11 遠い日々
右腕の痛みは、だいぶ和らいでいた。添え木はまだ外せないが、軽い作業なら問題ない。あと数日もすれば、完治するだろうと先生は言っていた。
時雨さんは次の仕事を探しに出かけている。俺は街で待機だ。
「暇だな……」
市場をぶらつきながら、俺は呟いた。この世界に来てから、こんな風にのんびり過ごせるのは初めてかもしれない。
『マスター。暇という状態は、生存に余裕がある証拠です。喜ばしいことです』
「まあ、そうなんだけどさ」
露店を冷やかしながら歩く。野菜、干物、布、雑貨。どこにでもある市場の光景だ。
ふと、足が止まった。
路地の隅で、一人の女性が子供の服を繕っていた。五、六歳くらいの男の子が、母親の膝に頭を預けてうとうとしている。
女性は優しい目で子供を見下ろしながら、器用に針を動かしていた。
「……」
その光景が、俺の胸を締めつけた。
脳裏に浮かぶのは、母さんの姿だった。
朝早く起きて、俺の弁当を作ってくれていた背中。制服のボタンが取れた時、夜遅くまで縫い直してくれた手。文句も言わず、黙々と働いて、女手一つで俺を育ててくれたすごい人だ。
『マスター。心拍数が上昇しています。何か問題が?』
「……なんでもないよ」
俺は目を逸らして、その場を離れた。
市場を抜けると、広場に出た。若者たちが数人、輪になって笑い合っている。
何かの賭け事をしているらしい。一人が大げさに悔しがり、周りが囃し立てる。馬鹿みたいに笑い転げている。
俺は、その光景をぼんやりと眺めていた。
修学旅行の夜を思い出す。旅館の部屋で、友達と馬鹿をやっていた。トランプで負けたやつが罰ゲームで変顔をして、みんなで腹を抱えて笑った。
祠に迷い込んだ時も、皆で笑っていたんだ。「ヤバそうじゃね?」って。怖いもの見たさで、ワクワクしながら。
俺のスマホが闇に吸い込まれた瞬間──皆、どんな顔をしたんだろう。俺が消えた後、どうなったんだろう。変わらず時間は進んでいるんだろうなあ。
『マスター?』
「……なんでもない」
俺は広場を後にした。
昼飯に、屋台でするものを買った。具が少ない素朴な味だが、温かくて美味い。
最初の一口を飲んだ瞬間、ふと母さんの味噌汁を思い出した。毎朝、必ず具は豆腐とワカメ。たまに油揚げ。
「毎日同じ味じゃん」と文句を言ったことがある。母さんは「文句あるなら自分で作りなさい」と笑っていた。
今なら何でも食べるよ、母さん。もう一度食べたい。もう一度、あの食卓に座りたい。
「……」
気づけば手が止まっていた。
『マスター。食事中に停止するのは非効率です』
「……分かってる」
俺は残りを一気に流し込んで、椀を返した。
何だか今日は調子が悪い。やはり暇があると、考えると辛いことばかり考えてしまう。
夜、宿に戻ると、時雨さんはまだ帰っていなかった。
俺は布団の上に座り込み、ぼんやりと窓の外を見ていた。星が瞬いている。この世界の星は、地球と配置が違うらしい。先生が前にそう言っていた。
当たり前だ。ここは地球じゃない。俺の知っている世界じゃない。
「……」
胸の奥が、じくじくと痛んだ。
がらり、と戸が開いた。時雨さんが戻ってきたらしい。
「おう。起きてたか」
「おかえりなさい」
「仕事は見つけた。明日から動くぞ」
「わかりました」
時雨さんは刀を壁に立てかけ、どかりと座り込んだ。俺の顔をちらりと見て、眉をひそめる。
「……何かあったか」
「いえ、別に」
「嘘が下手だな、お前」
「……」
図星だった。俺は思わず下を向く。
沈黙が流れる。時雨さんは何も言わず、俺が口を開くのを待っているようだった。
「……時雨さんって」
「あ?」
「俺と会う前って、どんな暮らししてたんですか」
「なんだ急に」
「いや、なんとなく気になって」
時雨さんは少し間を置いて、天井を見上げた。
「……似たようなもんだ」
「似たような?」
「一人で、あてもなく歩いてた。仕事を探して、飯を食って、寝て、また歩く。その繰り返しだ」
「……」
「弥助たちと別れてからは、ずっとそうだった」
弥助。あの日、時雨さんが斬った人。かつての仲間。
「……寂しく、なかったんですか」
聞いてから、踏み込みすぎたかと後悔した。でも時雨さんは怒らなかった。
「……慣れた」
「……」
「人は大抵のことに慣れる。寂しさも、痛みも、空腹も。慣れなきゃ生きていけねぇからな」
時雨さんの声は淡々としていた。感情を押し殺しているのか、本当に何も感じていないのか、俺には分からなかった。
「……お前は何だ。故郷が恋しいか」
「……はい」
気づいたら、言葉が溢れていた。
「母さんが、一人で待ってるんです」
「……」
「父さんは俺が小さい頃に死んで……だから母さん、俺しかいなくて」
「……」
「俺がいなくなって、今頃どれだけ心配してるか考えると……」
喉が詰まった。目頭が熱くなる。
「帰りたいです。でも、帰り方が分からない」
情けない声だった。泣きそうな声だった。でも止められなかった。
時雨さんは黙って俺の話を聞いていた。慰めの言葉も、励ましの言葉もない。ただ、静かに。
長い沈黙の後、時雨さんがぽつりと呟いた。
「……俺には帰る場所なんてねぇよ」
「……」
「仕えた主は死んだ。仲間も散り散りだ。故郷なんてもんは、とうに捨てた」
時雨さんは窓の外を見ていた。その横顔は、どこか寂しげに見えた。
「でもな」
「……」
「帰りたい場所があるってのは多分、悪いことじゃねぇ」
俺は顔を上げた。
「帰りたいから、生きようとする。会いたいから、死ねない」
時雨さんが、ゆっくりとこちらを向いた。
「そういうのがあるやつは、強いんだよ」
「……」
「俺にはそれがねぇから。お前を少し羨ましく思う」
羨ましい。
どんな苦しいことも淡々とこなして、常に冷静な時雨さんの口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。
「時雨さんって……何歳ですか」
「あ? 十八だよ」
「え……?」
高校二年生の俺と、たったニ歳しか離れていなかった。それなのに、こんなに大人で、こんなに現実が見えていて、こんなに強いんだ。
「俺……十六です」
「だからどうした。それくらいの歳だとは思っていた」
時雨さんを見る俺の目が、恐怖ではなく尊敬に変わった。
俺がのうのうと生きていた十数年間で、この人はどんな修羅場をくぐり抜けてきたのか、想像もできなかった。
「……俺は、お前の親代わりにはなれねぇ。なる気も、なる資格もない。……ただ、お前を生かすことくらいならできる」
「時雨さん……」
「……寝ろ。明日から仕事だ」
時雨さんはそっぽを向いて、布団を被った。会話は終わりということらしい。
俺は天井を見上げた。
帰りたい場所がある。会いたい人がいる。それが──強さになる。
時雨さんにそう言われて、少しだけ救われた気がした。
俺は弱い。泣き虫で、戦えなくて、情けない。でも「帰りたい」という気持ちだけは、誰にも負けない。
生きて帰るよ、母さん。
帰る方法があるのかも分からないけど、俺はとにかく、この世界で生き延びなければいけない。




