第3話 規律と理不尽の化学反応
体育館での再会後:二人の余韻
静まり返った校舎を歩く山田歩。夕陽が廊下を赤く染め、その足音だけが響いている。キャリア説明会での光景が頭をよぎり、彼の胸中には苛立ちとも言えぬ感情が渦巻いていた。
(魔堂零士――ゼルドリス……。あの男が平然とあんな場に立つなんて)
壇上に立つ零士の姿。異世界で彼が見せた冷酷な微笑と、今この世界での落ち着いた佇まいが重なり合う。歩はその違和感を拭えないでいた。
あの頃――ゼルドリスは、歩にとって「絶対的な悪」の象徴だった。魔王として君臨し、恐怖を力にして人々を支配するその姿。あの背後には、誰もが逆らえない圧倒的な存在感があった。
だが今の零士はどうだろう。スーツを着こなし、笑顔を浮かべながら「未来を語る男」――歩にはそれが許せなかった。
(変わった? 馴染んだ? そんなわけがない。きっと何かを隠しているんだ)
歩は足を止め、校舎を振り返った。オレンジ色に染まる建物の窓の向こうでは、生徒たちの笑い声が聞こえる。その笑顔を守りたい。だが、最近では規則を巡る生徒たちの反発と、SNSトラブルが絶えない。
(規則を守らせる。それが平和を保つ唯一の道だ)
自分に言い聞かせるようにそう思う。しかし、どこか胸の奥がざわついていた。
翌日の放課後、風紀委員会の会議室には重い空気が漂っていた。机の上には、生徒たちのSNSトラブルをまとめた資料が無造作に広げられている。その中で、山田歩は真剣な表情で資料を手に取った。
「……これは……」
スクリーンショットに映る言葉の数々。そこには、クラスメイトを揶揄するような投稿や、他人を煽るコメントが羅列されている。
「“〇〇はマジでウザい”とか、“あいつの秘密、暴露しちゃおっかな~”とか。完全にデマですよね」
副委員長の真島エリカがタブレットをスクロールしながら言う。その声には呆れと疲労が混じっていた。
「こんな行為、絶対に許されるものではない。即刻罰を与えるべきだ」
歩の声には怒りが滲んでいる。握りしめた拳が小さく震えているのを、エリカは気づいていた。
「でも、厳しくするだけじゃ逆効果なんですよ。“魔王”なんて呼ばれてるのに」
エリカがそう呟くと、歩の表情が一瞬強張った。
「魔王……?」
「委員長が怖いからですよ。規則を盾にしてガンガン攻めてくる感じ、ちょっと魔王っぽいって」
エリカの苦笑に、歩は思わず眉をひそめた。
(魔王と呼ばれるなど、屈辱だ。それに、規則を守らせることがなぜ悪い?)
だがエリカは続けた。
「意外と親しみを込めてるみたいですよ。“頼れる魔王”とか、“委員長の言うこと、結局正しい”とか」
「……そんなことを」
歩の硬い表情が一瞬だけ緩む。しかし、それも束の間だった。
「規則は平和を守るための基盤だ。それを守らなければ、この学校は乱れる」
「でも、それだけじゃ生徒の気持ちは動きませんよ。委員長、もう少し柔らかくしたらどうです?」
柔らかく――その言葉が胸に刺さった。異世界では敵を倒せば正義は成り立った。しかし、この世界ではその「敵」が曖昧で、どこか頼りない。歩は資料に視線を落とし、何も言えずにいた。
一方その頃、魔堂零士はオフィスで電話対応に追われていた。蛍光灯の白い光が無機質に部屋を照らし、彼の無表情な横顔を浮かび上がらせている。
「今すぐ責任者を出せ! 俺は納得してないんだ!」
電話越しの怒声が、まるで会議室全体に響いているかのようだった。
零士は一瞬目を閉じ、短い息を吐いた。
「お客様、その件につきましては、事実確認の上で適切な対応を行います。ただ、現在の段階では――」
「言い訳するな! 客は王様なんだぞ!」
その言葉に、零士の目がわずかに細められた。
「王を名乗るならば、その振る舞いもまた王にふさわしいものであるべきです」
電話越しの相手が一瞬黙る。しかしすぐに再び怒声が飛び交う。
「おい、それどういう意味だ! 俺を馬鹿にしてるのか!」
「いいえ。ただ、王としての品格を示す機会を逃していると思ったまでです」
背後で聞いていた部下の藤崎翔太が、思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえていた。
「係長、相変わらずズバッと言いますよね。でも……なんだかんだ、助かります」
「必要な時に必要な言葉を発する。それ以上のことをする必要はない」
零士の声は冷静だったが、その目の奥にはかつての異世界での記憶がちらついていた。
(異世界では、力で全てをねじ伏せられた。だが、この世界は違う。理性と……奇妙な説得力が必要とされる世界だ)
電話を切った零士は、椅子にもたれながら天井を見上げた。その視線の先には、理不尽な現実への苛立ちとわずかな戸惑いが滲んでいた。