6 屍喰らいの初仕事
翌朝、時雨さんは開口一番こう言った。
「仕事を取ってきた。支度しろ」
「えっ、本当ですか!?」
俺は飛び起きた。
昨日スられて意気消沈していたが、仕事があるなら話は別だ。金を稼がなければ、この世界では生きていけない。
「どんな仕事ですか? 荷運び? 掃除?」
「屍漁りだ」
「……え?」
聞き間違いかと思った。
時雨さんは俺の困惑を無視して、淡々と説明を続ける。
「昨日、この近くで小競り合いがあった。野盗と街の自警団がやり合ったらしい。死体が転がってる」
「し、死体……」
「武具商人から依頼が来てる。死体から刀、鎧、金目のものを回収してこいってな。報酬は歩合制だ。うまくやりゃ、数百枚にはなる」
数百枚。確かに、魅力体な金額だ。
でも──。
「そんなの、無理ですよ……!」
俺は首を横に振った。
「死体を漁るなんて……そんなの……人として……」
「人として?」
時雨さんが、冷たい目で俺を見た。
「お前、昨日何があったのか忘れたのか? 綺麗事言ってる余裕が俺たちにあるのか?」
「それは……」
「この街でお前にできる仕事は、これしかねぇんだよ」
時雨さんは立ち上がり、刀を腰に差した。
「嫌なら一人で野垂れ死ね。俺は止めない」
「……っ」
選択肢なんて、最初からなかったんだ。
◆
街を出て、半日ほど歩いた。
道中、俺はずっと黙っていた。時雨さんも何も言わない。
乾いた風が草原を撫で、どこかで鴉が鳴いている。
やがて──風向きが変わった。
「うっ……!」
凄まじい臭いが、俺の鼻腔を殴りつけた。
腐った肉。鉄錆のような血。そして、言葉にできない、生理的嫌悪を催す何か。
丘を越えると、そこには地獄があった。
「あ……」
野原に、死体が転がっている。
五人、十人──数えるのをやめた。
膨れ上がった体。変色した肌。蛆が蠢き、鴉が群がっている。
これが、人だったものなのか。
「おえっ……!」
俺は数歩も進まないうちに、その場に膝をついて嘔吐した。
胃の中身なんてほとんどない。酸っぱい胃液だけが喉を焼いて出てくる。
「終わったら来い」
時雨さんは俺を一瞥もせず、死体の群れに向かって歩いていった。
彼は淡々と作業を始める。死体に近づき、腰の刀を外し、懐を探る。その動きに、一切の躊躇がない。
俺は──動けなかった。
『マスター。作業効率を上げるための手順を提示します』
先生の声が、頭の中に響く。
『まず、損傷の少ない死体から着手してください。関節部の装具は構造上外しやすく──』
「黙ってくれ……」
俺は震える足で立ち上がり、一番近くの死体に近づいた。
中年の男だった。
目は半開きで、虚ろに空を見つめている。腹部に大きな傷があり、そこから内蔵が──。
「おえっ……! ぅえっ……!」
また吐いた。
もう何も出てこない。それでも体が勝手に痙攣する。
手を伸ばそうとするが、震えて動かない。指先が死体に振れた瞬間、電気が走ったように腕を引っ込めてしまう。
冷たい。
固い。
これが、死だ。
『警告。過呼吸の兆候を検知。深呼吸を──』
「うるさいって言ってるだろ……!」
俺は頭を抱えてうずくまった。
無理だ。こんなの、できるわけがない。
どれくらいそうしていただろう。
ふと、顔を上げた。
目の前の死体が、まだ俺を見ている気がした。
虚ろな目。半開きの口。生前、この人は何を考えていたんだろう。
「……あんたも、名前とか、あったんだよな」
気づいたら、声に出していた。
当たり前だ。この人だって、昨日までは生きていた。飯を食って、酒を飲んで、誰かと笑い合っていたかもしれない。
それが今は、こうして野ざらしで、鴉に啄まれている。
現代社会で生きていた俺は、死に対する理解がまだ浅かったと痛感する。
後世では英雄のように語られる戦国武将たちも、実際は「敵より多くの人間を殺した」から歴史に名を刻んだ殺人鬼でしかない。
俺だって、いつ死ぬか分からない。
「……すみません」
俺は自然と、手を合わせていた。
葬式で見た、あの仕草。現代日本の、死者への礼儀。
意味なんてない。この世界では、誰もやらないだろう。
でも──これがないと、俺は俺でいられない気がした。
『マスター。その行為に実用的な効果はありません。時間効率の観点から──』
「分かってるよ」
俺は先生の声を遮った。
「分かってるけど……必要なんだ。俺には」
先生は、それ以上何も言わなかった。
俺は深呼吸をして、もう一度手を伸ばした。
今度は、引っ込めなかった。
震える手で、男の腰の刀を外す。帯を解き、鞘ごと引き抜く。
ずっしりと重い。これで、何人を斬ったのだろうか。それとも……一人も斬らずに、殺されてしまったのだろうか。
「……ありがとうございます」
俺は小さく呟いて、次の死体へ向かった。
「すみません」と声をかける。
そうしないと、心が壊れてしまいそうだった。
◆
どれくらい時間が経っただろう。
気づけば、俺の足元には回収した武具がいくつか積まれていた。
刀が三振り。脇差が二振り。あとは小銭の入った巾着袋がいくつか。
手は血と泥で汚れている。服には死臭が染み込んでいる。
でも、俺はまだ立っていた。
西の空が茜色に染まり始めていた。そろそろ終わりだ。時雨さんも戻ってくる頃だろう。
俺が最後の死体に手を合わせようとした、その時だった。
「……う……」
声が聞こえた。
最初は、空耳かと思った。でも、確かに聞こえる。微かなうめき声。
死体の山──その端の方から。
「えっ……」
俺は恐る恐る近づいた。
折り重なった死体の下に、一人の男がいた。中年くらい。自警団の装束を着ている。
腹部を深く斬られていた。内臓が──半分、外に出ている。
でも、その胸が──微かに、上下している。
「生きて……る……?」
男の目が、うっすらと開いた。
焦点の合わない瞳が、俺を捉える。
「……みず……」
掠れた声。
生きている。この人は、まだ生きている。
「時雨さん!」
俺は振り返って叫んだ。
時雨さんが、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
彼は男を一瞥し、表情を変えずに言った。
「見つけたか」
「助けないと……! まだ息があります!」
「見りゃ分かる」
時雨さんは俺の隣にしゃがみ込み、男の傷を確認した。
「腸が出てる。もう手遅れだ」
「そんな……! でも、街に連れて帰れば……」
「半日かかる。その前に死ぬ。それに、こいつを助けたところで何の見返りがある? 死にかけていた人間が金をくれるとでも思うか?」
冷たい、事実だけを述べる声。
「じゃあ……じゃあどうすれば……」
「選べ」
時雨さんが、俺の目を真っ直ぐ見た。
「このまま放っておくか。それとも、楽にしてやるか」
「……え」
楽にする。
それはつまり。
「殺せって……言うんですか……」
「苦しみを長引かせるよりマシだろ」
時雨さんは立ち上がり、一歩下がった。
「お前が見つけた。だからお前が決めろ」
『マスター。医学的見地から報告します。この男子絵の生存確率は0.01%以下です。仮に延命できたとしても、感染症により──』
「分かったから」
俺は男の傍に膝をついた。
男の目が、俺を見ている。何かを訴えているような、何かを求めているような。
「……らく、に……」
男の唇が微かに動いた。
「……して、くれ……」
俺の心臓が、凍りついた。
この人は──自分から、それを望んでいる。
現代っ子の贅沢な希死念慮じゃない。この人は、きっと本当は生きたいはずだ。なのに、どう足掻いても死を迎える。生きることを諦めるしかなかった人だ。
「……っ」
俺は腰の、さっき死体から回収した刀に手を伸ばした。
鞘から抜く。
刃が、夕陽を反射して赤く光った。
重い。この重さで、人の命を絶つのか。
「……できる、のか?」
時雨さんが静かに問う。
俺は刀を握りしめるが、手が震える。男の目がまだ俺を見ている。
苦しそうに、でもどこか穏やかに。
早く、楽にしてくれと。
「俺は……」
刀を振り上げる。
振り下ろせば、終わる。この人の苦しみも、この人の命も。
俺の──現代の倫理観も。
「……っ、できない……!」
俺の腕は止まった。振り下ろせなかった。
刀を落とし、俺は地面に両膝をついた。涙が勝手に溢れてくる。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
「……どけ」
時雨さんの声がした。
顔を上げると、彼が俺の横を通り過ぎていくところだった。
時雨さんは男の傍に膝をつき、腰の刀を抜いた。
「……悪く思うな」
一閃。
鮮血が飛び、男の体から力が抜けた。
苦悶の表情が──安らかなものに変わっていく。
俺は、それを見ていることしかできなかった。
時雨さんは刀の血を振り払い、鞘に納めた。
「帰るぞ。日が暮れる」
「……時雨さん」
俺は涙を拭いながら、掠れた声で言った。
「俺は……俺は、弱いです……」
「知ってる」
時雨さんは振り返らなかった。
「だから、生きてんだろ。この世界で強い奴は、とっくに死んでる」
その言葉の意味が、すぐには分からなかった。




