7 間違った世界
屍漁りの報酬は、銅銭二百枚だった。
俺たちの懐は少し温まったが、心は凍えたままだ。あの戦場跡の光景が、目を閉じるたびに蘇る。腐臭が、まだ鼻の奥にこびりついている気がした。
「次の仕事を探す。ついてこい」
時雨さんは相変わらず素っ気ない。俺が何人もの死体を漁り、あの男を看取れなかったことについて、何も言わなかった。責めも、慰めもしない。それが時雨さんなりの優しさなのか、本当に興味がないのか、俺には分からなかった。
街を出て半刻ほど歩いた頃だった。街道の先に、数人の人影が見えた。道を塞ぐように立っている。
すると、時雨さんの足がピタリと止まった。
「……っ」
空気が変わるのを俺は肌で感じた。隣に立つ時雨さんの気配が、張り詰めた弦のように硬くなっている。
「時雨さん?」
返事はなかった。俺は時雨さんの横顔を見上げて、息を呑んだ。いつもの無表情ではない。その目に浮かんでいるのは──悲しみ、だった。この人の感情を、俺は初めて見た。
「久しぶりだな、時雨」
人影の中から、一人の男が進み出てきた。時雨さんと同じくらいの年頃。着流しに刀を佩いた、浪人風の男だ。顔には古い刀傷が走っている。
「……弥助」
時雨さんが、低い声で名を呼んだ。
弥助と呼ばれた男は、懐かしそうに、それでいてどこか寂しそうに笑った。
「変わらねえな、お前は。相変わらず良い目ェしてやがる。……いい暮らしは、してねぇみたいだが」
「何の用だ」
「分かってんだろ」
弥助の後ろに控えた男たちが、じりと前に出る。三人。いずれも刀を手にしていた。
「お前の首にゃ、懸賞がかかってる。悪く思うなよ、時雨。俺にも──守るもんがあるんだ」
時雨さんは何も答えなかった。ただ、腰の刀に手をかけた。
俺は混乱していた。この人たちは、知り合いなのか。いや、それ以上の──かつての仲間?
「時雨さん、この人たちは……」
「黙ってろ」
短い言葉で遮られる。時雨さんは俺を睨み、低い声で言った。
「見とけ。生きるためならかつての味方だって獲物になる。それが乱世の摂理だ」
強がりか。諦観か。俺には分からない。でも、その声がいつもより低く震えていることだけは、確かに分かった。
「行くぜ、時雨」
弥助が刀を抜いた。時雨さんも鯉口を切り、白刃が陽光を弾く。
次の瞬間、二人は同時に地を蹴った。
金属のぶつかる音が響き、火花が散る。俺の目では追えない速さで、二つの影が交錯する。
その時だった。
「ガキは俺がもらう」
声がして振り向くと、弥助の手下の一人が俺に向かって走ってきていた。
「ひっ……!」
俺は反射的に後ずさった。逃げなきゃ。でも、足がもつれる。恐怖で、体が言うことを聞かない。
「死にたくなきゃ動くな!」
男が刀を振りかぶる。
「嫌だ、死にたくな──」
『緊急事態を検知しました』
先生の声が、頭の中に響いた。
『身体制御権の一時委譲を提案します。オートモードに移行しますか?』
考える余裕なんてなかった。
「やってくれ……! 頼む、先生……!」
『了解しました。身体制御権を委譲します』
その瞬間、視界が切り替わった。世界の色が変わり、時間の流れが遅くなったように感じる。俺の身体が──俺の意思とは無関係に、動き始めた。
振り下ろされる刀を、紙一重で躱す。自分でも信じられない動きだった。身体が勝手に沈み込み、男の懐に潜り込む。
『左方、武器を検出。回収します』
地面に落ちていた刀──さっきの戦闘が誰かが落としたものだ──を、俺の手が拾い上げる。握った感触が、まるで他人事のように遠い。
「なっ……!?」
男が驚愕の声を上げる。でも遅い。俺の体は既に踏み込んでいた。
『急所を特定。頸動脈への攻撃を実行します』
待って待って待って!!!!
俺の心の叫びは届かず、刀が、一閃した。男の首筋を、深く斬り裂いていた。
「が……っ」
血が噴き出す。赤い飛沫が俺の顔にかかった。温かい。生温かい、命の温度だ。
男は膝から崩れ落ち、二度と動かなくなった。
『脅威を排除しました。オートモード終了まで残り三秒。二。一──終了します』
ぷつん、と意識が元に戻った瞬間、俺の身体は俺のものに戻った。
「あ……」
目の前には、血だまりの中に倒れた男がいた。首から血を流して、目を見開いたまま、動かない。
俺の右手には、血に濡れた刀が握られている。
俺が、やったのか。俺が、この人を──。
「うあ……あああ……っ」
刀を取り落とした。手が震えて止まらない。血の匂いが鼻を突き、胃の中身がせり上がってくる。
その時だった。右腕に、激痛が走った。
「ぎっ……ああああああっ!!」
筋肉が裂ける感覚。骨が軋む音。俺は地面に倒れこみ、右腕を抱えて絶叫した。痛い。腕が千切れるかと思うほど、痛い。
『報告。オートモード使用の代償として、右腕の筋線維に部分断裂が発生しました。全治まで推定二週間。激しい運動は控えてください』
「くそ……、くそ……っ!!」
痛みと吐き気と恐怖と罪悪感が、全部一緒に押し寄せてきて、俺は泣いた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、右腕を庇って地面にうずくまった。
どれくらいそうしていただろう。ふと、剣戟の音が止んでいることに気づいた。
顔を上げると、時雨さんが弥助の前に立っていた。弥助は膝をつき、腹を抑えている。鮮血が、指の間から溢れていた。
「……すまねえ、時雨」
弥助が、掠れた声で言った。
「俺は……弱かった……」
時雨さんは何も言わない。ただ、弥助を見下ろしている。
「本当は……お前と戦いたくなんてなかった。でも、金がなくて、妻と子供に満足に飯を食わせることもできてねぇ。……そんな時に、お前に懸賞金がかかってることを思い出して……こんなことを……」
弥助さんは血を吐き、また続けた。
「あの時、お前がした判断を間違ってるとは思わねぇ。……間違ってんのは、この世界の方だろうな……」
弥助は血に塗れた顔で、微かに笑った。その目が、俺を見た。
「俺に言えたことじゃねぇが……新しい相方、大事にしろよ……」
「……」
時雨さんの肩が、小さく震えた気がした。
弥助はそれきり動かなくなった。目を開けたまま、空を仰いで、息絶えた。
時雨さんは長い間、その場に立ち尽くしていた。表情は見えない。でも、その背中が──いつもより、ずっと小さく見えた。
「……時雨さん……」
俺は涙声で呼びかけた。時雨さんは振り返らない。
「立てるか」
「はい……」
俺はよろよろと立ち上がった。右腕が悲鳴を上げるが、歯を食いしばって耐える。
時雨さんが近づいてきて、俺の右腕をつかんだ。乱暴に袖を捲り上げ、傷を確認する。腕は赤黒く腫れ上がっていた。
「……筋を痛めたか」
時雨さんは無造作に懐から布を取り出し、手際よく添え木を当て始めた。その手つきは、言葉とは裏腹に丁寧だった。
「使えねえな」
吐き捨てるように言いながら、時雨さんは包帯を巻いていく。きつく締めすぎないよう、加減しているのが分かった。
「……ごめんなさい」
俺は鼻を啜りながら言った。何に対する謝罪か、自分でもわからない。人を殺したこと。約に立てなかったこと。時雨さんに昔の仲間を殺させたこと。全部が混ざりあって、涙と一緒に溢れ出した。
「泣くな。みっともねぇ」
「……ぐすん」
「話聞いてねぇのか?」
「……聞いてます」
時雨さんは包帯を結び終えると、立ち上がって弥助の方を見た。
俺も、その視線を追った。弥助の亡骸が、夕日に照らされて横たわっている。穏やかな顔だった。苦しんだはずなのに、最期は笑っていた。
「……埋めるぞ」
「え……」
「聞こえなかったか。埋めるって言ってんだ」
時雨さんは道端の木の枝を広い、地面を掘り始めた。俺は痛む右腕を庇いながら、左手だけで土を掻いた。効率は悪かったが、時雨さんは何も言わなかった。
浅い穴に弥助を横たえ、土を掻ける。手を合わせたのは、俺だけだった。時雨さんはただ、黙って立っていた。
「……行くぞ」
時雨さんが背を向けた。俺はその後を追いながら、振り返った。
小さな土饅頭が、夕日の中に佇んでいる。
さっき俺が殺した男の亡骸は、そのまま放置されていた。埋めてやる余裕はなかった。
これが、この世界だ。
俺は俯いて、時雨さんの背中を追った。
右腕が痛む。心は、もっと痛かった。




