、村から村へと伝わっていった。
「フィオナー! 見て見て、こっちの水路、ぜんぶ綺麗になったよ!」
ミルナが、水しぶきを跳ねさせて笑う。相変わらずの甘えん坊で、寂しがり屋で。
でも、この子がいてくれるから、旅の道は、いつも賑やかだ。
そう。旅。
わたくしは、決めていた。
この国には、まだたくさんの――忘れられた水車が眠っている。
止まったまま、誰にも顧みられず、廃屋と呼ばれている、かつての誇り高き技術たちが。
前世で見送るしかなかった、あの廃村の家々のように。
「今度は、一つ残らず、甦らせてあげるの」
荷馬車の支度を整えながら、わたくしは呟いた。
「準備は、いいか」
低い声。
振り返れば、オルウェンが、相棒の竜と共に立っていた。
護衛として――いえ、それだけではない。
あの満月の夜以来、彼はわたくしの隣を、離れなかった。
「無理は、するな。……お前の歌が、聞けなくなるのは、困る」
不器用に、目をそらしながら。それでも、確かに。
わたくしは、くすりと笑った。
「ふふ。ええ。これからも、隣で聞いていてくださいませね」
彼の頬が、わずかに赤らむ。氷の団長も、形無しだ。
荷馬車が、ゆっくりと動き出す。
肩にはミルナ。隣にはオルウェン。そして、証言者のマレナが微笑んで見送る。
遠い地平線の向こうに、次の廃村が――次の、眠れる水車が待っている。
わたくしは、風に髪をなびかせて、前を見据えた。
荒れた手が、誇らしい。地味な仕事が、愛おしい。
忘れられたものの価値を、誰よりも知る者として。
「さて」
わたくしは、そっと微笑んだ。
「次に眠っているのは――どの子守歌かしら?」




