スピンオフ短編 『雨に消えた蛙』 ―魔女視点―
願いごとなんて、千も万も見てきた。
欲望にまみれたもの、哀れな勘違い、子供の身勝手、神頼みの延長。
そのほとんどは「叶えたあと」に後悔する。
けれど、あの蛙だけは――
ただ、一つの命に恋をしていた。
見返りも望まず、触れることすらためらいながら、
それでも“もう一度だけ会いたい”と願った。
「……だから、私は力を貸した」
代償は、恋を語れば消えること。
厳しすぎる? ふふ、それは違う。
“恋”を語らない限り、人でいることすら許されないのがこの世界の理。
私は、ほんの少しだけ――それを“緩めてやった”のだ。
彼は律儀だった。
声をかけず、触れず、言葉を飲み込み、
ただ隣で、笑っていただけ。
そんなにも苦しい姿を見て、
私は少しだけ、胸が痛んだ。
……魔女なのに、ね。
そして彼は、恋を語った。
私は見ていた。
少年の姿が雨に融け、
空気のなかに想いを託して、
少女の手のひらに、光の雫を残して――
「おまえ、本当に愚かだね。でも……いい恋だった」
私はひとりごちた。
その足元に、小さな蛙が一匹、ぴたりと横たわっていた。
動かない。けれど、死んでもいない。
――消えたのではない。
彼は、ただ“戻った”のだ。
最初の姿に。最初の世界に。
恋の苦しみを経て、ほんの少しだけ、大きくなって。
私はその蛙を手に取り、森の奥の静かな泉へと運んだ。
水面の光が揺れるなか、彼をそっと沈める。
「次に恋をするときは、もう少し上手にね。
……でも、きっと君はまた同じように、恋をするんだろうね」
私は指先で、蛙の背に祝福を描いた。
ささやかな魔法――**“記憶の欠片”**を、その心に封じて。
いつかまた、少女がその泉を訪れ、蛙と出会うことがあったなら。
そのとき、すべてはまた、別のかたちで巡るだろう。
何度でも、恋は生まれる。
そのたびに、少しずつ、何かを残して――
私は杖をつき、闇の森をあとにした。
風が吹き、空が鳴き、雨が再び降り出す。
その雨音の奥に、恋に泣いた蛙の声が、ほんの少しだけ、響いていた。
(了)
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あとがき(読者向け)
このスピンオフは、「恋を語れば消える」という条件の裏にある、
“実は消えていなかった”という優しい真実と、魔女なりの慈悲を描いたものです。
「蛙の恋煩い」は、悲恋で終わったわけではないのかもしれません。
ただ、ほんの少し回り道をしただけで――いつかまた、雨の下で彼らは再び出会うかもしれない。