3 最後の証
翌朝、目覚めた瞬間に感じたのは、希望ではなく強烈な不快感だった。
「……っ、痒い……!」
全身が、焼けるように痒い。
特に首筋と腰回りが酷かった。俺は半狂乱でブレザーの上から身体を掻きむしる。爪の間に垢と血が詰まる感触がして、鳥肌が立った。
『警告。表皮に多数の寄生生物──通称ダニおよびノミの付着を確認。衛生状態レベルE。直ちに洗浄および消毒を推奨します』
「風呂なんてどこにあるんだよ……!」
先生の警告に、俺は涙目で悪態をついた。
昨夜は雨に濡れたまま、岩屋の湿った地面で眠った。服は生乾きの雑巾みたいな悪臭を放っているし、髪は泥と皮脂でベタついている。
最悪だ。
学校から帰って、シャワーを浴びて、清潔なベッドで眠る。そんな当たり前の日常が、今は遥か遠い夢のようだった。
「おい。いつまで寝ぼけてる、置いていくぞ」
岩屋の入り口から、時雨さんの冷たい声が飛んできた。
彼はもう身支度を整え、出発の準備を済ませている。
俺は慌てて起き上がったが、空っぽの胃袋がキリキリと痛んだ。
「あの……朝ごはん、とか……」
情けない声で言うと、時雨さんは懐から何かを取り出し、無造作に放り投げてきた。
地面に落ちたそれを拾う。
どす黒い、木片のような塊だった。
『対象分析。乾燥肉と推定。保存状態、劣悪。表面にカビの胞子が付着している可能性があります。摂取は推奨しません』
「……うぇ」
鼻を近づけると、獣の脂が酸化したような、酸っぱい臭いが鼻腔を突いた。
これを、食えと?
現代のコンビニ弁当の廃棄の方が、よっぽどマシだ。
「食わなきゃ死ぬぞ」
時雨さんは自分も同じものを平然と齧りながら、嘲るように言った。
「それとも何か? ママにお粥でも作ってもらうか?」
「っ……」
悔しさと空腹で、涙が滲む。
俺は目を瞑り、息を止めて、その塊を口に放り込んだ。
硬い。
しょっぱい。
そして──泥と錆びた鉄を混ぜたような味がする。
オエッ、と胃が拒絶反応を起こす。俺は手で口を押さえ、無理やり喉の奥へ押し込んだ。水で流し込むと、食道が焼けるように熱い。
「……ごちそうさま、でした」
「へぇ。意外と根性あるな」
時雨さんは少しだけ意外そうな顔をしたが、すぐに無表情に戻った。
俺たちが目指すのは、山を降りた先にある宿場町だという。
俺はふらつく足で、彼の背中を追った。
◆
山道は険しかった。
舗装なんてされていない、獣道のような場所をひたすら歩く。枝が頬を引っ掻き、石が足の裏を突き上げる。スニーカーの底はとっくに擦り減っていて、地面の凹凸がダイレクトに伝わってきた。
どれくらい歩いただろう。
突然、鼻をつく異臭が漂ってきた。
甘ったるくて、ツンとする。
強烈な──腐臭。
「うっ……」
道の脇、茂みの中に、それは転がっていた。
人間だ。
いや──人間だったもの、だ。
着ているボロ布からして、野盗か、あるいは逃げ遅れた農民か。顔は半分ほど溶け崩れ、判別がつかない。無数の蠅が黒い塊となってたかり、ブンブンという羽音が耳障りに響いている。
腹の部分は何かに食い破られ、白い肋骨が覗いていた。
限界だった。
俺は道端に膝をつき、さっき食べたばかりの干し肉を全部吐き出した。
「おえっ……! ぅ、えっ……!」
胃液まみれの肉塊が地面に転がる。喉がヒリヒリして、涙と鼻水が止まらない。
『警告。嘔吐による胃酸の逆流を確認。食道の炎症リスクが上昇しています。水分補給を推奨します』
「うるさい……黙ってくれ……!」
俺が地面に這いつくばっていると、視界の端で時雨さんが動いた。
彼は顔色ひとつ変えず、死体に近づいていく。
そして──その懐に、手を突っ込んだ。
「ひっ……!?」
「……チッ。シケてやがる」
時雨さんは死体の懐から数枚の銅銭を取り出すと、何でもないように自分の財布に入れた。
「な、何して……!?」
「金だ。死人に金はいらねぇだろ」
淡々とした答えに、俺は言葉を失った。
冒涜だ。
倫理観が壊れている。
でも──時雨さんの目には、罪悪感など欠片もなかった。ただ道端の石を拾うような、日常の動作。
この世界では、これが当たり前なのか。
俺は改めて、とんでもない場所に放り込まれてしまったのだと実感した。
身体の震えが、止まらなかった。
◆
夕暮れ時、ようやく山を抜けた。
眼下に広がるのは、数十軒の家屋が並ぶ集落だった。家々の窓には灯りがともり、炊煙が空へ立ち上っている。
「あ……街だ……」
その光景が、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように見えた。
やっと、人のいる場所に行ける。
屋根のある場所で眠れる。
俺は痛む足を引きずりながら、関所へと続く列に並んだ。
だが──現実は甘くなかった。
関所の前には槍を持った兵士たちが立ちはだかり、通行人から金を徴収している。
「通行税だ。一人につき銅銭十枚」
時雨さんは懐から、さっき死体から抜いた分も含めた銭を取り出し、無造作に兵士へ放った。
兵士はそれを確認して頷く。
そして──俺を見た。
「お前のは?」
「え……」
持っているわけがない。
俺は時雨さんを見た。
彼は腕を組んで、知らん顔をしている。
嘘だろ。
「あの、時雨さん……俺の分は……」
「俺が出してやる義理はねぇな」
突き放すような声。
「ここまで連れてきてやっただけでも感謝しろ」
血の気が引いた。
ここで追い返されたら、またあの死体と虫だらけの山に戻るしかない。夜になれば狼も出るだろう。
確実に、死ぬ。
「お、お願いします! 後で絶対働いて返しますから!」
「金がねぇなら通せねぇ。帰んな」
兵士が槍の石突きで俺を小突いた。
痛い。
惨めだ。
俺は地面に膝をつきながら、必死に頭を回転させた。
何か──売れるものは。
『提案があります、マスター』
先生の冷徹な声が響く。
『あなたが着用しているブレザーの繊維は、この世界では再現不可能な化学繊維です。その希少価値は、通行税の約二十倍に相当すると推測されます』
ブレザー。
これは俺の学校の制服だ。
ボロボロだけど、まだ俺が「時坂零」であることの証。これを失ったら、俺は本当に、どこの誰でもない浮浪者になってしまう。
この服があるから、俺はまだどこか──前の世界との繋がりを感じられていたのに。
『生存を最優先事項とします。売却を推奨』
「……分かってる」
分かってるよ。
俺は震える手で、ブレザーのボタンを外した。
脱ぎ捨てた制服を、兵士に差し出す。
「こ、これで……勘弁してください……」
「あん? 何だこの妙な服は」
兵士は眉をひそめてブレザーをつまみ上げたが──その手触りに気づいて、目を丸くした。
「……何だこの布は。絹か? いや、もっと滑らかで……丈夫だぞ……」
「異国の……珍しい品、です……」
兵士は下卑た笑みを浮かべ、俺の手からブレザーをひったくった。
「へへ、いいだろう。特別に通してやる」
「あ……」
俺の制服が、兵士の懐に収められていく。
シャツ一枚になった俺の肌を、夕方の冷たい風が刺した。
寒い。
心も身体も、凍えるように寒い。
「……行くぞ」
一部始終を見ていた時雨さんが、短く声をかけて先に歩き出した。
俺は涙をこらえ、シャツの上から両腕を抱きしめながら、とぼとぼとその背中を追った。
街の灯りは、あんなに近いのに。
俺の心の中は──真っ暗だった。




