2 生存確率0.02%
手のひらに残る、石のゴツゴツとした感触。
それが、俺の運命を分けた。
俺が投げた石は、ゆるい放物線を描いて槍持ちの男の兜に当たった。
カン、と間の抜けた音が響く。
ダメージなんて、あるわけがない。男は「あん?」と不快そうに俺を見ただけだ。
けれど──その一瞬の隙。
先生が計算した、コンマ五秒の空白が、勝敗を決した。
「遅ぇよ」
侍の男の低い声と同時に、銀色の閃光が奔る。
槍持ちの首筋から、鮮血が噴き出した。
ドサリ、と重い音を立てて男が崩れ落ちる。それを皮切りに、彼は残る敵を一息で斬り伏せた。
圧倒的だった。
俺が瞬きをする間に、五人いた野盗が全員、地面に転がっている。
あたりに充満するのは、鉄錆びた血の匂い。生臭くて、喉の奥にへばりつくような、命の終わりの臭い。
「う……っ」
俺は口元を押さえ、その場に膝をついた。
ゲームじゃない。映画でもない。本物の、人の、死体だ。
首があらぬ方向を向いた男の、濁った目と目が合った気がした。
胃の中身が、一気にせり上がってくる。
「おえっ……! ぅ、えっ……!」
空っぽの胃袋から吐き出せるのは、酸っぱい胃液だけだった。それでも嗚咽が止まらない。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになっていく。
『警告。心拍数が危険域に到達しています。過呼吸の兆候あり。深呼吸を推奨します』
先生の事務的な声が、どこか遠い。
頭では分かっている。落ち着けと。でも身体が言うことを聞かない。
「……終わったぞ」
頭上から降ってきた声に、俺は涙で滲んだ視界を持ち上げた。
男が、刀についた血を懐紙で拭っている。その横顔には、人を斬ったことへの動揺など欠片もない。
ただ仕事を終えた職人のような、淡々とした冷たさがあるだけだった。
「俺の名は時雨だ」
男はそう名乗り、刀を鞘に収めた。
「助太刀、感謝する。あの石がなけりゃ、俺も浅くない傷を負ってたかもしれん」
「は、はい……よかった、です……」
震える声で答えると、時雨さんと名乗った男は、冷ややかな目で俺を見下ろした。
「──だが、それはそれだ」
踵を返し、歩き出す。
「お前、身なりはいいが金は持ってなさそうだな。俺は無償ただで人を助ける趣味はない。じゃあな」
……え?
俺は呆然とした。
このまま置いていかれるのか。この、死体だらけの森に。一人で。
『警告。生存確率が急激に低下しています。単独行動時の推定生存率、0.02%。早急な交渉を推奨します』
先生の警告が、頭の中を殴りつける。
0.02%。
ほぼ、ゼロだ。
野草の見分けもつかない。剣なんて握ったこともない。そんな俺がこの世界で一人で生きていけるわけがない。
生き延びるには──この人の力が、必要だ。
「ま、待ってください!」
俺はふらつく足で立ち上がり、必死に追いかけた。
「お願いします、連れて行ってください! 俺、何でもしますから……!」
「断る」
時雨さんは足を止めない。
「足手まといのお守りは御免だ」
背中がどんどん遠ざかっていく。
どうする。金はない。武力もない。
俺にあるのは──頭の中の、この先生だけだ。
『提案があります、マスター』
「……何」
『上空の雲の動き及び気圧データを解析しました。およそ二十分後、この地域に局地的な豪雨が発生します。降水確率97.3%。これを交渉材料として使用することを推奨します』
天気予報。
それだ。
俺は残った気力を振り絞り、声を張り上げた。
「俺──天気が分かるんです!」
時雨さんの足が、止まった。
「……は?」
「本当なんです! あと二十分もしないうちに、大雨が降ります! 土砂降りです!」
時雨さんは空を見上げた。
木々の隙間から覗く空は、雲ひとつない青。どこからどう見ても、晴天だ。
「……雲もねぇぞ。頭でも打ったか」
「信じてください! 俺には……分かるんです!」
未来予知なんて言えば、頭がおかしいと思われる。
俺はとにかく「使える」ことだけを必死にアピールした。
「天気が読めれば、戦にも旅にも役立つはずです! だからお願いします、俺を──」
「くだらん」
時雨さんは鼻を鳴らし、再び歩き出した。
「戯言に付き合ってる暇はねぇ」
ダメだ。信じてもらえない。
当然だ。こんな突拍子もない話、俺だって信じない。
絶望が胸を締め付けた、その時。
ぽつり、と。
俺の頬に、冷たいものが当たった。
「……あ?」
時雨さんが足を止める。
次の瞬間──バラバラバラッ、という轟音とともに、滝のような雨が降り注いだ。
視界が白く染まる。一瞬で全身がずぶ濡れになった。
「なっ……!?」
時雨さんが驚愕の表情で空を見上げている。
狐の嫁入りなんてレベルじゃない。先生の予測通りの、局地的豪雨だ。
「お前……本当に、読んだのか……?」
雨に打たれながら、時雨さんがこちらを振り返る。
その目に、初めて「興味」の色が浮かんでいた。
「軍配者でも、ここまでの精度は出せん。お前、一体何者だ」
「……っ」
答えられるわけがない。異世界から来ましたなんて言ったら、今度こそ頭がおかしいと思われる。
俺が口ごもっていると、時雨さんは舌打ちして髪をかき上げた。
「……まあいい。とりあえず雨宿りだ。ついて来い」
「えっ、いいんですか……?」
「その代わり、役に立たなきゃ即座に捨てる。いいな」
「は、はい! ありがとうございます!」
俺は泥に足を取られながら、必死で時雨さんの背中を追いかけた。
◆
雨を避けて辿り着いたのは、岩壁にぽっかりと口を開けた小さな岩屋だった。
奥行きは五、六メートルほど。人が数人は入れる広さがある。
時雨さんは手際よく枯れ枝を集め、火打ち石で火を起こした。パチパチと音を立てて、橙色の炎が岩壁を照らす。
濡れた服から立ち上る湯気を見つめながら、俺はずっと聞きたかったことを口にした。
「あの……時雨さんさん」
「さん付けはやめろ。気色悪い」
「じゃ、じゃあ……時雨さん。ここって、何ていう国なんですか?」
「皇国だ」
聞いたことのない名前だった。
でも、もしかしたら昔の呼び名かもしれない。俺は僅かな希望に縋るように続けた。
「じゃあ、天下を治めてるのは誰ですか? 足利将軍とか……織田信長とか……」
「誰だそりゃ」
時雨さんは怪訝そうに眉をひそめた。
「今は六大名家が覇を競ってる乱世だ。天下人なんざ百年は出てねぇよ」
足利も。
信長も。
いない。
俺の知っている歴史上の人物が、一人も出てこない。
『GPS信号、検出不可。衛星データ、受信不可。天体観測による位置特定を試行……星座配置パターン、既知のデータと不一致。結論──現在地は、地球上のいかなる座標とも一致しません』
先生の無慈悲な報告が、最後の希望を打ち砕いた。
ここは過去の日本なんかじゃない。
物理法則以外、何もかもが違う。
完全な──異世界。
「そう、ですか……」
俺の声は、自分でも分かるくらい震えていた。
時雨さんはそれ以上何も聞かず、刀の手入れを始めた。
沈黙が重い。
焚き火の爆ぜる音だけが、岩屋に響いている。
◆
夜が更けた。
時雨さんは岩壁に背を預け、いつの間にか静かな寝息を立てていた。
俺は焚き火の傍で膝を抱え、小さくうずくまっていた。
転移してからずっと、生きるのに必死だった。考える余裕なんてなかった。
でも──こうして安全な場所で一息ついた途端、堰を切ったように感情が溢れ出してきた。
もう、帰れないかもしれない。
父さんにも、母さんにも。
学校の友達にも。
二度と会えないかもしれない。
修学旅行で馬鹿やって笑い合った、あの時間が。
最後だったなんて。
「う……っ」
喉の奥から、嗚咽が込み上げてくる。
声を殺そうとしても、涙が止まらない。
「ぐすっ……ひっ……」
怖い。
寂しい。
こんな血生臭い世界で、俺一人で生きていけるわけがない。
『マスター。涙による水分及び塩分の過剰排出を確認。脱水症状のリスクが上昇しています。泣くことの中止を推奨します』
「……うるさいよ、先生」
俺は鼻を啜り、掠れた声で返した。
「放っておいてくれ……」
袖で涙を拭う。
でも、拭っても拭っても、新しい涙が溢れてくる。
焚き火の向こうで、寝息を立てていたはずの時雨さんが身じろぎした。
薄く目を開け、泣きじゃくる俺の背中をしばらく見つめ──。
「……ガキが」
小さくそう呟いて、再び目を閉じた。




