第1話 闇の管理職
昼下がりのオフィス。窓越しに見えるビル群の灰色が、無機質な空間を一層重苦しく染め上げている。冷房の効きすぎた室内は肌寒いくらいで、社員たちはそれぞれのデスクに張り付き、黙々とキーボードを叩いている。
魔堂零士はその一角、経理課のデスクに座っていた。かつて異世界を恐怖で統治した魔王ゼルドリスである彼は、ここではごく平凡な「係長」として働いていた。いや、「平凡」と呼ぶには彼の存在感は異質すぎた。整ったスーツ姿で佇む彼は、まるでどこかのダークヒーローが社会人に扮しているようだった。
目の前のパソコン画面には、無数の数字が並ぶ。Excelのセルが零士を嘲笑うかのように光っている。彼は眉間に深い皺を刻みながら、一本一本の数字を読み解いていた。
「売上がこれでは、帝国の財政も危機だ……」
低く呟いた彼の声は、デスクを挟んだ隣席の藤崎翔太の耳に届いた。翔太は24歳、社会人2年目の若手社員だ。その柔らかな茶髪と親しみやすい笑顔は、職場のムードメーカーとして人気を集めている。
「係長、また帝国とか言ってるんすか?」
翔太はニヤリと笑いながら声をかけた。零士の独特な発言にはすっかり慣れていたが、それがどこか非現実的な雰囲気を漂わせることに気づかないわけではない。
零士は彼に視線を向けることなく、冷静に答えた。
「私は真実を語っているだけだ。士気を取り戻さなければ、この部隊……いや、チームは崩壊する」
「いやいや、売上が崩壊するだけでチームは元気っすよ。むしろ今の数字見てる方がメンタル削られますけどね」
翔太は冗談めかして肩をすくめたが、零士の表情は変わらない。それどころか、彼はデスクに置かれた黒いペンを手に取り、戦略会議のような真剣な目つきで机上に数字を書き始めた。
「……敵の補給線を断ち、我が陣営に優位を築く必要がある。まずは支出を削減し、次に――」
「係長?」
翔太が呼びかけると、零士は手を止め、ペンを握ったまま藤崎をじっと見つめた。
「藤崎、君に命ずる。この会議資料を今すぐに全体へ共有し、意識改革を促すのだ」
「命ずる……いや、指示するって言えばいいんじゃないですか?」
翔太は苦笑いを浮かべた。零士が何気なく使う古風な言い回しは、同僚たちの間でもちょっとした話題になっていた。
零士は椅子に深く腰掛け、遠い過去を思い出していた。彼の中には、いまだに鮮烈な異世界の記憶が刻み込まれている。
暗黒の城砦。その中心に座る彼の前には、膝をついた兵士たちが並んでいた。「魔王ゼルドリス」として、圧倒的な力とカリスマ性で支配していた日々――それが彼の誇りだった。彼の一声で何千もの兵が動き、命を惜しまずに戦場へ向かった。
「士気がすべてだ。指揮官の意志が弱ければ、部隊は瓦解する」
それがゼルドリスの信念だった。しかし、現代社会においてはどうだろう? 部下たちは「信頼」という目に見えない絆を求め、理不尽な命令には耳を貸さない。力で服従させることもできなければ、絶対的なカリスマだけで人々を動かすこともできない。
彼は、パソコン画面に映るグラフを睨みながら苦笑した。
(かつての私が、こんな雑務に追われるとはな……)
昼休み、零士は冷えた缶コーヒーを片手に休憩室の片隅に座っていた。壁にかかった古いカレンダーの隣には、社員たちのスケジュールがぎっしりと書き込まれている。彼はその雑然とした光景を見つめながら、思わずため息をついた。
「今日も深刻そうですね、魔堂係長」
ふと、穏やかな声が聞こえた。振り返ると、人事部の篠宮優香が立っていた。彼女は黒のタイトスカートと白いブラウスというきちんとした服装で、知的な雰囲気を漂わせている。
「深刻でない日はない」
零士は短く答え、コーヒーを一口飲んだ。その顔はいつも通り無表情だったが、どこか疲れが滲んでいる。
篠宮はその様子を観察するようにじっと見つめた。彼女は零士の言動や雰囲気に違和感を覚えながらも、どこか興味を引かれていた。
「係長、出身はどこなんですか?」
篠宮の問いに、零士はわずかに眉を動かした。
「……深淵より」
篠宮はその答えに少し困惑したが、咄嗟に微笑みで切り返した。
「なるほど……深淵、ですか。なんだか詩的ですね」
零士はそれ以上何も言わなかったが、心の中でつぶやいた。
(何を隠そう、この私が深淵そのものだ)