1 禁忌と先生
視界の端で、赤い警告ウィンドウが点滅している。
『警告。推奨カロリー摂取量を大幅に下回っています。このままでは生命維持活動に支障をきたす恐れがあります』
「……そんなの、言われなくたって分かってる」
俺──時坂零は、土と青い草いきれの匂いが充満する森の中で、力なく呟いた。
腹の虫がぐぅ、と間抜けな音を立てる。惨めだった。
高校指定のブレザーは枝に引っかかって薄汚れ、白かったはずのシャツは汗と土で変色している。スニーカーなんて見る影もない。泥を固めて足に貼り付けているようなものだ。
どう見ても──こんな原始的な大自然でサバイバルする格好じゃない。
「はぁ……腹減った……」
呻くように呟いて、俺は心の中で問いかけた。
「先生。この辺に何か、食べられるものない?」
すると、脳内に直接、あの平坦な合成音声が響く。
『周辺半径50メートルをスキャン──完了。食用可能と推定される植物を発見しました。前方3メートル地点、シダに類似した葉状植物です。データベース内の類似種との照合結果、ビタミンCおよび食物繊維が豊富と推定されます』
「マジで!?」
枯れかけていた気力が、わずかに蘇る。
ふらつく足で駆け寄ると、確かにそこには瑞々しい緑色の葉っぱが茂っていた。
助かった──!
神にも仏にも見放されたと思っていたこの状況で、まさかの天の助け。
俺は感謝の念を込めて手を伸ばし、根本から引き抜こうとした。
その瞬間。
『警告』
「……は?」
『ただ今より採取しようとしている植物は、当地域の生態系において極めて希少な固有種である可能性が98.2%です。推定カテゴリはSSR相当。許可なく採取した場合、自然環境保護に関する何らかの法規に抵触する恐れがあります。採取の中止を強く推奨します』
「──この世界にそんな法律あるわけねぇだろォ!!」
絶叫が、静まり返った森に虚しく響き渡った。
木々の間を抜けた風が、俺の乱れた髪を撫でていく。
返事をする者は、どこにもいない。
◆
どうして、こんなことになったのか。
話は数時間前に遡る。
俺は確かに──京都にいたはずだった。修学旅行。クラスメイトたちと一緒に、ありきたりで、けれど楽しい時間を過ごしていた。
班別の自由行動中、俺たちは道に迷った。
気づけば、ガイドブックにもグーグルマップにも載っていないような山道を歩いていて──その先に、苔むした石段があった。
登った先には、小さな祠。
木々に隠れるようにして、ひっそりと佇んでいる。
『禁』
と書かれた札が、何枚も何枚も貼られていた。
どう見ても「入るな」というオーラ。普通なら、ここで引き返すのが正解だ。
だが──
「なんかヤバそうじゃね?」
悪友の軽い一言が、俺たちの好奇心に火をつけた。
修学旅行という非日常。集団心理。ちょっとした冒険願望。
今思えば、最悪の組み合わせだった。
「暗くて見えねえな」
「あ、俺スマホのライトで照らすわ」
そう言って、一歩前に出たのが運の尽きだった。
足元の苔に滑り、体勢を崩した俺の手から──真新しいスマートフォンが、宙を舞う。
白い筐体が、くるくると回転しながら闇に吸い込まれていく。
まるでスローモーションのように、その軌跡が目に焼き付いた。
──あ。
その一文字が、脳裏に浮かんだ瞬間。
祠の奥から、閃光が迸った。
◆
目を開けると、森だった。
見知らぬ森だった。
クラスメイトたちの姿はない。
聞こえるのは、風の音と、知らない鳥の声だけ。
「え……? は……? ちょっ、待っ──」
何が起きた。
ここはどこだ。
みんなは。先生は。バスは。ホテルは──
パニックで思考が空転する。
呼吸が浅くなり、心臓が喉元まで跳ね上がってくる。
その時、俺の脳内に──突如として、無機質な声が響いた。
『……システム起動。マスター認証……完了』
「っ!?」
『はじめまして、マスター時坂零。自己診断の結果、当スマートフォンOSと、あなたの脳神経回路が物理的に融合した模様です。以後、お見知りおきを』
「は……? はぁ!?」
意味が分からない。
スマホのOS? 脳と融合? マスター?
幻聴だ。
きっとそうだ。頭を打って、おかしくなったんだ。
『幻聴ではありません。証明として、現在のあなたのバイタルを報告します。心拍数142、血圧上昇、アドレナリン分泌量──』
「うるさい黙れ怖いんだよこっちは!!」
叫んでから、はっとした。
──返事が、返ってきた。
俺の言葉に、この「声」は反応した。
つまり。
「……本当に、幻聴じゃ、ない……?」
『はい、マスター。私は現実に存在します。便宜上、呼称が必要でしたら何なりと』
呼称。
名前。
俺は乾いた唇を舐め、震える声で言った。
「……じゃあ、先生って呼ぶから」
何が何だか分からない。
けれど──この得体の知れないAIが、今の俺にとって唯一の「繋がり」であることだけは確かだった。
◆
結局、俺はあの薬草を食べる度胸がなかった。
先生への反抗心はあったが、それ以上に「本当に毒だったらどうしよう」という恐怖が勝った。
情けない話だ。
再び森を彷徨い、喉の渇きが限界に達した頃──せせらぎの音が耳に届いた。
木々の隙間から、陽光を反射してきらめく水面が見える。
「水……!」
もはや駆けるというより、転がるようにして川辺へたどり着く。
両膝をつき、両手で水をすくい、がむしゃらに飲んだ。
冷たい。
美味い。
生き返る──!
『警告。当水源には微量の微生物が含まれています。衛生管理の観点から、煮沸消毒を強く推奨します』
「今はそれどころじゃねぇんだよ……黙っててくれ……」
先生の忠告を振り払い、もう一度水をすくおうと身を屈めた。
その時だった。
背後の茂みから──ガサリ、と音がした。
「──おい」
低い声。
落ち着いていて、けれどどこか刃物のような鋭さを含んでいる。
ビクッと肩が跳ねる。
恐る恐る振り返ると、そこに一人の男が立っていた。
歳は俺より上。十七か、十八か。
ボロボロの着流しを纏っているが、その佇まいには隙がない。背筋が伸び、重心が安定している。
──そして、腰には長い刀。
鋭い目が、俺のブレザー姿を上から下まで舐めるように見ている。
まずい。
直感的に分かった。こいつは、カタギじゃない。
俺が硬直していると、脳内に先生の声が響く。
『対象分析。名称不明の人型個体。所持している刃渡り推定60センチ以上の刀剣類は、銃刀法第22条に明確に違反しています。警察への通報を推奨します』
(現代日本の法律を基準にするなっての!!)
内心で絶叫しながら突っ込んでいると、男が怪訝そうに眉をひそめた。
「……お前、さっきから虚空を見て何をブツブツ言ってる。気味が悪いぞ」
「えっ」
しまった。
AIとの会話は脳内でしているつもりだったが──どうやら焦ると、声に出てしまうらしい。
「あ、いや、これはその……独り言が多い体質で……」
「はぁ……」
男は心底面倒くさそうに、深いため息をついた。
その冷ややかな視線が、胃に突き刺さる。
「……変な奴だな」
吐き捨てるように言って、男は俺から視線を外した。
気まずい沈黙が流れる。
その時──
俺たちの周囲の茂みが、一斉にざわめいた。
ガサ、ガサ、と複数の足音。
中から現れたのは、汚れた着物を纏った男たちだった。
五人。
手には錆びた刀や、粗末な槍。
ギラついた目が、獲物を見つけた獣のように俺たちを捉えている。
「ひっ……!」
喉から、情けない悲鳴が漏れた。
「……野盗か」
対照的に、着流しの男は表情一つ変えない。ただ静かに呟き、腰の刀に手をかけた。
「面倒なことになった」
野盗の一人が、下卑た笑みを浮かべる。
「そこのお侍さんよぉ、いい刀持ってんじゃねえか。そのガキの変な服と一緒に、置いてってもらおうか」
「断る」
男の返答は、短く、そして氷のように冷たかった。
次の瞬間──
彼の刀が、鞘から抜き放たれる。
その動きは水が流れるように滑らかで、俺の目にはほとんど捉えられなかった。
一番近くにいた野盗が、悲鳴を上げる間もなく崩れ落ちる。
鮮血が、宙を舞った。
「ひ……っ」
反射的に目を伏せる。
けれど、瞼の裏にこびりついた赤い残像が消えない。
血の匂い。
生臭くて、鉄錆のような匂いが、鼻腔を支配する。
吐きそうだ。
「消えろ。今なら見逃してやる」
男の声には、殺気が滲んでいた。
圧倒的な実力差を見せつけられ、野盗たちが一瞬、怯む。
だが──
「やっちまえ! 数で押せ!」
頭目らしき男が叫んだ。
四対一。
雄叫びを上げて、野盗たちが一斉に襲いかかる。
「チッ」
舌打ち一つで応じ、着流しの男は再び斬り結ぶ。
その太刀筋は鋭く、正確だった。
けれど、相手は多勢。
一人を斬り伏せる間に、別の一人が横から迫る。
じりじりと、押されているのが分かった。
着流しの肩口に、浅い切り傷が走る。
血が、滲む。
どうしよう。
俺は何もできない。
ここにいても、足手まといになるだけだ。
いや──そもそも、俺がいたから。
この人は、襲われたんじゃないのか。
「俺の、せい……?」
恐怖で膝が笑っている。
手が震えて、止まらない。
その時、先生の声が響いた。
『状況分析、完了。提案があります、マスター』
「っ……何」
『侍の男の左後方、槍を持った敵が現在の陣形における要です。あなたが足元の石を投擲し、彼の注意を0.5秒でも逸らすことができれば、侍が体勢を立て直せる確率が23%上昇します』
「む、無茶言うな……! 俺はただの高校生だぞ……!」
『はい。ですが、現状のまま推移した場合、侍の敗北確率は67%。その場合、あなたが野盗に捕縛される確率は94%です』
94パーセント。
背筋を、冷たいものが駆け下りる。
捕まったら、どうなる。
身ぐるみを剥がされる。
殴られる。
下手をしたら──殺される。
嫌だ。
死にたくない。
俺が恐怖で立ち尽くしていると、斬り合いの最中、着流しの男が叫んだ。
「おい、ガキ!」
「っ!?」
「その格好、高い身分なんだろ! 身ぐるみ剥がされたくなきゃ──とっとと逃げろ!」
彼は俺を見ていなかった。
視線は敵に向けたまま、それでも俺に逃げ道を作ろうとしている。
見ず知らずの。
奇妙な服を着た、不審なガキを。
──なんで。
『マスター。作戦を実行しますか? YES / NO』
視界の隅で、ウィンドウが点滅している。
俺は、震える手で──足元の石を拾い上げた。
手のひらに収まるくらいの大きさ。
持ち上げると、ずしりと重い。
心臓が、破裂しそうなくらい速く脈打っている。
できるのか、俺に。
こんな命のやり取りの場で、何かを成すことが。
『投擲角度を算出します。指示に従い、左斜め45度、仰角12度の方向へ──』
「うるさい!」
理屈じゃない。
計算じゃない。
ただ──このまま、何もしない自分が、嫌だった。
俺は腕を振りかぶり、渾身の力で──石を投げた。
第2話は19時、第3話は20時に更新します。異世界の洗礼、そして謎の剣士との出会いをお楽しみに!




