最終章:君のためなら、消えてもいい
風の強い午後だった。
空は灰色、雨の匂いが街に満ちていた。
予報にはなかったはずの、突然の通り雨。
公園のベンチに、少女と青年が座っていた。
雨音は、じっと彼を見つめていた。
「ねえ、アマネお兄さんって……ほんとは、誰なの?」
彼は驚かなかった。
もう、そう聞かれる日は来るだろうと、どこかで覚悟していた。
雨音は続けた。
「わたしね……夢を見るの。雨の中で、あなたがわたしを見てる夢」
「あなたの声は、雨の音みたいに、優しくて、泣いてるみたいで……」
彼は黙っていた。
けれどその瞳には、もう隠しきれない“別れ”の気配があった。
少女の手が、彼の手に触れた。
彼の手は、冷たく湿っていた。まるで、もう人間ではないかのように。
「あなた、蛙だったんでしょう?」
その言葉に、彼の肩が震えた。
「わたし、覚えてるよ。小さな水たまりで、助けたあの日。
あなたの瞳が、今と同じだったから……きっとって、思ったの」
彼は、微笑んだ。
静かに、雨の中で。
そして、決して言ってはいけない言葉を、口にした。
「ありがとう、雨音さん。あの日、あなたに恋をしました」
風が止まり、空気が震えた。
彼の姿が、ふわりと揺らぐ。
輪郭が、光とともににじみ、形を失い始める。
少女の手が、彼の手を強く握る。
「やだ……やだよ、消えないで……!」
「あなたが誰でもいい!蛙でも、人でも、私の大切な人だよ!」
彼の表情は、穏やかだった。
苦しみも、迷いも、そこにはもうなかった。
「――君に会えて、幸せだった」
そう言い残し、彼は雨のように消えた。
まるで、その存在そのものが、雨に溶けるように。
少女の手のひらには、小さな雨粒のような宝石が残されていた。
それは、彼の“想い”の結晶だった。
それからというもの、雨音は不思議なことに気づくようになる。
雨の日だけ、どこかで聞こえる声。
ぽつ、ぽつ、と傘に落ちる音が、まるで“優しい誰か”の囁きのように響くこと。
彼女は微笑む。
空を見上げて、そっとつぶやく。
「……聞こえてるよ、アマネさん」
「わたしも、恋をしてたよ」
空には、静かに雨が降り続いていた。
――蛙の恋煩いは、終わりを告げた。
けれど、想いはきっと、雨とともに永遠に寄り添い続ける。
(完)
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あとがき
「もし蛙が、人に恋をしたら――」
そんな一途で儚い想いが、物語のきっかけでした。
恋を語れば、消えてしまう。
それでも、伝えたかった言葉がありました。
この物語が、誰かの“優しさ”の記憶に残れば幸いです。
読んでくださり、ありがとうございました。
次回
スピンオフ
『魔女視点』蛙のその後を執筆
ご期待ください。