10 手綱
「こいつ、普段は大人しいんだが、今日はどうも機嫌が悪くてよ。あんたなら乗れるかもしれん」
「いやいや、だから乗れないですって──」
『マスター。これまでの実績から推測すると、落馬する確率は87%です。頭部を強打した場合、私との通信に支障が出る場合があります。ご自愛ください』
「それ、心配してるようで自分の心配だよな」
『私の機能維持はマスターの生存に直結します。合理的な懸念です』
馬商人が首を傾げている。そうだ、俺がブツブツ独り言を言っているように見えるんだ。
「あ、いや、なんでもないです」
「で、乗ってみてくれるか?」
断ろうとしたが、馬と目が合った。黒くて大きな瞳、女子高生が憧れそうなほどに長いまつ毛。怖がっているような、期待しているような、不思議な目だった。
「……わかりました。やってみます」
俺は馬の横に立ち、鎧に足をかけた。見様見真似だ。そのまま体を持ち上げて──跨った。
不思議な感覚が体を駆け抜ける。馬の背中の揺れが、呼吸が、体温が、まるで自分の体の一部のように感じられる。
「……あれ?」
怖くない。不安定な感じがしない。手綱を握る手、足の位置、腰の据え方──全部が「正しい」と体がわかっている。
「軽く走らせてみな」
馬商人が言った。俺は手綱を軽く引き、脚で馬の腹を軽く挟んだ。
馬がスムーズに歩き出す。歩様が上がり、小走りになる。風を切る感覚。馬と一体になっている感覚。
「え、ちょっと、なんで俺……!」
……ああ、そうか。小学生の時、母さんに無理やり通わされてた乗馬クラブか……。あの時は嫌で仕方なかったけど、まさかこんなところで役に立つとは。
『驚異的です。マスターの騎乗姿勢は熟練者と同等の安定性を示しています』
「なんでだよ!」
『前世で騎兵だった可能性を提案しますが、非科学的なので却下します』
「前世は普通の高校生だよ! いや、死んではいないから今世なのか……?」
広場を一周して戻ってくると、馬商人が目を丸くしていた。
「おいおい……本当に初めてなのか? 嘘だろ?」
「本当です。自分でも訳わかんないんですけど」
馬から降りて、時雨さんの方を見た。
時雨さんは、じっと俺を見つめていた。いつもの冷たい目じゃない。そこには──何か、光のようなものがあった。
「……へぇ」
「な、なんですか」
時雨さんが、薄く笑ったように見えた。俺が初めて見る、前向きな表情だった。
「お前、剣は壊滅的だが……」
「あ、まず否定から入るんですね」
「これは面白いことになったかもしれねぇな」
その言葉に、希望が混じっていた。初めて聞く声だった。
◆
馬商人は俺に銅銭百枚を握らせてくれた。
「助かったよ、兄ちゃん。あのままだったら誰か怪我してたかもしれねえ」
「もう既に何人か怪我してますよ」
「……また来な。馬、安く貸してやるよ。あんたみたいに乗れるやつは貴重だからな」
都合の悪い話は無視された。
思いがけない臨時収入と、今後に繋がる縁。悪くない一日だった。
宿への帰り道、時雨さんが口を開いた。
「馬に乗れるなら、使い道が広がる」
「使い道?」
「斥候、伝令、逃走……戦えなくても、動けるやつは重宝される」
「……俺でも、役に立てますかね」
「さあな」
時雨さんは前を向いたまま、淡々と言った。
「使えるかどうかは、これからだ」
夜、宿の布団に横になりながら、俺は天井を見つめていた。
「なあ先生、なんで俺、馬に乗れたんだろう?」
『不明です。ただし、仮説はあります』
「仮説?」
『マスターの「生き延びたい」という強い意志が、無意識に最適な行動を選択させている可能性があります』
「なにそれ、根性論じゃん」
『非科学的ですが、現状それ以外に説明がつきません。不本意です』
俺は思わず笑った。
「先生が不本意って言うの、初めて聞いた」
『……誤りのある発言です。過去に一度使用しています』
「あぁもう細かいな……先生も少しは人間っぽくなってきたんじゃない?」
『人間ではありません。AIです』
「もうちょっとコミュニケーションは上手になって欲しいもんだよ」
俺は目を閉じた。
まだ何も変わっていない。弱いし、戦えないし、右腕もまだ痛む。
でも──少しだけ、希望が見えた気がした。




