4 泥と唾
宿場町に足を踏み入れた瞬間、猥雑な喧騒と饐えた臭いが俺たちを包み込んだ。
ここは街道沿いの安宿街。日雇いの労働者や怪しげな女たち、昼間から酒を煽っている荒くれ者がたむろする、いわゆるスラムのような場所だった。
道端には正体不明の汚物が転がり、建物の壁は煤と脂で黒ずんでいる。現代日本なら、保健所が飛んでくるレベルの不衛生さだ。
「ここで待ってろ」
時雨さんはそう言い残し、一軒のボロ宿に入っていった。
宿泊の交渉をしてくれるらしい。
俺は言われた通り、路地裏の建物の陰に立っていた。シャツ一枚では寒く、自分の両腕を抱いて震える。
吐く息が白い。
日が暮れかけているせいか、気温がぐんぐん下がっていくのが分かった。
その時だった。
「……おい、見ねえ顔だな」
ダミ声とともに、三人の男が俺を取り囲んだ。
薄汚れた着流しに、腰には錆びた短刀。典型的なチンピラだ。彼らの目は、獲物を見つけたハイエナのように濁っていた。
「へぇ、いい服着てんじゃねえか。生地も上等だ」
「顔もだ。女みてえにツルッとしてやがる」
男の一人が、俺の頬に手を伸ばしてくる。
俺は反射的に身を引いた。
「さ、触らないでください……!」
「あぁ?」
男の顔色が変わった。
「生意気な口聞いてんじゃねえよ、ガキが」
俺は慌てて謝ろうとした。
でも、遅かった。
男は侮蔑の表情で口を歪めると──ペッ、と音を立てて、俺の顔に唾を吐きかけた。
「……っ」
右の頬に、生温かい粘液がべったりと張り付く感触。
強烈な臭いが鼻腔を突いた。
俺は呆然とした。
生まれて初めて受ける、直接的な侮辱。怒りよりも先に、どうしようもない惨めさが込み上げてくる。
拭いたい。
でも、手も泥だらけだ。
どうすればいいのか分からず、俺は立ち尽くすしかなかった。
「なんだその目は。気に入らねえな」
抵抗しない俺を見て、男たちは図に乗った。
ゴツゴツした手が伸びてきて、俺のサラサラの髪を乱暴に鷲掴みにする。
「がっ……!?」
「こっち向けよ、オラァ!」
頭皮が引きちぎれるような激痛。
俺の頭は強制的に上を向かされ、次の瞬間、凄まじい力で引きずり倒された。
目の前に迫るのは、路地裏のドブ。腐った泥水が溜まった、悪臭を放つ水溜まりだ。
「や、やめ──」
抵抗する間もなく、俺の顔面は泥水の中に叩き込まれた。
「んぐっ……! ごぼっ……!」
息ができない。
口と鼻に汚水が侵入し、俺はむせ返りながら泥水を飲み込んだ。泥と腐敗臭、そして鉄錆の味が口いっぱいに広がる。
苦しい。
汚い。
死ぬ──。
俺は手足をバタつかせ、必死に顔を上げた。
「げほっ、ごほっ……!」
目を開けると、視界が茶色く濁っていた。睫毛に泥がこびりつき、うまく瞬きができない。
男たちは俺の無様な姿を見て、ゲラゲラと下卑た笑い声を上げている。
「いいザマじゃねえか! 泥化粧がお似合いだぜ!」
「もう一発いっとくか?」
男の膝が、無防備な俺の顔面めがけて振り上げられた。
避けられない。
俺は反射的に目を閉じ、両腕で頭を庇った。
「──失せろ」
ドスッ、という鈍い音。
恐る恐る目を開けると、俺を蹴ろうとした男が数メートル先まで吹き飛んでいた。
俺の目の前には、時雨さんが立っている。
その目は、氷のように冷たく男たちを射抜いていた。
「ひっ……!」
男たちは時雨さんの殺気に当てられ、脱兎のごとく逃げ出した。
助かった……。
俺は安堵のため息をつき、地面にへたり込んだ。全身から力が抜けて、立っていられなかった。
だが──時雨さんは手を貸してくれるどころか、泥まみれの俺を見下ろし、鼻を鳴らした。
「汚ェな。犬でも、もうちっとマシな抵抗をするぞ」
冷たい言葉が、胸に突き刺さる。
彼はくるりと背を向け、宿の方へ歩き出した。
俺は唇を噛み締め、よろよろと立ち上がった。
鼻の奥がツンとして、ツーっと熱いものが垂れてくる。鼻血だ。
白いシャツに、赤い染みが点々と広がっていく。
泥と血で汚れた自分。
鏡を見なくても分かる。今の俺は、世界で一番惨めだ。
「……ほらよ」
不意に、時雨さんが立ち止まった。
振り返った彼の手には、木でできた椀が握られている。中には透き通った水が入っていた。このあたりでは貴重な、綺麗な井戸水だ。
飲むように、くれるのだろうか。
俺が手を伸ばそうとした、その時。
バシャッ!
時雨さんは無造作に、その水を俺の顔にぶちまけた。
「ぷはっ……!?」
冷たい水が、顔にこびりついた唾と泥を洗い流していく。
乱暴で、雑なやり方。
でも──その水のおかげで、塞がっていた視界がクリアになった。
「顔くらい洗っとけ。見てるこっちが不愉快だ」
時雨さんはそれだけ言うと、空になった椀を地面に放り投げた。
「……なんで俺って、何してもこうなるんですかね」
俺は弱々しい声で呟いた。
情けなくて、悔しくて、自分が嫌になる。
「こういう街じゃ、綺麗な顔したやつほど狙われんだよ」
時雨さんは振り返らずに言った。
「別に、てめえが悪いわけじゃねえ」
そう言って、今度こそ宿の中へ消えていった。
俺は頬を伝う水滴を、呆然と指で拭った。
冷たいはずの水が、なぜか──少しだけ温かく感じた。
『警告。鼻粘膜からの出血を確認。止血を推奨します。また、顔面に付着した汚水には多数の細菌が含まれており、感染症のリスクが──』
「……分かってるよ」
俺は袖口で乱暴に鼻血を拭った。
路地裏の水溜まりに、俺の顔が映っている。
泥と血でぐちゃぐちゃだ。
でも──その瞳だけは、さっきよりも少しだけ、強い光を宿していた。




