12 逃亡者
翌朝、俺たちは次の仕事へ向かって街道を歩いていた。
時雨さんが見つけてきたのは、隣町での荷運びの手伝いらしい。地味だが、確実に金になる仕事だ。何より嬉しいのが、危険な仕事ではなさそうなこと。
右腕もだいぶ動くようになってきたし、これくらいならこなせるだろう。
初夏の陽射しが肌を刺す。額に滲んだ汗が、こめかみを伝って顎から落ちた。
「暑いですね……」
「贅沢言うな。冬よりマシだ」
時雨さんは涼しい顔で歩いている。この人は暑さも寒さも関係ないのだろうか。
街道沿いには麦畑が広がっていた。風が吹くたびに金色の穂が波打ち、乾いた草の匂いが鼻をくすぐる。平和な光景だ。この世界に来て初めて、そんなことを思った。
『マスター。前方三百メートル地点に複数の人影を検知。動きが不規則です』
「……時雨さん」
「分かってる」
時雨さんの目が細くなった。腰の刀に手がかかる。
歩を進めると、声が聞こえてきた。怒声。悲鳴。そして、金属がぶつかり合う音。
街道の先、木立の陰で何かが起きている。
「……追われてるな」
時雨さんが呟いた。
俺たちが近づくと、その光景が目に飛び込んできた。
少女だった。
白い巫女装束が、土と血で茶色く染まっている。長い黒髪は乱れ、頬には擦り傷。荒い呼吸が白く煙り、膝が小刻みに震えていた。
そして、その少女を囲むように、四人の男たちが立っていた。
僧兵だ。剃り上げた頭、墨染めの衣、手には薙刀。時雨さんから聞かされていた、白蓮の僧兵に間違いない。
「もう逃げられんぞ、小娘」
僧兵の一人が、薙刀の切っ先を少女に向けた。
「大人しく縛につけ。聖女様のご慈悲で、苦しまずに逝かせてやる」
「い、いや……」
少女が後ずさる。その足がもつれ、地面に尻餅をついた。こちらを見上げる瞳が、怯えた小動物のように揺れている。
「死にたく、ない……」
その声を聞いた瞬間、俺の足が動いていた。
「零」
時雨さんの声が背中にかかる。でも、止まれなかった。
「助けないと……」
「金にならん。関わるな」
「でも……!」
僧兵が薙刀を振り上げた。少女の細い首に、刃が振り下ろされようとしている。
考えるより先に、俺は叫んでいた。
「やめろ!」
僧兵たちの動きが止まる。四対の目が、俺を射抜いた。
「何だ? 貴様」
「その人を……離してください」
声が震えていた。膝も笑っている。怖い。でも、見捨てられなかった。
「死にたくない」──その言葉が、俺の胸を貫いたから。
「邪魔立てするか。ならば貴様も──」
「やめとけ」
時雨さんの声が、氷のように場を切り裂いた。
いつの間にか、俺の隣に立っている。鯉口を切った刀が、鈍い光を放っていた。
「その女に何の恨みがあるか知らんが、俺の連れに手を出すのなら容赦はしない」
僧兵たちの顔に緊張が走った。時雨さんの纏う空気が変わったのだ。殺気。本物の殺気を、彼らも感じ取ったのだろう。
「……何者だ」
「ただの浪人だ。雇い主のいないな」
時雨さんが一歩前に出る。
「さっさと失せろ。俺は坊主を斬るのは好きじゃねぇんだ。後味が悪い」
僧兵たちが顔を見合わせた。四対一。数では勝っている。だが、時雨さんの気配が、その数字を無意味にしていた。
「……覚えとけよ」
僧兵の一人がそんな捨て台詞を吐き捨て、踵を返した。他の三人も、苦虫を噛み潰したような顔で後に続く。
足音が遠ざかり、やがて静寂が戻った。
「はぁ……」
俺は大きく息を吐いた。膝から力が抜けて、その場に座り込みそうになる。
「ったく」
時雨さんが舌打ちをした。
「勝手に飛び出しやがって。死にてえのか」
「すみません……でも……」
「いいから、そいつを見ろ」
時雨さんの視線を追って、少女の方を見た。
彼女は地面に倒れていた。目を閉じ、荒い息を繰り返している。顔色が悪い。唇が青白く、額には脂汗が浮かんでいた。
「……熱がある」
俺は少女の傍に膝をつき、額に手を当てた。燃えるように熱い。
『マスター。対象の体温は推定39.5度。傷口からの感染症が疑われウマス。早急な処置が必要です』
「時雨さん、この人、かなり具合が悪いです。このままじゃ……」
「知るか。俺たちには関係ねぇ」
「でも……!」
「金もない。礼を言われる筋合いもない。見ず知らずの女に構ってる余裕が、俺たちにあるか?」
正論だった。俺たちは自分が生き延びるので精一杯だ。他人を助ける余裕なんてない。
でも──。
少女の唇が、微かに動いた。
「……たす……け……」
掠れた声。消え入りそうな声。
その瞬間、俺の中で何かが決まった。
「俺、この人を助けたいです」
「……」
「お金にならないのは分かってます。余裕がないのも分かってます。でも……見捨てられない」
時雨さんを真っ直ぐ見つめた。
「理由は何だ? 顔が好みだからか?」
「いや、自分勝手なんですけど……俺と同じように、『死にたくない』って歯を食いしばってる人を、見捨てることなんてできないですよ」
「お願いします、時雨さん」
時雨さんは無言で俺を見下ろしていた。冷たい目。何を考えているのか分からない目。
長い沈黙の後──時雨さんは深いため息をついた。
「……面倒事を拾いやがって」
「時雨さん……!」
「一度だけだ。次はねえぞ」
時雨さんは少女を見下ろし、顎で近くの森を示した。
「あっちに廃屋がある。運べ」
「はい……! ありがとうございます……!」
「礼はいらねぇ。借りにしておく」
俺は少女の体を抱え上げた。軽い。驚くほど軽かった。骨と皮だけのような細さが、腕を通して伝わってくる。
どれだけ逃げてきたのだろう。どれだけ怯えてきたのだろう。
「大丈夫ですよ」
俺は少女に語りかけた。聞こえているか分からない。でも、言わずにはいられなかった。
「もう大丈夫ですから」
少女の瞼が、微かに震えた気がした。
「坊主を斬るのは好きじゃないって言ってましたけど……嫌いなんですか?」
「人を殺すのが好きなやつが、どこにいる」
時雨さんが小さな声で言った。
「時には目的のため、時には自分のため、時には人のために、殺さなければならない。自分なりの正義がないのなら、人を殺すことなんてできない」
「……」
「さっきの僧兵だって、その少女を捕縛することが正義だと信じてやっているんだろう。たとえその先の目的が、殺害だったとしても」
殺害が絶対悪じゃない世界。そんなもの、法治国家で生きる俺には信じられないものだった。
自分を守るためには殺さなければならない。大切には人を守るためには殺さなければならない。
自分が死なないために、殺さなければならない。
命を大切にする気持ちを忘れたくないと思ったが、同時に、いつまでも意気地なしのままではいられないと思った。




