14 影の国から
巴さんの体調は、翌日にはだいぶ回復していた。
まだ顔色は青白いが、自分で起き上がれるようになったし、食事も少しずつ摂れるようになった。若さと、それから……信仰の力だろうか。「レイ様のお側にいる」という使命感が、彼女を支えているように見えた。
正直、複雑な気持ちだった。
廃屋の中、俺たちは焚き火を囲んで座っていた。外は曇り空。湿った風が、壁の隙間から吹き込んでくる。
「巴さん」
「はい、レイ様」
「あの……聞いてもいいですか。なぜ、白蓮の人たちに追われていたのか」
巴さんの表情が、一瞬だけ強張った。琥珀色の瞳に、暗い影が差す。
「……お話しなければなりませんね」
巴さんは膝の上で手を握りしめ、ゆっくりと語り始めた。
「わたしは幼い頃、孤児として白蓮の寺院に引き取られました。親の顔は覚えておりません。物心ついたときには、もう寺院で暮らしておりました」
声は静かだったが、どこか遠くを見つめるような目をしていた。
「巫女見習いとして育てられ、天神様のために祈りを捧げる日々を送っておりました。辛くはありませんでした。むしろ、感謝しておりました。食べるものがあり、眠る場所があり、信じるものがある。それが当たり前だと思っておりました」
「白蓮の教えを……信じていたんですね」
「はい。聖女・蓮華様のことも、心から崇拝しておりました。天神様の声を聞き、民を導く神聖な御方だと」
巴さんの声が、微かに震えた。
「でも……あの夜のことです」
焚き火の火が揺れる。巴さんの顔に、橙色の光と影が同時に落ちた。
「私は夜中に目が覚めて、厠に行こうとしたのです。その途中で、聖女様のお部屋の前を通りかかりました」
「……」
「扉が少しだけ開いていて……中から声が聞こえたのdす。男の人の声でした」
巴さんの手が、ぎゅっと握りしめられた。
「覗いてしまいました。覗いては、いけなかったのに」
「何を見たんですか」
長い沈黙。焚き火が爆ぜる音だけが、廃屋に響いた。
「聖女様は……空っぽでした」
「空っぽ?」
「お部屋の中で、椅子に座っておられました。でも、その目は……何も映していませんでした。人形のような目でした。側近の方が、聖女様に何かを飲ませていて……『次の神託はこう言え』と、指示をしていたのです」
俺は息を呑んだ。
「聖女様は……本物ではなかったのです」
巴さんの声が掠れた。
「神託は、側近たちが作り出したもの。聖女様は、幼い頃から薬で……心を壊されていたのだと思います。自分の意志を持たない、傀儡でした」
傀儡。操り人形。
信じていたものが、全て嘘だった。巴さんの絶望は、想像するに余りある。
「それを見てしまったから……口封じに?」
「はい。側近の方に見つかってしまって……翌日から、わたしは追われる身になりました」
巴さんは俯いた。長い黒髪が、顔を隠すように垂れ下がる。
「わたしは……何も分かっていなかったのです。何を信じればいいのかも、どう生きればいいのかも」
沈黙が続いた。
俺は何と言えばいいのかわからなかった。信じていた世界が崩れる感覚。それは俺にも覚えがある。この世界に放り出された時、俺も同じだった。
「巴さんには……ご家族はいなかったんですか」
「兄がおりました」
巴さんが顔を上げた。その目に、悲しみとは違う光が宿る。
「兄は、わたしより五つ上で……同じ寺院で育ちました。とても優しい人でした。武芸の才能があって、僧兵になったのです」
「白蓮の?」
「はい。兄はわたしの自慢でした。いつか兄のように強くなりたいと、そう思っておりました」
巴さんの声が、少しずつ硬くなっていく。
「でも、ある時から兄の様子がおかしくなりました。夜中に抜け出すことが増えて、誰かと密会しているようでした」
「何があったんですか」
「後から知ったのですが……兄は、霧島の間者と接触していたのです」
霧島。
その名前が出た瞬間、空気が変わった。
時雨さんの気配が、鋭く張り詰める。俺はちらりと時雨さんを見たが、その表情は読み取れなかった。
「霧島は……『影の国』と呼ばれています」
巴さんの声が、低くなった。
「兄から聞きました。密告が奨励され、隣人同士が監視し合う国。誰も信じられない。自分の家族さえも」
「……」
「兄は、霧島の間者に取り込まれたのです。二重の諜報者になれと。白蓮の情報を流す代わりに、金を与えると」
巴さんの手が、膝の上で震えていた。
「最初は断ったそうです。でも、何度も何度も接触されて……脅されて、最後には従うしかなかったと」
「それで……」
「露見しました、白蓮に」
巴さんの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「兄は処刑されました。裏切り者として。公衆の面前で」
俺は言葉を失った。
巴さんは静かに涙を拭い、続けた。
「兄は最後に、わたしに言いました。『霧島には関わるな』と。『あの国は人を壊す。一度関われば、死ぬまで逃れられない』と」
「……」
「逃亡者は、死ぬまで追われるのだそうです。霧島を裏切った者には、時効がない。どこまでも追手がかかると」
沈黙が落ちた。
焚き火の炎が揺れている。俺は時雨さんの方を見た。
時雨さんは、黙って炎を見つめていた。その横顔は、いつもより険しく見えた。
「時雨様」
巴さんが、おずおずと声をかけた。
「時雨様も……霧島と、何か関わりがおありなのですか」
長い沈黙。
時雨さんは炎から目を逸らさないまま、低い声で答えた。
「……昔の話だ」
「……」
「今は関係ねぇ」
それ以上は何も言わなかった。
俺は追求しなかった。時雨さんが話すときになったときに、聞けばいい。今はまだ、その時じゃない。
巴さんも、それ以上は聞かなかった。ただ、時雨さんを見る目に、微かな共感のようなものが浮かんでいた。
◆
翌朝、俺たちは廃屋を出た。
巴さんの足取りはまだおぼつかないが、このまま留まっているわけにはいかない。白蓮の追手が来る可能性がある。
「次の町まで、半日ほど歩きます。大丈夫ですか、巴さん」
「はい、大丈夫です。迷惑をおかけして申し訳ありません」
「迷惑なんかじゃないですよ」
俺たちは街道を歩き始めた。空は晴れ渡り、雲ひとつない青空が広がっている。初夏の陽射しが、肌に心地よかった。
『マスター。気象データを分析しました』
先生の声が、頭の中に響く。
『上空の気圧配置と湿度から判断して、およそ半刻後に局地的な豪雨が予測されます。降水確率は89%です』
俺は空を見上げた。どこからどう見ても、雨が降りそうには見えない。
でも、先生の予測はこれまで外れたことがない。
「時雨さん、巴さん」
俺は二人に声をかけた。
「あと半刻くらいで、雨が降ると思います。どこか雨宿りにできる場所を探しませんか」
巴さんが、きょとんとした顔で俺を見た。
「え? こんなに晴れているのに……ですか?
「はい。急に降ってくると思うので」
時雨さんは俺の言葉を聞いて、黙って頷いた。
「こいつの言う通りにしろ。当たる」
「は、はい……」
巴さんは不思議用な顔をしていたが、俺たちについてきた。
暫く歩くと、街道沿いに小さな東屋を見つけた。旅人のための休憩所らしい。俺たちはそこに入り、腰をおろした。
「本当の降るのでしょうか……」
巴さんが、晴れ渡った空を見上げながら呟いた。
その時だった。
ぽつり、と。俺の頬に冷たいものが当たった。
次の瞬間──空が裂けたかのような轟音とともに、滝のような雨が降り始めた。
「きゃっ……!」
巴さんが小さく悲鳴を上げた。さっきまでの青空が嘘のように、灰色の雲が空を覆っている。
東屋の屋根も、激しい雨粒が叩きつける。一歩でも外に出れば、一瞬でずぶ濡れになるほどの土砂降りだった。
「……嘘」
巴さんが、呆然と俺を見つめていた。
そして、ゆっくりと俺の方を振り返る。その目が、大きく見開かれていた。
「レイ様……」
「あ、いや、これはたまたま……」
「治療の御力だけでなく、天候まで、読まれるのですか……」
巴さんの声が、震えていた。畏怖と歓喜が入り混じった、不思議な響き。
「やはり……やはり、あなた様は……」
「違いますって、これは別に神託とかじゃなくて……」
「神託を、受けておられるのですね……」
もう聞いていなかった。
巴さんの琥珀色の瞳が、キラキラと輝いている。昨日までの迷いが嘘のように、そこには確信の光が宿っていた。
「わたし、確信いたしました」




