第一章:雨音と、蛙と
雨の降る午後だった。
まだ梅雨が明けきらない、灰色の空。
静かな道の片隅、小さな水たまりの中で、一匹の蛙が身を縮めていた。
跳ねようとしても、思うように身体が動かない。
誰にも気づかれないまま、このまま冷たい雨に沈んでしまうのか――
そんな諦めが心をよぎったその時だった。
「あ……蛙さん、大丈夫?」
声と同時に、頭上にふわりと影が落ちた。
薄桃色の傘。その下から、やさしい瞳が覗いていた。
少女だった。
まだ十にも満たない、小さな子。
大きなランドセルと、黄色いレインコート。
濡れた前髪が額に貼りつき、それでも彼女はにこりと笑っていた。
「こんなとこにいたら、車にひかれちゃうよ。気をつけるんだよ。小さいんだからねっ」
少女の手がそっと伸びて、蛙を包み込んだ。
ちいさな手のひらは、温かかった。
ふわっと、体が浮いた気がした。
泥と水と冷たさから切り離されて、柔らかな空気に包まれる。
「よいしょっと」
少女は道ばたの植え込みに、蛙をそっと置いた。
濡れた葉の上、少し高い位置。そこなら車も届かない。
そして、もう一度微笑んで言った。
「じゃあね、蛙さん。がんばって生きるんだよ」
そう言い残して、彼女は行ってしまった。
蛙は、動けなかった。
ただその場で、じっと少女の背中を見送っていた。
心臓が、どくん、と跳ねた。
鼓膜の奥に、あの声が繰り返し響いた。
「小さいんだからねっ」
その言葉は、なぜか嬉しくて、誇らしくて、泣きたくなるほどやさしかった。
蛙は――その瞬間に、恋をした。
彼女の声に、瞳に、心に。
名も知らぬ少女に。
雨の中で手を差し伸べてくれた、たった一人の人間に。
だが、自分は――蛙だ。
泥にまみれ、濡れた葉に隠れて生きる、ちっぽけな命。
声をかけても届かない。
笑いかけたところで、気づかれない。
このままでは、二度と会うこともできない。
それでも、蛙は思った。
「……もう一度、あの子に会いたい」
「できるなら、人間になりたい」
その願いが、届くとは思っていなかった。
けれど、蛙の前に現れたのは――**“魔女”**だった。