9 死んでしまうぞ
「そ、それは……」
親方は脂汗を垂らしながら、しどろもどろに答えた。
「……霧島の連中に、売るんだよ。武器はどこでも高く売れるからな……」
霧島。
その名前を聞いた瞬間、時雨さんの空気が変わった。纏う気配が、鋭く張り詰める。
「……知ってたのか、零」
「いえ……でも」
俺は正直に答えた。
「積荷の重量が申告と合わず、布にしては重すぎるとは思っていました」
実際は先生の分析で知っていただけだ。
『はい。申告重量との乖離は約四十キログラムでした。密度から金属類と推測していましたが、確証はありませんでした』
時雨さんは親方を睨みつけた。殺気が滲む目に、親方が「ひぃっ」と悲鳴を上げる。
「て、手切れだ! ここで終わりにするってんなら、報酬は半分——」
「黙れ」
時雨さんの声は、氷のように冷たかった。
「最後まで届ける。ただし、報酬は倍だ。嫌なら、お前の首を野盗に売る」
「ひ、ひぃ……! わ、分かった、分かったよ……!」
親方は涙声で頷いた。
◆
隣町には、その日の夕方に到着した。
報酬は銅銭七百枚。当初の約束より二百枚多い。口止め料込みということらしい。
宿を取った俺たちは、久しぶりにまともな飯を食べた。米の飯と、味噌汁と、焼いた魚。この世界で初めて、「美味い」と思える食事だった。
「時雨さん」
飯を食べ終えた後、俺は思い切って口を開いた。どうしても気になったのだ。
「霧島って……何かあるんですか」
時雨さんは箸を置いた。しばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「……しつこいな、昔の話だ」
「……」
「いつか話す。お前が、もう少しマシになったらな」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
聞きたい。知りたい。でも、今の俺にはその資格がない。時雨さんの過去を受け止められるほど、俺はまだ強くない。
『マスター。「マシになる」の定義が不明瞭です。具体的な数値目標を設定することを推奨します。例えば、戦闘能力の向上率を——』
「空気読んでくれ、先生……」
『空気は読めません。酸素濃度なら測定可能ですが』
「そういう意味じゃないんだよ……」
時雨さんの口元が、微かに動いた。笑った——ように見えた。
「そのデケェ独り言喋る癖、直しとけ」
どうやら、また声に出てしまっていたらしい。
自分でもどうすればいいのか分からない。頭の中のAIと会話しながら生きるなんて、普通じゃない。
でも、先生がいなかったら、俺はとっくに死んでいた。
「先生」
『はい、マスター』
「ありがとう。今日も助かった」
『……どういたしまして。私はマスターの生存をサポートするために存在しています。感謝は不要です』
「不要でも、言いたいんだよ」
『……学習しました。人間は非効率な行動に意味を見出す生き物である、と』
「さっきも同じこと言ってなかった?」
『重要なことなので二度学習しました』
俺は思わず笑った。先生も、少しずつ変わってきている気がする。
◆
商隊護衛から戻った翌日、時雨さんは珍しく「今日は休みだ」と言った。
「休み……ですか?」
「金もある。たまには息抜きしねえと体が持たん」
異世界に来て初めての休日だった。正直、嬉しい。ここ数日、死体を漁り、人を殺し、心も体もボロボロだった。
「何しましょうか」
「風呂と飯と服だ。お前、臭いし汚いし見てらんねぇ」
直球すぎて傷ついたが、否定はできなかった。
街の外れにある戦闘に入った。異世界にも風呂屋があるのかと驚いたが、この街では温泉が湧いているらしい。銅銭十枚で入浴できると聞いて、俺は思わず飛び込んだ。
「あああ……生き返る……」
温かい湯が、全身の疲れを溶かしていく。こんな幸せがあったのか、現代日本では当たり前だったことが、今はこんなにも尊い。
いつか、たくさんお金を手に入れて毎日銭湯に通おう。俺は、この世界に来て初めてそんな小さな夢ができた。
『マスター。体表の汚れを分析したところ、垢、皮脂、血痕、泥、正体不明の有機物……合計十七種類の付着物が検出されました』
「やめろ。詳細いらない」
『ちなみに、この世界に来てからの入浴回数はゼロでした。衛生観念の崩壊が懸念されます』
「うるさいな! 先生もそろそろこの世界に慣れろ!」
俺は湯の中に沈み込んで、先生の声を遮ろうとした。無駄だと分かっていても、そうしたかった。
『なお、長湯は血圧低下を招きます。適度な入浴時間は十五分程度です』
「少しくらいいいだろ……」
『マスターの判断にお任せします。ただし、のぼせて溺死した場合、私も機能停止します』
「だろうね。何の脅し?」
『事実の提示です』
結局、二十分ほどで上がった。悔しいが、先生の言う通りにして正解だった。これ以上浸かっていたら、本当にのぼせていたかもしれない。
◆
風呂上がりに、屋台で飯を食った。温かい汁物と握り飯。たったそれだけなのに、涙が出そうになった。
「うまい……うますぎる……」
『マスター。涙腺から液体の分泌を確認。食事で泣く人間を初めて観測しました。データベースに「情緒不安定」と記録します」
「記録すんな!」
隣で時雨さんが呆れた顔をしている。
「大げさだな」
「時雨さんには分かんないですよ。干し肉と泥水しか口にしてなかったんですから……」
「俺もそうだったが」
「時雨さんは慣れてるでしょ!」
時雨さんは肩をすくめて、黙々と飯を食い続けた。
◆
その後、古着屋でシャツを新調した。ボロボロになった服を脱ぎ捨て、清潔な布に袖を通す。安物だけど、それでも十分だった。
「どうかな、この服」
『以前の服と比較して清潔度は向上しています。ただし、マスターの美的センスについてはコメントを控えます』
「……それ、遠回しにダサいって言ってない?」
『言っていません。コメントを控えると言いました』
「絶対言ってるだろ……」
元々着てた制服も全部ダメになり、いよいよこの世界の人と同じ格好になってしまった。
現地民として紛れ込むことができるとはいえ、俺が時坂零であることの証拠を失ったような感覚だった。
服を買った帰り道、街の広場で騒ぎが起きていた。人だかりができている。怒号と、何かが暴れる音が聞こえる。
「何だ?」
時雨さんが眉をひそめる。俺たちは人垣を掻き分けて、中を覗き込んだ。
馬だった。茶色い毛並みの、立派な馬。それが暴れ回り、近づくものを蹴散らしている。目は血走り、口から泡を吹いていた。
「誰か止めてくれ!」
馬商人らしき男が叫んでいる。従業員たちが縄を持って近づこうとするが、馬の蹴りを恐れて誰も手が出せない。
制御できないような馬を商売に出すなよ……。
「……面倒事だな」
時雨さんが呟いた。
「助けなくていいんですか」
「金にならん」
まあ、そうだよな。俺たちは善意で動けるほど余裕がない。
そう思った、次の瞬間だった。馬が方向を変え、人垣の隙間を突いて走り出した。その先には──子供がいた。五、六歳くらいの小さな子供が、恐怖で立ち尽くしている。
「あ」
体が動いていた。考えるより先に、足が地面を蹴る。
『マスター、危険です。回避を推奨──』
「分かってる!」
俺は子供の前に飛び出し、両手を広げて馬の前に立ちはだかった。
馬が嘶き、前脚を振り上げる。でかい。鉄の塊のような蹄が、俺の頭上に迫る。死ぬ、死んでしまうぞ、俺。
でも、逃げなかった。逃げたら、後ろの子供が死ぬ。
「……っ」
俺は目を閉じなかった。馬の目を、真っ直ぐ見つめた。恐怖の中で、精一杯睨み返す。
馬の前脚が、俺の顔の横に振り下ろされた。砂埃が舞い上がる。当たらなかった。馬は荒い息を吐きながら、俺の目の前で止まっている。
沈黙が広がった。
俺は震える手を、そっと伸ばした。指の間を少し硬い体毛がすり抜けていく。熱い。汗で濡れている。馬が小さく身じろぎしたが、暴れることはなかった。
「……大丈夫。大丈夫だから」
自分に言い聞かせるように呟きながら、首筋を撫でた。馬の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「すげえ……」
誰かが呟いた。気づけば、馬は完全に落ち着いていた。俺に頭を擦り付けてくる。さっきまでの凶暴さが嘘のようだった。
『……異常なデータです』
先生の声に、初めて困惑の色が混じった。
『マスターの心拍数と馬の心拍数が同期しています。原因不明。分析を継続します』
「え、どういうこと?」
『不明、と言いました。私にもわからないことがあるのです。不本意ですが』
馬商人が駆け寄ってきた。
「あんた、すげえな! 誰も止められなかったのに! 馬の扱い、慣れてるのか?」
「いえ、まともに乗ることもできないですけど……」
「嘘だろ? 今の見てたぞ、手慣れたもんだったじゃねぇか」
「なあ、ちょっと乗ってみてくれねえか」




